リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

和製ジョブスより世界のヤマダでしょ?

2014年05月25日 | 日々の風の吹くまま
いつものようにブックマークしてある20紙近い新聞サイトを巡回していたら、日本の総務省
が「和製ジョブス」の育成を目指す支援事業を始めるという記事があった。情報通信分野で
世界を席巻するような奇抜なアイデアの持ち主に研究費を出すということらしいけど、ふと
「?」と思ったのは何で「和製」ジョブスなのかということ。スティーブ・ジョブスのような人材を
育てたいと言うけど、何か「コピー商品」を作ろうという感じがする。二番煎じでしょ、それ?
何でジョブスを超えるオリジナルの「ヤマダ」を育成しないの?

それにしても日本には「和製○○」とか「日本の○○」が多すぎる。外国の「○○」を日本で
も作った(日本にも似たものがある)ということだろうけど、どうみても「模倣」でしょ?まあ、
「和製英語」という、日本でしか通用しない正真正銘純正の和製「輸入品」もあるけど、役所
が想定するのは「日本製のスティーブ・ジョブス」。はて、お墓の中のジョブスがどう思うかな。
「天上天下唯我独尊のジョブスをマネすんなっ」と怒るのか、それとも「オレは日本がコピー
を作りたがるくらいにすごいんだ」と喜ぶのか。

昨今は特に日本(人)はと声高に誇り高いわりには、アメリカに「アメリカ製ヤマダを育成しよ
う」と思わせるような人材を育てるという発想がないのはどうして?それこそ世界への「和魂
和才」の発信と言えると思うけど、世界で既に名を成したものや人に模して「和製/日本の」
と冠をつける時点で「日本」と言う小さな枠に閉じ込めているということ気付かないのかなあ。
誰もイチローを「和製何とか」とは呼ばないよね。(逆に日本のある選手を「和製イチロー」と
評していた人がいたけど。)だって、イチローはそのうちに「アメリカのイチロー」と呼ばれる
選手が出現するかもしれないワン&オンリーの「イチロー」なんだもの。

日本国総務省も情報通信分野の「イチロー」を育てることを考えるべきだと思うけど、霞が
関のお役人には元からそんな発想はないんだろうな。最近よく、日本の若い人が将来の夢
として語る「イメージ」はメディアで見た既製のイメージで、自分で思い描いたものではないと
感じているんだけど、何だか大外れでもなさそうに思えて来た。「和魂洋才」と横並び主義
が無限の可能性を秘めた「ヤマダ」を「山田金太郎飴」で終わらせているとしたら、もったい
ないこと甚だしい・・・と、思わない?

☆ふるさとは遠くにありて想うものなれど

2014年05月25日 | 日々の風の吹くまま
5月24日。小町の掲示板で最近ちょくちょく見かけるようになったトピックのテーマが「日本に帰りたい」。重度のホームシックで、何年も帰っていない日本に帰りたい。でもお金がなくて帰れない。帰りたいけどお金がないと夫にも両親にも言えないという人がいる。国際結婚らしく、在米7年とか。日本の何もかもが恋しい。老いた親に孫の顔を見せたい。幼い頃の日本の暑い夏の風景(網戸に扇風機、ラジオ体操、花火大会、夏祭り、夜店、蚊取り線香の匂い、イグサの匂い、東京の雑踏、山手線の音楽・・・)が瞼に浮かんで泣けて来る。子供や親の年令からすると、この人はおそらく40代か。日本に帰りたくて、いても立ってもいられないと投稿するのは40代半ばから先の人が多いという印象だけど、女性はそろそろ更年期に入る年頃だから、ホームシックもその影響ではないのかな。

