(息抜きにどうぞ)
先日、ナンパされた! と言っても誰も信じてくれないどころか、「なにをバカなことを言っている、ナンパしたのはお前の方だろう」と言われるのがオチだろう。だが、冗談でも何でもなく、ごく「真面目」に誘われたのだ。それも妙齢の女性2人に、福岡市舞鶴公園で。
その日は舞鶴公園に「思いのまま」を撮りに出かけた。「思いのまま」とは梅の種類で、1本の木に紅梅と白梅が混じって咲いたり、あるいは年によって紅梅だったり白梅だったりと思いのまま、まさに咲きたいように咲く梅の木だが、注意してみないと普通の梅の木と思って見過ごしてしまう。(「思いのまま」の写真は「栗野的風景」にアップ)
◆梅にウグイス
花見といえば最近は桜を見ることを言うのが一般的になっているが、昔は観梅のことだった。それだけに梅の種類も多い。大きくは梅の実を収穫するのを目的にした実(み)梅と、花を鑑賞して楽しむために作った梅が花梅に分かれるが、前者は白梅がほとんど。見るには白梅だけでなく紅梅系が入っている方が楽しめる。
梅農園が収穫目的の白梅なのに対し、各地の梅公園は当初から観梅目的に植えられているから色とりどりの花が多い。目立つのは一際濃い紅いろの鹿児島紅(べに)やピンク色のしだれ梅。同じくピンク系でも色香が漂い、品を感じさせるのが楊貴妃。楊貴妃は桜の種類にもあるが、やはりピンク色で、こちらも八重。傾城の美女と言われた楊貴妃を彷彿とさせる花で、命名者も絶世の美女を作り出したかったのだろう。
この他にも種類が多く個人的に名前が気に入っているのは白梅系の「鶯宿梅(おうしゅくばい)」。誰が命名したのか知らないが、ウグイスの宿とはなんとも風流ではないか。花札の梅にウグイスはこの鶯宿梅が元になっている。名前の由来は次の故事から。
村上天皇の時代、と言ってもよく分からないと思うが、「土佐日記」で有名な紀貫之が生きた時代といえば、なんとなく想像がつく。御所清涼殿の梅が枯れたため、村上天皇が従者に命じて、きれいな花を咲かせる梅の木を探してこさせた。すると枝に短冊が結ばれ「勅なればいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答へむ」と和歌が詠まれていた。
天皇のご命令ですから梅の木は差し出しますが、この梅の木を宿にしているウグイスがやってきて、私の宿はどうしたのですかと問われたら、なんと答えればいいのでしょう、というような意味である。
その和歌を読んだ天皇は驚いて、この梅はどこから持ってきたのかと問うと、紀貫之の娘、紀内侍(きのないし)の「住む所なりけり」と「大鏡」に載っている。
では実際、梅に鶯がやってくるのかといえば、梅が開花した時期よりずっと後、葉が茂った頃に虫をついばみに来るようで、梅の花に鶯はあくまで見た目重視の設定。今風に言えばビジュアル的にいいから作ったというところだろう。この時期にやって来るのはメジロで、その姿はよく見かける。鶯は「声はすれども姿は見せず」と言われるぐらいだからその姿を見ることはなかなか難しい。少なくとも私はまだ一度も見たことがない。
◆「思いのまま」は変わり梅
それはさておき、舞鶴公園の「思いのまま」は9分9厘白梅。よほど目を凝らして探さないと変わり花は見つからない。それだけに見つけた人は皆感動するようだ。なんといっても1輪の花に花弁が紅白斑になって咲いているから珍しい。斑というがより正確には紅白が半々、ちょうど左右に分かれたように咲いているのだ。(写真はブログ「栗野的風景」にアップ)
「思いのまま」を撮り終え、他の枝にやってきたヒヨドリを片目で追いながらベンチで一休みしていた時、冒頭の女性2人が側に立ち、話しかけてきたのだ。こういう時に声を掛けてくる女性は大抵写真か梅に興味がある人だ。ところが、このご婦人達はどちらにもさほど興味がなさそうだった。
問われるままに「そうですね、もう満開は過ぎましたね。でも、あそこに思いのままという梅が咲いていますよ」と返事をしても、そちらに行こうともせず、こちらの傍らに立ったまま動かない。おい、おい、まさかナンパか、という思いが一瞬頭を過ぎったが、ナンパにしては雰囲気が違う。
写真でも観梅でもナンパでもなければ何が目的なのか、相手が話しかけてきた意図が分からない。こういう場合はさっさと状況を変える必要がある。というわけで「紅白半々に咲いている花を教えましょうか」と、そちらへ案内して、再びヒヨドリの姿を追う。ところが、それでも私の側を離れない。こうなると興味の対象は花ではなく、私自身だということが分かる。
