栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

2枚のSIMは同時に使えない、デュアルSIMフリースマホ。

2014-12-31 21:03:29 | 視点
 問題なのはデュアルSIMがデュアル機能を最大限に生かしきれないという点である。
せっかくSIMが2枚あるのだから、2枚のSIMを同時に使いたい、あるいは同時に使えるものと思っていると、そうではない。使う時はシングルSIMとしてしか使えないのだ。

 こう言ってもピンと来ないかもしれないが、次のようなシーンを思い浮かべて欲しい。
 友人と待ち合わせをすることになり、その場所を互いにスマホで話しながら確認、ということはままあることだろう。
「何丁目何番地に○○のコンビニがある。そこから南に少し歩くと○○があるのが分かる?」と問われ、地図アプリを起ち上げて確認。
「ああ、分かった。その先の角を右に曲がって3軒目の店だね」
 こういうやり取りを電話をしながら行う時、一般的なスマホの場合は電話を切ることなく地図アプリを起ち上げて確認することができる。

 ところがデュアルSIMスマホでは、通話用SIMとデータ専用SIMの同時使用ができないから、SIM1(通話用)とSIM2(データ専用)を手動で切り替えなければならないのだ。

 上記のような場面はそう頻繁には起きないかもしれない。
だが、データ専用SIMでインターネットに接続した後、通話用SIMに切り替えずにいると、電話がかかってきても繋がらない(呼び出し音すら聞こえない)。
電話ができるようにするためには通話用SIMに切り替える必要がある。
これを忘れると「いつ電話をしてもつながらない」と苦情を言われることになる。

 私の場合はほとんどケータイ、時々ネット接続という使い方だから、いつもは通話用SIMのスイッチをオンにし、ネット接続する時のみデータ専用SIMに切り替える使い方でまったく不都合を感じてない。

 もちろん毎回、SIMの切り替えを手動で行う必要はなく、自動で切り替えもできるようになっている。とはいえ5分おきにだが。
それでもこのオート切り替え機能を使えば、電話もデータ受信も逃すことがないだろう。

 実はコヴィアのデュアルSIMスマホを選んだ理由の一つはSIMの切り替えアプリが付いていたからだ。デュアルSIMスマホを取り扱っているところは複数社あるが、なかにはSIMの切り替えがワンタッチではなくツータッチ以上のところもあるから、SIM切り替えアプリが付いているかどうかは案外重要かもわからない。






デュアルSIMの使い方

2014-12-29 20:01:33 | 視点
 低価格スマホ選びで重視したのはデュアルSIM対応。
既述したが、デュアルSIMスマホなら買ってもいいと思ったわけで、そうでなければケータイから替えていなかった。
 ではデュアルSIMとは一体なにか。どのようなメリットがあるのか。
デュアルとは2つという意味で、デュアルSIMとはSIMスロットが2箇所あり、サイズが違うSIMを2枚差せる。

 実はこれ、海外、特に中国やインドなどによく旅行する人には非常に便利で、一方のスロットに日本国内でいままで使っているSIMを、もう一方のスロットに中国など旅行先で買ったSIMを差せば、海外旅行中に日本国内の電話も、旅行先の電話も使えることになる。要は端末を2台持ち歩かなくても済むわけだ。
 これと同じことを日本国内でできるのがデュアルSIMのメリットである。
といっても日本国内で海外の電波を使うということではない。
フィーチャーフォン(ケータイ)とデータ通信専用スマホの2台持ちを1台で済ませられるのだ。

 私の場合は1つのSIMカードスロットにいままで使っていたソフトバンクのケータイに差さっているSIMを抜いて差しかえ、もう1箇所のスロットにデータ専用SIMを差している。
 データ専用SIMはビッグローブ、日本通信、ニフティ等々様々なところから、それこそ様々なプランが出ているが、検討したのはビッグローブとワイヤレスゲートのSIM(ヨドバシカメラオリジナル)。
両社ともWi-Fiスポットが利用できるのが特徴で、最終的に選んだのはワイヤレスゲートの480円プラン。
ヨドバシカメラでコヴィアのスマホとのセットで3,000円安くなっていたからだ。

