すべては岡田史子からはじまった。
それは群青の空一面にひろがる花火....つぎつぎと打ち上げられ まなうらに 光の跡をのこし消えてゆく花火
このブログで”私的少女漫画史”というタイトルで少女漫画の歴史を語ってきたのだが 2010年6月 少女フレンドの漫画家たちで終わり 終着点 帰結点 である 花の24年組について 書くことができなかった。...12年の空白...なぜ億劫になってしまったか 先延ばしにしたかというと 花の24年組の代表のようにいわれる竹宮恵子にひっかかりがあったのだ。わたしは 竹宮氏を花の24年組のひとりとして 認めていない。
わたしにとっての 24年組とは 『少女漫画の歴史を受け継ぎながら 生と死に真正面から取り組み 文学や演劇に強い影響を与え 新しい地平を拓いた独創的な漫画家たちのことである。』
ジャンルとしての少年アイの創始者という 竹宮恵子の場合 サンルームにて 1970年12月少女コミックに掲載された。が これは岡田史子のポーヴレトから強い影響を受けた作品ではないだろうか 1976年 風と木の詩連載開始 しかしこの作品には 児童虐待ポルノとみられても仕方ない描写があった。9歳の少年に対するそれは 出版社が子ども向けの雑誌に掲載させてよいものだとはわたしには思えなかった。寺山修司・中島梓はじめ 批評家たちが持ち上げるのも不可解であった。
同性愛というジャンルでいうなら 山岸涼子は1971年りぼんコミックで 白い部屋のふたりという少女たちの愛のものがたりを書いている。本当は少年で描きたかったのだが編集部の反対により少女にかえたそうである。1972年別冊セブンティーンに掲載された『ゲッシング・ゲーム』は、少女漫画雑誌初の男性同性愛の話である。
大島弓子では1971年 男性失格 が性転換を描いた作品 その後1973年 ジョカへで リメイク。同年 つぐみの森 寄宿学校の教師の少年に寄せる愛 1976年 七月七日に も間接的な同性への愛のものがたりである。
萩尾望都の場合は 1971年11月 11月のギムナジウム 1973年 あそび玉 ポーの一族 小鳥の巣 で ギムナジウム(全寮制の高等中学)のものがたりを描いている。
しかし 花の24年組の前に 岡田史子がいた。
花の24年組 すべては岡田史子からはじまった。それは長い漫画の歴史のなかで今までにないまなざしだった。強いていうなら 石ノ森章太郎 西谷祥子に垣間見られた 生きることへの不安 生のさなかにある死への渇望 かすかな希望 両者の場合 作品の主人公をとおして いはば薄めたかたちで 見える それが 岡田の作品には岡田史子の命そのものが真夏の草いきれのなかに横たわる蝶の屍のように色濃く投影されていた。
1967年 太陽と骸骨のような少年 ポーヴレト 1968年 ガラス玉 サンルームの昼下がり ここに記した作品だけでなく 作品ごとに筆致を変えた 詩のように美しく目を背けずにはいられない ものがたりがある。
漫画を生業とするもの 漫画家を目指すものにとって それは超新星の出現 ノヴァだった。実はわたしも漫画家を目指していた。この文章の末尾に 各漫画家の作品目録のリンクを貼っておく。岡田史子の登場した1967年before afterの各作家の作品を読めば一目瞭然である。お涙ちょうだいの少女小説の系譜 大島弓子は悲劇の女王だった 山岸涼子のスポコンもの 家族の学校のご近所ものがたり 海外の映画や小説から着想を得たものがたり 才能はあれどごくふつうの少女漫画を描いていた漫画家たちが北国の春の訪れのように一斉に開花した。それは目を奪う光景だった。
岡田史子は 天才だった。
短い漫画家生活のなかで生み出された 生と死にまつわる不安と絶望そして微かな希望 光と闇で織りなされたタピストリの断片を 萩尾望都 大島弓子らは はひろいあつめ 自分の内的な宇宙とつなぎあわせ 自分のものがたりに仕上げていったのだと思う。
それは 生きることはなにか を 問うものがたり 空洞の痛み 魂の飢え 魂の渇き をかかえ さすらうものがたり はるけき彼方にその空洞を痛みを渇きをなげかけ 自分の身に 引き受けるものがたりのかずかずだった。ときに他者のまなざしに ふれあう指先に 渇きは癒される そこに人生の真実があることを知る 至福が訪れる しかし 旅はつづくのだった。
