天津は北京、上海、重慶と並ぶ、中国4大直轄市の1つである。
しかし、他の都市ほどには知られていない。
少なくとも北京、上海ほどには、この地の歴史や街の様子が。
かくいう私も天津のことは皆無と言っていいほど知らなかった。
天津と聞いて唯一想像するのは天津甘栗のみ。
だから随分田舎(農村)だろうと思っていた。
ところが北京旅行の最後の日に天津の街に来てはじめてこの都市の歴史、地理等が分かったのだから、なんともお恥ずかしい限りだ。
第一、天津が北京とこんなに近いとは思わなかった(車で約2時間、高速鉄道なら30分、距離にして約120km)。
中国に行くたびに遭遇するのは街の変貌。
上海は街の生い立ちからして中国というより西洋式で、最近ますますそうなっている。
一方、北京は中国の伝統的な建築物などがまだ多く残っているが、それらの大半は紫禁城などの歴史的な大建築物で、庶民の生活を伺い知れる建物は胡同(ふーとん)などしか残ってない。
10年余り前まではちょっと裏通りに入れば歴史的な建物を結構目にすることができたが、それらも中国経済発展の影でどんどん取り壊され、北京オリンピックの前までに徹底的に破壊され、新しい近代建築物に取って替えられた。
その結果、北京は現在の東京のようになりつつある。
早い話が中国の都市としての個性を失い、無国籍都市になりつつある。
東京をはじめとした日本の各都市のように。
天津はそれでもまだ古い中国の歴史を感じさせる都市である。
天津の街を特徴付けているのは9カ国の租界があったこと。
各租界跡は現在でも分かるが、それらのすべてが残っているわけではない。
日本租界はもともと建築物が中途半端なものが多かったこともあり、現在では見る影もないが、イタリア租界、オーストリア租界跡にはまだ往時を偲ばせる建築物が多少残っている。
とはいえ、オーストリア租界跡に残っている歴史的な建築物は袁世凱の旧居跡と馮国璋の旧居跡、そしてオーストリア領事館跡ぐらいだ。
それらは文化財として保存されているわけではなく、現在はレストランになっている。
しかも外壁などは新しく改修されているので、古い建築物というよりは最近建てられたもののように見えるのが残念だ。
中国らしい街並みを観るなら古文化街だが、古文化街と海河(ハイホー)を挟んで反対側にあるのがオーストリア租界跡で、この河の上にかかっているのが金湯橋。
この橋は鉄で出来ていたことから難攻不落を意味する金湯橋と名付けられたようだ。
橋のたもとには戦車、野戦砲などが展示されているが、これらは実際に使われた本物。
天津は国共内戦時に激しい戦闘が行われた場所で、人民解放軍がこの地で国民政府軍を破り、北京(当時の名称は北平)に侵攻。
中国では天津の戦闘のことを平津戦役と呼び、遼瀋戦役、淮海戦役と並び「三大戦役」の1つになっている。
平津戦役を記念し、現在に残す歴史的遺産として金湯橋のふもとに当時使われた戦車、野戦砲の展示、さらに解放軍兵士の銅像が建てられている。
しかし、いま、中国の若者ですらそのことをあまり知らないのではないだろうか。
もちろん、日本から中国に行き、現在天津に住んでいる若者で、そのことに関心を示す者は皆無に近いだろう。
道路標識には右が天津駅、上(後方)は勝利路と記されている。
「勝利路」という名称に往時の戦役を偲ぶことができる。
袁世凱旧宅など天津の写真はブログ「栗野的風景」の方にアップしているので、そちらもご覧ください。
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