『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

宝林寺

2013-07-18 08:41:00 | 風景
もしも、一度も
生まれ故郷を出ていなかったら、
自分の過ごしてきたいろいろな処を
懐かしく思ったりしなかったかもしれない、
とふと思った。

故郷を十数年離れ、
そして、再び戻ってきたがゆえか、
はたまた、父親が亡くなった歳に
あと15年と近づいたせいか、
近頃、幼少期を過ごした場所に
時折出かけては懐かしい昔の頃を
思ったりしている。



宝林寺は、
小6までを過ごした柳町時代の
子どもたちの溜まり場、遊び場であった。

大銀杏はいまも健在だが、
幾度も落雷に見舞われて
元の大木の半分ほどになっている。

それでも、子どもの頃
足をかけて登った幹が
いまだに元型を留めている。




今や市の文化財指定になっている
熊野様のお堂は場所が移されたが、
散々遊び場にした処で、
兄は高縁から飛び降りて
膝に大怪我をし、
7針も縫ったことがある。


**************



魂理学随談

神の視座


奈保子 心ある人ならば、なぜ、2万人もの人が、この現代で、自然災害の犠牲にならなくてはならなかったのか、と心を痛め、且つ、素朴に疑問を抱いたのではないでしょうか。
先生 そうですね。至極、真っ当な疑問でしょうね。
奈保子 あの犠牲者の死は、何のためだったのか、という「問い」は形而上的なものですよね。
先生 人間中心原理的には、とてもその答えは見出せないと思いますよ。だから、その視座をより高次の宇宙中心原理、ないしは神中心原理から考慮してみる必要があるでしょうね。 
奈保子 宇宙的な無窮の時間からすれば、私たちの生涯なんかは、瞬間の出来事に過ぎず、一個人の存在もまた、全宇宙の物質、あるいは全生命からみれば微々たるものに過ぎませんね。
先生 そうだね。例えてみれば、一年間のなかでの1秒間よりも短く、全海洋のなかでの一滴の水滴よりも小さいと想像したらどうだろうね。
奈保子 どうしても3・11で2万人が死んだという圧倒的事実に目を奪われていますが、そもそも、「死」を人間中心原理により、忌避するもの、悪いもの、嫌なもの…と、ネガティヴな概念で捕らえる所から誤謬を犯しているのかもしれませんね。
先生 いいところに気がついたね。そうなんですよ。神の視座からは、「死と生」は状態の違いでしかなく、それは、磁石のNとS、電気の+と-のように、広く宇宙に存在する対立状態であり、どちらかに価値があるというものではないんじゃないでしょうか。
奈保子 なるほど。そうかもしれませんね。
先生 かつて、航空機事故史上の大惨事だった日航ジャンボ機事故で、教え子のお父さんが亡くなったので、その子のカウンセリングをしたことがあるんですが、その際、たくさんの遺族文集を見せてもらったなかに幼い子の手記を見て、ハッとしたことがあるんです。
 それは『かみさまへ』というものでした。

 かみさま
 なぜぼくのおとうさんしんだんですか。
 ぼくにはわかりません。
 でもぼくがしんだらわかるよね。

 子どもの直感は、この世的な視座からでは不条理な出来事は理解し得ず、あの世的な視座をもって、はじめて全体性のなかで了解可能なことがある、ということを見抜いているんですよ。
奈保子 なんだか感動的な詩ですね。
先生 でしょ。はたして、3・11で身内を亡くされた方々が、こういう気持ちに辿り着けたか…と、思いましたね。
奈保子 現代人は、科学的実証主義に思考やライフスタイルが偏向しているので、魂の存在や、霊、神、という目に見えぬものを入れ込んで、あるいは信じて、世界や宇宙の全体を見るということが出来ないところに、心穏やかならない日常の根源があるのかもしれませんね。
先生 まったくですね。


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