◆営業と宗教活動の共通点
「聖書を読まれたことがありますか」。ついに来た。やはりナンパ目的だった。ただナンパはナンパでも宗教への勧誘のようだが。
相手の手に乗らない方法は2つ。1つは「一切興味がありません」と拒否の姿勢を示し、その場を後にすることだ。少しでも話をすれば必ず相手のペースにはまっていく。
もう1つは話を常に擦れ違わせ、相手の土俵に乗らないことだ。
「聖書、読んだことがありますよ。学生時代に、英語で」「いや、英語の勉強のためですよ」「キリストもブッダもマホメットも皆同じようなことを言っていますよ。それぞれ素晴らしいですね」「どの宗教も弟子や後世の人がそれぞれ解釈するから宗派が色々分かれるでしょ。キリスト教など12人の弟子ですでに違ったわけですから」「いまの法王は好きですよ。貧者に寄り添った初めての法王ですから」。
攻撃は最大の防御。相手の言葉よりこちらの言葉の方が多く、しかもカメラを覗きながら返事をしていれば、さすがに相手もこちらが話題に興味がないのだと悟る。
「ものみの塔ってご存じですか」。ついに相手は目的を明らかにした。「ああ、知っていますよ。家にもよく来ますよ。皆さん熱心ですね。感心しますよ」
これでジ・エンドだ。これ以上話してもダメだと思い、ご婦人達は去って行った。
それにしても熱心な人達である。公園で見ず知らずの相手にいきなり話しかけてくるのだからそれなりの勇気もいるだろうし、相手を立ち止まらせ話を聞かせる話法も必要になる。キャッチセールスと似ていると言えば怒られそうだが、飛び込み営業と基本は同じだ。
しかも、彼女達のセールストークは模範的でもある。営業成績が上がらない人達には学ばせたいぐらいだ。そうすれば会社の営業成績は間違いなくアップするに違いない。
彼女達と別れた後、そんな妄想をしていた。神の名の下に仕事経験もない人を「営業」の達人へと変身させる宗教は素晴らしくもあるが、一歩間違えばオウム真理教のようにもなる怖さも内包している。信心と狂信は紙一重ということか。
先日、ナンパされた! と言っても誰も信じてくれないどころか、「なにをバカなことを言っている、ナンパしたのはお前の方だろう」と言われるのがオチだろう。だが、冗談でも何でもなく、ごく「真面目」に誘われたのだ。それも妙齢の女性2人に、福岡市舞鶴公園で。
その日は舞鶴公園に「思いのまま」を撮りに出かけた。「思いのまま」とは梅の種類で、1本の木に紅梅と白梅が混じって咲いたり、あるいは年によって紅梅だったり白梅だったりと思いのまま、まさに咲きたいように咲く梅の木だが、注意してみないと普通の梅の木と思って見過ごしてしまう。(「思いのまま」の写真は「栗野的風景」にアップ)
◆梅にウグイス
花見といえば最近は桜を見ることを言うのが一般的になっているが、昔は観梅のことだった。それだけに梅の種類も多い。大きくは梅の実を収穫するのを目的にした実(み)梅と、花を鑑賞して楽しむために作った梅が花梅に分かれるが、前者は白梅がほとんど。見るには白梅だけでなく紅梅系が入っている方が楽しめる。
梅農園が収穫目的の白梅なのに対し、各地の梅公園は当初から観梅目的に植えられているから色とりどりの花が多い。目立つのは一際濃い紅いろの鹿児島紅(べに)やピンク色のしだれ梅。同じくピンク系でも色香が漂い、品を感じさせるのが楊貴妃。楊貴妃は桜の種類にもあるが、やはりピンク色で、こちらも八重。傾城の美女と言われた楊貴妃を彷彿とさせる花で、命名者も絶世の美女を作り出したかったのだろう。
この他にも種類が多く個人的に名前が気に入っているのは白梅系の「鶯宿梅(おうしゅくばい)」。誰が命名したのか知らないが、ウグイスの宿とはなんとも風流ではないか。花札の梅にウグイスはこの鶯宿梅が元になっている。名前の由来は次の故事から。
村上天皇の時代、と言ってもよく分からないと思うが、「土佐日記」で有名な紀貫之が生きた時代といえば、なんとなく想像がつく。御所清涼殿の梅が枯れたため、村上天皇が従者に命じて、きれいな花を咲かせる梅の木を探してこさせた。すると枝に短冊が結ばれ「勅なればいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答へむ」と和歌が詠まれていた。
