.....横死したひとや事故に遭って亡くなられた方に花を手向ける...というよく知られた行為の起源は旅の途中で行き倒れたひと、また餓死したひとに布をかける、布は高価なものであったから木の枝や花々で隠す...ことからきたのだと折口信夫は書いています。それはわたしにとって驚きであると同時に腑に落ちるものでした。なぜなら子どものころ 虫や小動物 (昔は子猫などが道端で死んでいたものです)のなきがらにあったとき草や花をそのうえにのせた記憶があったからです。
折口信夫(おりくち しのぶ)は日本の民俗学の祖柳田国男と並んで民俗学を近代科学におしあげたひとです。日本の民俗学、国文学の研究者であるばかりでなく釈迢空(しゃく ちょうくう)と号して詩歌もよくしました。自分の足で旅を重ね各地を訪ないまた古今の書物を渉猟しましたが、根底にあったのは古代に生きたひとの心持ちにかえって古代の行事や生活、芸能に思いを馳せることでした。
沖縄 離島 また本州でもはずれのほうは明治のころはまだ古くからの風習が残ってもいたようです。本来 神祭りとは個々の家々で行われていたのだそうです。その家のおとめが巫女 あるいは妻が巫女でありました。祭とはよき神々を招き入れ悪しき精霊(しょうりょう)に出て行ってもらい ...というようなことであったようです。2月 5月 7月 9月 12月 年に5回 季節の変わり目におおきな祭があったようです。その名残が7月の盂蘭盆会といわれています。
芸能の起こりはこうした祭でありました。舞踏の舞うも踏むもひとに悪さをする精霊に出てもらいよい神においでいただくことからきたのだそうです。アメノウズメノミコトがアマノイワトの前で踊ったのもそうですし 相撲も神事でした。すなわち鎮魂だったのです。鎮魂タマシズメにはふたつの意味がありました。田遊びはよい作物が実るための神事ですが、田遊びの遊びは古語で鎮魂の意味があるのだそうです。田遊びが田楽に田楽が猿楽に そして能に歌舞伎にというのが芸能の変遷です。
すなわち 芸能の原点には観客はいませんでした。今もこころある役者は舞台にあがるまえに一礼しますが 芸能の原点は神を降ろすことであり、その場にいたのは神と当事者たるひと..だけだったのです。芸能が鎮魂...癒しであり魂振い 魂を生き生きとさせる....というのにはこのような由来があったのでした。
100人村の池田香代子さんもどこかで語りとは鎮魂であると言ってらした記憶があります。この鎮魂... タマシズメとタマフルイは幼稚園でも学校でも公民館でも....およそどこでも求められていることかもしれません。本や芸術とかを越えてもっと人間の本源的なるものかもしれません。.....そのことはわたしに大地から足裏に響くような勇気と天と見えない糸でつながっているような希望をあたえてくれます。
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