「ホームシック」という焦燥感はワタシにも経験があるからよくわかる。ただし、カレシが州公務員になってビクトリアに移ったときの話で、たった6ヵ月間だったけど恋しかったのは日本じゃなくてバンクーバー。カレシを置き去りにしてでもバンクーバーに帰る!と駄々をこねたワタシ。幸い?カレシもビクトリアが嫌いで、何とかバンクーバーに同じ省の別の部署のポジションを獲得して一緒に帰って来れたんだけど、もうすぐ40年になるカナダ暮らしでワタシがホームシックになったのは後にも先にもあのときの一度だけ。当時は日本を離れて4年とちょっと。生まれ育った日本については「帰りたい」という気持は微塵もなかったのに、バンクーバーとは日帰りできる距離にあるビクトリアで猛烈なホームシック。今考えてみると、住環境が悪かったし、「行政」が主産業の土地では職の選択肢が限られ、「専業主婦」状態が退屈でたまらなかったのが要因かもしれない。(就職の機会は何度かあったけど、まだ「外国籍」だったのでアウト。)

海外での生活の最初の数ヵ月、1年は、留学生も企業の駐在員も移住者も同じで、家族や友達と離れたさびしさや不慣れな日常への苛立ちや疲れからホームシックになるケースが多いだろうな。でも、留学生や駐在員はやがて日本へ帰って、ホームシックも懐かしく思い出せる身分だけど、移住や国際結婚で異国に永住する人たちはそうはいかない。ひと口に「海外」と言っても先進国から開発途上国までピンキリだから、移住先の生活環境や文化習慣にもよるだろうし、膨らませた「期待」の大きさにもよるだろうけど、海外生活に慣れたはずの数年後、十数年後になって、頻繁に里帰りができていた人でさえ取り付かれるらしい「帰りたい病」はホームシックや懐かしさよりもっと根の深い心理的な原因があるように思える。

年齢的な要素もあるだろう。住みついた土地に馴染めなかった、期待と現実の落差が大きすぎた、生活に疲れた、結婚が破綻した、といった要素もあるだろう。海外で何年生活していても「日本では・・・」と言う逆出羽の守だったり、「日本だったらこんなことはないのに・・・」と愚痴っている人は、少なくともワタシにはあまり幸せではなさそうに見える。(ワタシには比べられるほど近い日本の記憶がないから、愚痴は普通のカナダ人の愚痴にしかならないということもあるけど。)移住先の環境との相性が悪ければ悪いほど、心地の良かった祖国の環境がどんどん美化されて行くものらしいから、やがて「もうこんな国は嫌い」という心境になったときに、もっと良い日本に帰りたいという気持になるんだろうな。でも、帰りたくて矢も盾もたまらない「日本」が記憶の中で美化された国なんだったら、帰ってハッピーエンドになる保証はないと思うんだけど。

人間なら誰でも記憶の中に「ふるさと」の原風景があると思うから、懐かしいという感情も誰もが持っているだろうな。ワタシにだって「北海道」という故国があって、生まれ育ったふるさと釧路の風景は今でも懐かしい。夜な夜な子守唄のように聞いていた霧笛。浜での焚き火の潮風と煙の混じった匂い。干してある昆布をちぎって食べて漁師さんに追い払われたこと。ガス(海霧)が押し寄せてくると遊びを中断して家にカーデガンを取りに帰ったこと。みんな黄色のさんま漁船。幣舞橋の下に浮いていた流氷。太平洋いっぱいの豪快な夕焼け。どれもこれも思い出すと懐かしくて胸がじ~んとするワタシの原風景。でも、帰りたいという気持はわいて来ない。なぜって、それはワタシの人生の過去であって、「今」ではないから。今が幸せで、今いる「ここ」から逃げ出したい理由がないから。

ワタシのご先祖さまは明治初期に開拓者として蝦夷地に分け入った人たち。ご先祖さまは後にした故郷を二度と見ることはなかっただろうけど、厳しい開拓作業の中での望郷の念は大変なものだったろうな。じゃがいも飢饉でアメリカに渡ったアイルランド人移民と何かしら通じるところもあるような気がする。(アイルランドの霧に包まれたディングル半島の風景はワタシの原風景そのものだった。)明治の頃にハワイやアメリカ本土に移住した日本人たちは多かれ少なかれ「故郷に錦を飾る」ことを夢にみていて、(アメリカンドリームが生きていた頃に)貯めた金を土地などに投資したりしてやがて巨富を築く日系人が出なかったのはそのためだという話を何かで読んだことがあるけど、望郷の念に浮き足立っている現代の日本人(移民)にとって、持ち帰る「錦」があるとすればどんなものなんだろう。