天皇のご命令ですから梅の木は差し出しますが、この梅の木を宿にしているウグイスがやってきて、私の宿はどうしたのですかと問われたら、なんと答えればいいのでしょう、というような意味である。
その和歌を読んだ天皇は驚いて、この梅はどこから持ってきたのかと問うと、紀貫之の娘、紀内侍(きのないし)の「住む所なりけり」と「大鏡」に載っている。
では実際、梅に鶯がやってくるのかといえば、梅が開花した時期よりずっと後、葉が茂った頃に虫をついばみに来るようで、梅の花に鶯はあくまで見た目重視の設定。今風に言えばビジュアル的にいいから作ったというところだろう。この時期にやって来るのはメジロで、その姿はよく見かける。鶯は「声はすれども姿は見せず」と言われるぐらいだからその姿を見ることはなかなか難しい。少なくとも私はまだ一度も見たことがない。
◆「思いのまま」は変わり梅
それはさておき、舞鶴公園の「思いのまま」は9分9厘白梅。よほど目を凝らして探さないと変わり花は見つからない。それだけに見つけた人は皆感動するようだ。なんといっても1輪の花に花弁が紅白斑になって咲いているから珍しい。斑というがより正確には紅白が半々、ちょうど左右に分かれたように咲いているのだ。(写真はブログ「栗野的風景」にアップ)
「思いのまま」を撮り終え、他の枝にやってきたヒヨドリを片目で追いながらベンチで一休みしていた時、冒頭の女性2人が側に立ち、話しかけてきたのだ。こういう時に声を掛けてくる女性は大抵写真か梅に興味がある人だ。ところが、このご婦人達はどちらにもさほど興味がなさそうだった。
問われるままに「そうですね、もう満開は過ぎましたね。でも、あそこに思いのままという梅が咲いていますよ」と返事をしても、そちらに行こうともせず、こちらの傍らに立ったまま動かない。おい、おい、まさかナンパか、という思いが一瞬頭を過ぎったが、ナンパにしては雰囲気が違う。
写真でも観梅でもナンパでもなければ何が目的なのか、相手が話しかけてきた意図が分からない。こういう場合はさっさと状況を変える必要がある。というわけで「紅白半々に咲いている花を教えましょうか」と、そちらへ案内して、再びヒヨドリの姿を追う。ところが、それでも私の側を離れない。こうなると興味の対象は花ではなく、私自身だということが分かる。
◆営業と宗教活動の共通点
「聖書を読まれたことがありますか」。ついに来た。やはりナンパ目的だった。ただナンパはナンパでも宗教への勧誘のようだが。
相手の手に乗らない方法は2つ。1つは「一切興味がありません」と拒否の姿勢を示し、その場を後にすることだ。少しでも話をすれば必ず相手のペースにはまっていく。
もう1つは話を常に擦れ違わせ、相手の土俵に乗らないことだ。
「聖書、読んだことがありますよ。学生時代に、英語で」「いや、英語の勉強のためですよ」「キリストもブッダもマホメットも皆同じようなことを言っていますよ。それぞれ素晴らしいですね」「どの宗教も弟子や後世の人がそれぞれ解釈するから宗派が色々分かれるでしょ。キリスト教など12人の弟子ですでに違ったわけですから」「いまの法王は好きですよ。貧者に寄り添った初めての法王ですから」。
攻撃は最大の防御。相手の言葉よりこちらの言葉の方が多く、しかもカメラを覗きながら返事をしていれば、さすがに相手もこちらが話題に興味がないのだと悟る。
「ものみの塔ってご存じですか」。ついに相手は目的を明らかにした。「ああ、知っていますよ。家にもよく来ますよ。皆さん熱心ですね。感心しますよ」
これでジ・エンドだ。これ以上話してもダメだと思い、ご婦人達は去って行った。
それにしても熱心な人達である。公園で見ず知らずの相手にいきなり話しかけてくるのだからそれなりの勇気もいるだろうし、相手を立ち止まらせ話を聞かせる話法も必要になる。キャッチセールスと似ていると言えば怒られそうだが、飛び込み営業と基本は同じだ。
しかも、彼女達のセールストークは模範的でもある。営業成績が上がらない人達には学ばせたいぐらいだ。そうすれば会社の営業成績は間違いなくアップするに違いない。
彼女達と別れた後、そんな妄想をしていた。神の名の下に仕事経験もない人を「営業」の達人へと変身させる宗教は素晴らしくもあるが、一歩間違えばオウム真理教のようにもなる怖さも内包している。信心と狂信は紙一重ということか。