 実はスマホにケータイのSIMを差し込むだけで、無線LAN環境がある場所なら、例えば自分の家とか事務所に無線LANがあれば、データ通信用SIMを差し込まなくてもスマホとして使えるから面白い。
いわばWi-Fiタブレットにケータイ機能を加えたような感じだ。
これなら小型タブレットは必要ないかもしれない。

 外出時はどうするんだ、と言われそうだが、そのためにデータ専用SIMを買い、スマホに差し込むわけで、ヨドバシの月480円プランのSIMを差し、試してみた。
 毎月の利用料が1コインで済む激安プラン。
ただし低速。その代わり利用制限なしだから使い放題。
仮に自分の使い方に合ってないと思えば解約すれば済む。
その場合でもキャリアの契約のように2年縛りで解約金が発生するということもない(SIMフリーでも年縛りや解約金が発生する会社やプランもあるので要確認)。





設定はすべて自己責任

 ケータイとスマホのいいとこ取りのようにも見えるデュアルSIMスマホだがデメリットもある。
 スマホ本体が高速回線のLTEに非対応で、FOMAと同じ3G対応ということはすでに述べたが、その他にも各種設定を自分でしなければならないという煩わしさがある。
ドコモやau等の店頭で30分余り待っていれば、すべての設定をして渡してくれるわけではない。
それはネット通販で買おうが量販店で買おうが変わらない。
 アプリ(ソフト)もほとんど入ってない。
余分なアプリがなくスッキリしている分、自分で「Playストア」からダウンロードして入れなければならない。
こういう作業を煩わしいと考える人にはSIMフリースマホは向いていないだろう。

 当然、設定途中で分からないことがあればインターネット等で自分で調べなければならない。
ちょっとショップに持っていって尋ねるというわけにはいかないし、アフターサービスもそれほど期待できない。
要はほとんどすべて自己責任で行わないといけないのだ。
 といっても、それほど難しいことでもないが、やはり迷うこともある。
事実、私もいくつかの点でミスを犯した。
しかも、そのうち一つは取り返しがつかないミスで、スマホ本体の買い替えを覚悟したほどだったが、メーカー、販売店の対応が実によくて買い替えなくて済んだのは幸運だった。

 次にSIMの選び方。
キャリアでスマホを買う場合は店頭で機種を選びさえすれば後はSIMの存在を意識することもなく、すべて設定して渡してくれるがSIMフリースマホはスマホ本体と別にSIMも選ばなければならない。
 その場合に注意しなければいけないのがSIMのサイズである。
SIMには標準サイズとマイクロサイズがあり、このサイズを間違えて買うと交換がきかない。
つまりもう一度買い直すしかないのだ。

 デュアルSIMスマホにはSIMスロットが2箇所あり、片方が標準サイズ、もう一方がマイクロサイズ用スロットになっている。
どちらにデータ専用SIMを差しても問題ないが、問題はケータイSIMとは別のサイズを買うこと。
 ソフトバンクのケータイには標準サイズのSIMが差さっていたので、データ専用SIMはマイクロサイズのものを買う。これでOK。
 あとはSIMを使えるようにするためにAPNの設定と申し込み手続きをするだけだ。
申し込み手続きの方は簡単で、クレジットカード決済をするための手続きが中心になる。
ちょっと戸惑ったのはAPN設定。
ワイヤレスゲートのSIMが入っているケースに方法が書いてあったが、スマホの設定画面と一部順序が逆になっていたりと少しヒヤヒヤだったが、まあなんとか無事終わった。
 事前にネットで設定方法を検索し調べておくか、設定中にすぐ調べられるようにしておくことも必要かも。