僥倖のように主人公になげかけられる愛 ささげる愛は 性別を超え 年齢を超え 時空を超える あらゆる障碍を超える..... 性愛もときに語られたが それが目的でも大事なのでもない。少年愛 とは 少女漫画というきらめく多面体の一面にしか過ぎない。ここに述べた漫画家 そして ほかの影響を受けた漫画家たちは喜び勇んで未踏の地を走り抜けた ときに傷つきながら 斃れる者たちもいた。この岡田が火をともした革命の結果として 大島弓子は乞うるばかりであった文学に影響を贈り物を与えた 吉本ばなな 嶽本のばらはじめ 枚挙にいとまがないほどに。萩尾望都は演劇に影響を与えた。
花の24年組は 岡田史子から はじまった。
あるとき 竹宮恵子から 岡田史子に手紙が届いたという。「あなたは漫画家に向いていない」 岡田史子は 筆を折り ふるさと北海道に帰った。
付記の1
竹宮氏の作品には致命的な欠陥がある。それは自己撞着というか 自分の作品の主人公に耽溺し惑溺し 客観的なある意味 冷徹な目でのものがたりの構築がおろそかになってしまっていると感じるのだ。これはほぼすべての竹宮作品にいえる。小説でも漫画でも作者の作品を貫く透徹した視点は必須である。
萩尾さんの作品群のなかで わたしがポーの一族に肯んじないのは 萩尾氏のエドガーに向けるまなざしにそれを感じるからである。たとえば池田理代子氏 山本鈴美香氏の作品にもつくりあげたキャラクターへの偏愛の匂いがあって 素晴らしい作品であるのに 残念だと思う。吉田秋生さんのバナナフィッシュにもそれを感じる。
おっと 罪の香り .. 抜き足差し足忍び足 自分のつくったキャラを溺愛すること それは自己愛に通じる。しかし 一部のファンがそうしたキャラクターを好むのも事実だ。ジャニーズや韓国タレントのように。大島さん とくに山岸さんには そうしたところはカケラもない。
日出る処の天子が あれだけの長丁場 構成の揺らぎも見せずに 最後まで到達したことにわたしは感嘆する。小松左京がかって語ったように 中盤 拡散してゆくものがたりを疾走するキャラクターをぐいぐい引き絞る それは男性作家にさえできないひとがいるほどの精神の力仕事だ。物語の揺るぎない構造と自立したキャラクターがあって 厩戸の最後のセリフが生きる。超能力者である厩戸は毛人に去られたあと「わたしは偏頗な人間だ」と述懐するのだ。そう超能力を持つとはそういうこと 力を握る欲望とはそういうもの そして DSが推奨する LGBTは 少年愛も含めて不毛 なにものも生み出さない。
昨年の今時分 萩尾氏の ”一度きりの大泉の話” を読み 衝撃を受けた。それは竹宮氏とマネージャーの増山氏が萩尾氏を訪ね 「盗作をしないでほしい」と言ったというくだりである。少女漫画の歴史について わかっている方なら また今回 拙文を読んでいただけたらおわかりだと思うが それはない。寄宿舎がテーマの映画を一緒に観たとしても 作品はおのずから違う。たとえ原案が同じであったにせよ 作者の生まれだち 性格 知識 智慧 技術で 異なるものがたりになる。仮にインスパイアされあったとしてもお互いさまだと思う。
なにより萩尾望都は少年同志の愛を描いたわけではないからだ。
岡田史子さんのエッセンス 香気は 竹宮作品にはない。継承した萩尾望都の詩情 大島弓子の哲学もない。竹宮氏の本来の持ち味はむしろ庶民性とぬくもりにあると思っている。それも漫画にはたいせつな要素だ。
付記の2
竹宮恵子氏の作品の主要ないくつかが 増山法恵氏の原作といい また多くの作品に強い影響を持つという。私的な観測だが 二人三脚というよりむしろ 竹宮氏が増山氏の分身であったような気がしてならない。増山氏のwikiを見て その思いを強くした。増山氏は漫画家を目指していたが絵が描けなかったという。わたしもそうだった。溢れ出る物語をカタチにできない それは翼をもがれた鳥。代わりの翼を求めるか ダレかの背に乗って飛ぶしかない。
増山さんは翼が欲しかったのではないか。それは一度きりの大泉で萩尾氏が語っている「増山氏の媒体になりたくなかったので離れた」ということばが裏打ちしているように思う。今回 私的少女漫画史その10を書いたきっかけは 竹宮氏の大島弓子評と岡田史子さんの対談から竹宮氏が岡田史子さんに送った手紙の内容を知ったから そしてなんとかまどかというひとの的外れな書評を読んだからである。竹宮氏が書かずともよかった手紙をどのような気持ちで書いたのか 送ったのか 命を漫画に込めて描いていた岡田さんがどのような想いで 手紙を受け取ったのか 重く 痛い。
