「閖上の被害のことは あまり知られていないのです」.... ヤフオクのために口座をつくりに行った銀行の窓口の女性がそう言った。偶然 閖上出身の方と 旅行の直前 会って 地震の話になったのが わたしは不思議だった。
「新幹線の向こう側は流されましたが 家は山側だったので 家族はぶじでした。食べ物も自分たちで探さなくてはならなかったし 電気や水道があることが奇跡のように思えた。ずいぶん 無駄なことをしてきたんだな と つくづく おもいました。」… 眼の澄んだきれいなひとだった。
3・11から三ヶ月後 閖上のやまもと民話の会のひとたちを見舞った。なにもかも流されて 荒れ果てた広大な大地 ぐしゃぐしゃになった自動車の山 ビルの鉄骨が無残に黒々と立っていた。だが それより目を引いたのは 緑の山のふもと近く 斜めに傾いだ鳥居の目の覚めるような 赤 だった。ちょうど 鳥居の真下まで 津波が押し寄せたのだろう 木々が茶色く枯れていた。鳥居が力尽きて倒れたように見えて わたしは 胸が熱くなった。 土木業界が震災後 海岸線を調べたところ 鳥居の真下まで 津波が押し寄せた箇所が多かったという。
昔のひとが津波がきても ここなら安心と 神社を立てたという推論もある。だが 神社が立つ地とは 縄文の昔からの霊地が多い。パワーとのアクセスポイントだった。そして3・11は そんじょそこらの地震ではなかった。次々と海底で核を爆発させた人工地震だった。予知の範囲は超えていたと思う。
閖上を訪ねたとき いまだ生々しい 体験の語り あったることの語りを 地元でひらかれた 宮城民話の学校 で聴かせていただいた。 語り部たちは わずか三ヶ月あまりで 未曾有の震災から立ち直ったのである いや 語ることが 立ち直る力となった というべきかも知れない。
そのなかで ノアの箱舟のように 津波で 家ごと流され 生還した庄司アイ さんのものがたりが心に突き刺さり わたしは庄司さんの許可を得て 語るようになった。さて そろそろ 仙台に到着 どのくらい 復興は進んだだろうか。