デュアルSIMフリースマホで利用料は月3000円内に納まる。

2014-12-28 16:12:57 | 視点
 スマートフォン(以下スマホ)は必要ない、フィーチャーフォン(従来型の携帯電話。以下ケータイと表記)の方がいいと思っていたが、数か月前にスマホを買った。
と言っても普通のスマホではない。SIMフリーのスマホだ。それもデュアルSIMの。
これが非常にコストパフォーマンスがいい、というより、コストパフォーマンスがいいから買ったのだが。
 SIMフリーと言ってもまだよくご存じない方もいるだろう。
ましてやデュアルSIMともなれば「?」という感じではないだろうか。
 そこで以下、私がデュアルSIMスマホを選んだ理由、デュアルSIMスマホは普通のスマホとどこが違うのか、その使い勝手などをレポートしてみよう。

低価格スマホを購入

 いままでモバイル端末、情報家電の類はいろいろ買ってきた。
こだわったのは携帯性とネットワーク接続で、そのために随分時間と金をムダにした。
PCはまだDOS時代からIBMのThinkPad220(A5サイズ)をはじめ、海外製のミニノート、Windows時代になって東芝リブレット、パナソニックのレッツノート、Asusのネットブック買い求めた。
 さらにワープロ専用機が3,4台にIBMとシャープ製の電子手帳があり、そのほかにデスクトップPC、ノート型PCもそれぞれ複数台所有し、それらをLANで接続していたが、元が取れたと思えるモバイル端末はThinkPad220とAsusのネットブック。
 Asusのネットブックはつい最近まで現役で、旅には必ず持って行ったが、WindowsXPのサポート終了に伴い、使うのを諦めた。
外装もきれいなままで、旅先で撮影した写真のチェックや、メール、ネット接続、原稿書き程度には何ら不自由なく使えていた。
普段から動画などは見ないから、速度が遅いと言われていたネットブックだが、個人的には一度も速度でイラついたことはなかった。




 20年余り様々なモバイル端末、情報家電を使ってきて分かったのは、自分のライフスタイルではこれらの機器に本領を発揮させることはなく、大半は持ち歩くだけで、結果金は溝に捨てたようなものだと分かったから、世の中がスマホだらけになろうと興味を示すことはなく、ガラケーと揶揄されるフィーチャーフォンのケータイを持ち続けてきた。
 それがなぜと言われそうだが、デジモノ好きが頭を持ち上げたからとしか言い様がない。
その代わり投資金額は多くはない。もし使えなかった時、使わなくなった時のことも考えると、せいぜい2万円前後の投資に抑えなければならない。

 結果から言うと初期投資は20,710円(税込み)。スマホ本体とSIMを加えた金額でこれだけだ。
 初期投資以上に問題になるのがランニングコスト。要するにスマホ利用料だ。
ケータイからスマホに替えて利用料が大幅にアップしたとか、ガラケーとスマホの2台持ちが安上がりという話はよく聞いていたが、2台持ちなんて面倒臭いことはまずしたくない。
 通信料はいま利用しているケータイと同程度に抑えたいし、なにより「2年縛り」がないことが条件だった。
それに合致したのがデュアルSIMフリースマホだったのだ。

スマホ利用料は月3,000円以下

 さて、ランニングコストである。
いくら初期投資が安くても毎月の利用料が高ければ問題だが、現在、私が払っているスマホ利用料は毎月2,897円(税込み)だけ。
 この数字を見て驚いた人は多いのではないだろうか。通常のケータイ利用でも毎月4,000円以上かかるのに、スマホ利用でその料金はありえない、と。

 からくりはこうだ。といっても「からくり」などないのだが。
今年後半はキャリア各社が「通話料定額制」を打ち出したことにより、以前より通話料が下がってきた。ただ、これはそれ程通話しない人にはかえって割高になるプランではあるが、とりあえず私は「通話料定額制」に変更。
 その結果、定額通話料2,200円(税抜き、ソフトバンクの場合)に消費税等を加えて2,379円。これがケータイの通話料で、スマホに替えても変わってない。

 えっ、それはおかしい、という声が聞こえてきそうだが、それに対しては後程答えるとして、後は通信料だ。
 要するにスマホでネットを見たり、Eメールのやり取りをする時のデータ料(パケット通信料)だが、これが毎月480円(税抜き)。この2つを足して毎月払っている総額が2,379円+518円=2,897円。
 ケータイからスマホに替えたが払っている料金はこれだけ。
早い話がSIMフリーのデータ通信料480円が増えただけだ。