昨年 増山法恵さんが亡くなったと昨夜知った。一度きりの大泉 出版 の一か月余りあと。 持病があったという 二度目の接種を受ける前だったという。増山さんの冥福を祈る。
付記の3
わたしは フクシマ三部作を読んだあと 萩尾氏を追うことをやめた。フクシマと縁が深く 幾度か南三陸に通い ガイガーカウンターが鳴き叫ぶのを 聞きながらひとりで山越えをし 被災者から聞き書きをし フクシマを考え続けてきた自分にとって あれはなかった。菜の花も大仏も絵空事 擬人化された核種に至っては笑うしかなかった。もっと突き詰め昇華したものがたりを出してほしかったし 全体に香りが失せていた。
後年の柳の木は好きな作品だったが 元ネタをみつけて それも その10が書けなかった理由のひとつだったのだろう。秋の旅 11月のギムナジウム 雪の子 モードリン セーラヒルの聖夜 かわいそうなママ 小夜の縫うゆかた 半神。雪の中の花火のように美しいものがたり……すべてに終わりがくる。誰にも描けなくなる日が来る。肉体も肉体に支えられた精神も老いて弾力を失ってゆく。
他の記事をアップしながらであるが 一日がかりで書き上げて なんとか総括できて わたしのなかで 大泉サロンは終わった。あとは 大島弓子さんだけ……
付記の4
わたしの翼は語り だった。ものがたりは溢れるように生まれる。しかしそのものがたりをどのように伝えるか は別の話である。LTTA ラーニングスルージアート でストーリーテラー マーサ三宅と出会ったこと RADA英国ロイヤル演劇アカデミーでイランさんやニックさんから学んだこと 演劇を学ぶことは伝えるための力になった。なかでも 蜷川さんが重用した 伝統芸能が輩出した役者 壌 晴彦氏が ひとりの演劇青年に 語ったことば。「あなたは芝居が好きなんじゃない。芝居をしている自分が好きなんだろう。それがあなたの演技から見えるんだよ。すぐ この場で芝居をやめなさい」語り部としての自分が決してわすれてはならない座右の銘である。だが これはすべての表現活動に通じると思う。
全ての芸能の原点は 神への捧げものだった。そのためには 自分を捨てなくてはならない。何もかも忘れて 一心不乱に 向かうこと 漫画でも語りでも 踊り でも。すると たまさか 神が宿られることがある。己の限界を超えた ものが 生まれる。至福とともに。
付記の5
少女漫画におけるSFは 佐藤史生にはじまった。夢見る惑星は金字塔。佐藤さんは アルバイトに行った工場でアスベストを曝露したことにより闘病ののち 亡くなったという。佐藤さんは戦死したのだとわたしは感じている。透き通った理路正しい冬の夜空のような作風だった。冥福を祈る。
付記の終わり
それにつけても 岡田史子は 『ギフト』 だった。岡田さんの冥福を心から祈る。そして 大島氏 山岸氏 萩尾氏をはじめとする 当時の漫画家たちに深い感謝をささげる。もしコミケにかかわらなかったら 少女漫画たちのあまたの挑戦にであわなかったら わたしの人生は彩の乏しいものになっていただろう。語り部という今世での役目のひとつは果たされなかったであろう。
岡田史子の火花をわたしも受け取って 自分のことばで自分のものがたりを語る唯一の語り部として 今日も 語りにゆく。私感では 岡田史子に端を発する 少女漫画革命は 1970年代で終わり 爛熟期に入り 今は長い低迷期。次なる天才は現れるだろうか。
岡田史子 目録
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%8F%B2%E5%AD%90
萩尾望都 目録
https://www.hagiomoto.net/works/
山岸涼子 目録
http://www.kategories.com/yamagishi/fsakuhinlist.htm
大島弓子 目録
http://www2t.biglobe.ne.jp/~autumn/sakuhin.html
竹宮恵子 目録
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%AE%AE%E6%83%A0%E5%AD%90
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