 買ったスマホは(株)コヴィアのデュアルSIMスマホ「FLEAZ F5」。選んだ理由はデュアルSIM対応だから。
デュアルSIMスマホはほかにもフリービット(株)やプラスワン・マーケティング(株)など複数社が取り扱っているが、コヴィアのスマホを選んだのはサイズ。
 最近、スマホが大きくなる傾向にあるが、希望は4.5インチサイズの画面。
それ以上だと持ちにくいし、すでに7インチサイズのタブレット、Nexsus7を所有していたから、同じようなサイズのものなら二重になる。
 そこで希望サイズに近く、その他の機能や使い勝手もよさそうなコヴィアの5インチサイズスマホ「FLEAZ F5」を選んだというわけ。

 低価格スマホを買う場合、なにもかも求めるわけにはいかず、妥協が必要になる。
例えばカメラ機能。
最近のスマホは映りがよくなっており、1,000万画素を超えるものが普通になりつつあるが、低価格スマホは500-800万画素というところ。
「FLEAZ F5」は500万画素でカメラ機能は不満(少し前までは500万画素と言えば高画素だったのだが)だったが、ケータイの時もカメラはメモ代わりに使う程度だったので、この点は妥協した。

 次に回線速度。低価格スマホは概してLTEに対応してないから回線速度を重視する人には向かないかも。低価格スマホの多くはLTE未対応で3G回線対応だからだ。
 私の場合は速度より繋がりやすさを重視したので、ドコモのFOMAと同じ範囲が繋がることの方が重要で、これも不満点にはならなかった。
 というようなわけで、細かい点を見ていけば1世代前のスマホかもしれないが、私にはいずれも許容範囲内に十分納まっていた。






著名人の訃報が相次いだ2015年

2014-12-19 16:01:34 | 視点
 年の瀬になると増えるのが喪中はがき。
今年は少ないだろうと勝手に思っていたが、案に相違して逆に多かった。

 ところで、この喪中はがき、私は一度も出したことがない。
父の時は暮れも押し迫った25日に亡くなったということもあり、いつも通りに出した。
すでに投函した後だったということではない。
その頃は年末ギリギリか年が明けてから年賀状を書いていたので、いつも通りに出した。
妻の時もそうだった。

 玄関に「忌中」と張り出すこともしなかった。
我が家は仏教と違い神道だから、死後は神様として祭られる。
「忌」はない。
すべて祭りである。

だから、喪中はがきを出さない、というわけではない。
喪には服すが、それはごくごく私的な、内々のことで、敢えて人様にお知らせする程のことではないと思っているだけだ。
それともう一つは、「今年は年賀状が1通も来なくて寂しかった」という声を過去に聞いたことがあるからだ。

 それにしてもいつ頃から喪中はがきを出す風習が広まったのだろうか。
昔からあったわけではない。
広めたのは印刷業界だと耳にしたことがある。
不況で企業からの大口発注が激減した数10年前、業界の生き残り策を模索して個人客の開拓に動き、仕掛けたらしい。
 頭のいい人がいたもので、以後まんまとその策略に乗せられている。
といって、それを非難しているわけではない。
むしろ感心している。
発想を変えればビジネスの種はどこにでもあるものだ、と。

 ところで今年ほど有名人が相次いで亡くなった年はないだろう。
直近だけでも高倉健、羽仁未央、中島啓江、松本健一、菅原文太、呉清源の各氏が他界した。
 羽仁、中島両氏は50代とまだ若かったが、呉清源氏は100歳。囲碁界では有名で棋聖と称された人だ。
羽仁未央氏は羽仁五郎氏のお孫さんで、我々世代にはある種の郷愁を呼ぶ名前。
オペラ歌手の中島啓江さんはずっと「ひろえ」とお読みすると思っていたが、今回はじめて「けいこ」だと知った。
 多少馴染みがないのが松本健一氏ではないだろうか。
私と同世代の大学教授、評論家で、北一輝の研究で早くから知られていた。
民主党政権下で内閣官房参与を務めたから、もしかすると知られているかもしれないが。



安楽死・尊厳死について考える。(3)

2014-12-05 09:22:36 | 視点
グレーゾーンが生まれる

 弟の死は尊厳死、安楽死のどちらだったのか。
安楽死でないことはたしかだが、尊厳死だと言い切れないものもあった。
それはブリタニーさんの死と似た部分、自ら死期を決めたという意味で、があったからだ。

「兄貴にもう一度会ってから」
弟は医師にそうお願いしていた。
その「お願い」の中身が知りたくて医師に尋ねると、起きていると痛みがひどいので、できるだけ寝ていられるようにして欲しいということだったので、そういう注射をすることにしたということです、と打ち明けられた。

 その時は鎮静剤を打つのだろうぐらいに理解していたが「なかなか嫁と子供が了解してくれんかったけど、やっと了解してくれたから」「先生には、兄貴が今週来ると言うてるから、その後始めて欲しい、とお願いした」という言葉に少し引っかかるものがあった。

 確かに痛み止めの貼り薬はほぼ限界枚数に達していたが、それでも妻の時と比べればまだ弟の痛がりようはましなように思えたから、「痛くてたまらんから永久の眠りに就きたい」という言い方は少し大袈裟にも思えた。
 だが、その言葉通りに私と会った翌日から弟は眠ったままになり、1週間後、静かに旅立った。

 弟は延命処置は拒否していたし、弟の求めに応じて私が会いに飛んで行った時はすでに点滴のみで栄養補給している状態だったから骨と皮に近い状態まで痩せており、もって後1か月。2か月もつだろうかと思われた。
それにしてもそれから1週間はちょっと早過ぎる気がした。

 覚悟の尊厳死である。それでも最後に処方された鎮静剤は何だったのだろうかと気になったので、後になって調べたり、家族の話を総合した結果、どうもプロポフォールではなかったのかと推測している。

 プロポフォールは全身麻酔などに使う鎮静剤で、この薬を注射すると意識はあるが、こちらからの呼びかけ等には反応しなくなる。
看護師が「聞こえていますから、お兄さん、話しかけて下さい」と言ったのも納得できる。
ただ、弟にとってはそれは少し意図したところと違っていた部分で、「そうか、話すこともできなくなるんか。それは辛いな」と家族に言ったらしい。
最後まで家族と会話しながら徐々に衰弱していきたかったのだろうが、最終的には痛みから逃れる方を選択したのだった。

 誰もが体中管に繋がれ、機械によって生かされるのは嫌、そこまでして生かされたくはないと思うに違いない。
 しかし、そうならないためには意識があるうちに、自分の意思を伝えておく必要があるのはもちろんだが、今後、薬の発達により尊厳死と安楽死の境界が縮まっていくのではないだろうか。
グレーゾーンともいえる部分が生まれてくるような気がする。
すると、そこに恣意的な部分も働いてくるかもしれない。
恣意性がすべて善でも、すべて悪でもないだろうが、そのチェックをどのようにするのか。
「高い倫理観が求められる」と言うのはたやすいが、「倫理観」も立場によって異なってくる。
患者側に立った倫理観か、家族側に立った倫理観か。
さらには経済性も入ってくる。
 冒頭のブリタニーさんの死が世界中でこうしたことを考えさせる大きなきっかけになったことは間違いないだろう。







ユーグレナ(和名:ミドリムシ)は、光合成によってさまざまな
  栄養素を作りながら、水中を動き回ることもできる
  “植物”と“動物”の特徴を併せ持つ藻類の一種。
  東京大学をはじめ、多くの大学や研究機関で研究が進められている
  注目の栄養素材です。

安楽死・尊厳死について考える。(2)

2014-12-04 11:13:12 | 視点
総論賛成、だが現実的になると

 では、尊厳死の場合はどうか。
これには異論がなさそうに思えるが、ことはそう単純でもない。
「機械に繋がれて生かされたくはない」「延命処置は望まない」
こう言う人は多い。ただし、それは本人が元気な時に、だ。
いざ、その時になると分からない。
人は状況によって変わる。また仮に本人がそう望んだとしても、家族がそれを決断できるかどうかもある。

 卑近な例だが、今夏、叔母が94歳の誕生日を目前にして亡くなった。
すでに1、2年前から寝たきりで、子供達が見舞いに訪れても誰か判断できないような状態だったらしいし、年齢を考えれば天寿の全うである。
誰もがこれ以上の延命処置は望んでいなかったはずだが、いざその瞬間になると子供達の間で意見が分かれた。
病室に駆け付け立ち会った2人は人工呼吸器のスイッチを切ることに同意したが、離れていて、駆け付けられなかった1人は再生処置を施すようにと強固に要求したのだった。

 家族間で意見が分かれると病院側も困るだろう。
では、多数決で、というわけにはいかない。
病院側は家族の同意なくしては装置を外せない。
もし、同意を得ずに外すと、それは安楽死させたことになる。

 それでも家族がいる病人はまだ結論が出せるからいいが、身寄りのない病人が増えていることがいま問題になっている。
意思表示できるうちになんらかの形で意思を明らかにしてもらっていればいいが、病院に搬送された時はすでに意識がないケースが増えているとのこと。
そして今後こうしたケースはますます増えていくことが予想される。
これはとても他人事ではない。明日は我が身かもしれない。

 ところで叔母の場合はどうなったかと言えば、反対していた1人も程なく了解した。
連絡を受けた時は母親への愛情が強かったが故に、感情的に納得できなかったのだろうが、少し時間がたって落ち着いたのだろう。
因みに彼の職業は医師である。いままで同じような場に直面してきたはずである。それでもいざ自分の身に降るかかってくると冷静ではいられなかったということだ。

 このように総論賛成、現実的に自分の身に降りかかると反対ということはよくある。
私も父の死に際して、医師から「脳死」「機械呼吸」「自発呼吸はしてない」というような言葉を聞かされ、装置を外すかどうかを暗に求められた時に、「スイッチを切ってくれ」と母に代わって言ったが、本当にそれでよかったのかどうか、万が一ということはなかったのかと、その後自問し続けた。
 装置を外した後、父の心臓は10分余りも動いていたし、手も足も温かいままだった。
そのことがたまらなかった。
切ったスイッチをもう一度入れて欲しかった。
そうすれば蘇生するのではないか、蘇生したのではないかと思いと、父の生命を奪ったのは私だったのでは、という二重の思いに苛まれた。

安楽死・尊厳死について考える。(1)

2014-12-03 11:02:51 | 視点
 11月1日、一人の女性の死が話題になるとともに様々な議論を呼んだ。
この女性はブリタニー・メイナードさん(29歳)。彼女は脳に悪性腫瘍ができ、医師から余命半年と告げられていた。
まだ結婚1年目である。本来なら未来は一杯あり、いまが人生の最も輝いている時のはずだ。それなのに彼女は末期ガンの宣告を受けただけでなく、激しい痛みに襲われていた。
悩んだ彼女が最後に選んだ道は自ら薬を服用して亡くなる安楽死だった。

 欧米はキリスト教の死生観もあり、アメリカでも安楽死は法的に認められていず、薬を処方したり注射で病人を死に至らしめる行為を行うと罰せられるのは日本と同じだ。
 しかし、州によっては安楽死を認めているところもあるようで、彼女は以前住んでいたサンフランシスコから、州法で安楽死を認めているオレゴン州に移住した後に予告通り安楽死を実行した。

 予告通りと書いたのは、ここに至るまでの経緯説明を含めて動画投稿サイトの「ユーチューブ」に彼女が動画をアップし、その中で11月1日に実行すると予告していたからだ。
このことは当然、アメリカのみならず全世界で様々な議論を呼ぶこととなった。

安楽死と尊厳死は別

 ここではそのことの是非を論ずるつもりはない。
だが、そのことがきっかけで死についてもう一度考えさせられることになったのは事実だ。特に弟の最期について。

 日本では安楽死は認められていないが、尊厳死は認められている。というより全ての死は尊厳死であるべきだろう。
 実はこの2つ、多少混同して、あるいは同意語に近い感覚で使われることがあるようだが、明確に違っている。

 安楽死とは「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で人為的に死なせること」であり、尊厳死は「一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること」である。(「広辞苑」より)

 尊厳死について「広辞苑」は続けて次のように記している。
「近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として、認識されるようになった」。

 以上のことからも分かるように、前者は殺人(人為的に死なせる)であり、後者は自然死である。
当然、前者の行為を行った者、補助した者は法で罰せられる。

 しかし、である。安楽死か尊厳死か、違法か否かという単純な二分法だけでは割り切れないものがあるのも事実だろう。
例えば冒頭の女性、ブリタニーさんの場合、彼女の置かれている境遇に同情し、できれば激痛から救ってあげたいとは誰しも思うのではないだろうか。
その一方で、救ってあげたいけれど死に力を貸すことはできないと。

 ここが難しいところである。
仮に絶対に助かる見込みのない人がいるとして、その人本人から命を絶つことを懇願された場合、人はどうするのか、どうすればいいのか。
それには法律を変える必要があるのか、変えれば済む問題なのか。

 もし、安楽死を法的に認めた場合、どのような問題が生じるのだろうか。
最も危惧されるのはグレーゾーンが増えることだろう。
いままでも医療関係者による安楽死補助が問題にされてきた。
同一人物が何人もの病人を安楽死させていた例もある。

 ここで問題になるのは本人から懇願された結果なのか否か。
もしそうだとすれば、それを証明するものがあるのかどうかだが、それは難しいだろう。
懇願したとされている本人はもうこの世にいないし、書面に書き残してくれていればいいが、第3者の立会いのもとでなければ、書面の有効性が担保されないだろう。

 また恣意的な考えが入り込まないとも限らないし、安楽死に名を借りた殺人も起こりうるかもしれない。
それでなくても最近、金目当てで結婚相手を毒殺したと思える例が日本でも増えているだけに、安楽死を法的に認めることには慎重にならざるを得ない。








トワイライト、太宰府天満宮~菅原文太氏逝去の報に接して

2014-12-01 17:37:43 | 視点


 俳優の菅原文太氏が亡くなり、太宰府天満宮で家族葬も執り行われたというニュースが流れた。

亡くなったのは11月28日とのこと。

このニュースで不思議だったのは「太宰府天満宮で家族葬が執り行われた」という下り。

彼は仙台市出身で、晩年は山梨県に住み有機農業を営んでいると思っていたからだ。

農業に従事しだしたのは2009年以降らしいが、その頃から社会的発言をし始め、それまでは俳優としての

菅原文太氏しか知らなかったので刮目した記憶がある。

東北大震災以後は政治的な活動も目にするようになり、その生き方に賛同もしたものだ。

 今回の訃報に接し感動したというか、羨ましく思ったのは奥様が報道各社に送ったFAXの内容である。

以下全文

 「7年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち『朝に道を聞かば、

夕に死すとも可なり』の心境で日々を過ごしてきたと察しております。

 『落花は枝に還らず』と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。

1つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。

もう1粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、

共に声を上げることでした。

すでに祖霊の1人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。

 恩義ある方々に、何も別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます」

 文太氏の生き方、考えを理解し、きちんと伝えた素晴らしい文面で、羨ましい夫婦だと感じた。

訃報の連絡の場合、通り一遍の挨拶文面が多い中で、異彩を放った文面だと痛く感動した。

こういう伴侶を得ていた文太氏にも納得するとともに羨ましく思った。

私の最期の時にもこれに近い文面を作成してくれる伴侶がいればいいが。

 さて、「太宰府天満宮で家族葬」の下りである。

最近は福岡市に住んでいたとのことだが、いつから、どのようなきっかけで、福岡のどの辺りに

居を構えておられたのだろうか。

残念ながらその辺のことは分からなかった。