遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   土曜の朝 ..大型掃除機を事務所のなかじゅう引きずりながら 泥縄で今日の語りを一回浚ってみる。 どうして経営者が遠慮しなくてはならないのだろうと片隅で思いつつ 気兼ねしながら県立図書館にむかった。着いたのは45分前だった...わたしにはありえない時間だが タネを明かせば集合時間を間違えたのだ。何分間違えたのかはご想像に任せる。

   「おおきなおはなし会」は”子ども読書の日”に因んだ県立図書館の催しで協賛がトムの会である。だから出し物は絵本にかかわりのある大型紙芝居や大型絵本が主で語りはふたつだけだった。親子連れが多くなごやかなあたたかな雰囲気が視聴覚ホールをつつんでいた。

   午前の部のラストがわたしの出番だった。魔法のオレンジの木を語ったのだけれど、自分の声が身体の中からではなく 頭の斜め上のほうから聞こえるような気がした。...都合7回の歌のとき わたしが聴き手に向かって歌ったのは最初と最後の2回だけだった。...それは考えてしたことではなくて身体がそのように動いてしまったのだけれど...歌は速度も声の感じもその都度違っていたが それがよかったかどうかはわからない。....井の頭公園のライブから微妙にチューニングが会わない....ひとの靴を履いているような違和感が残る。...たぶん 今わたしは聴き手に向かって語っていない...以前のようには...。なぜだろう。


 そのままやまもとさんのヴォイスストレーニングに行くために半蔵門に向かった。やまもとさんのWSがひとあじ違うのは実際に発声するより 身体の構造のレクチャーが中心だということだ。ふたり一組になってF音 S音などの無声音を出し 身体のどこに息が行っているか確認する。

   発声に関わる人間の器官は今まで習ったところでは体幹とそのうえの頭蓋のすべてである。今日は肩甲骨ならびに横隔膜の確認をした。....肩甲骨は肋骨の上に載っていて靭帯でつながっている。肩甲骨の周囲・前後(腕の付け根まで)が凝りやすいのはなぜか構造を知ってはじめて理解できた...これはヒーリングにも活用できる。発声にとって緊張は障害となる。そして頸や肩甲骨のあたりはとても緊張しやすい。ふだん何気なくしているつもりもじつは緊張している。....ためしにパソコンの前にいるみなさん 首と肩から力を抜いてみてください...はぁーと息を吐いて...ほら 力が入っていることがわかったでしょう...?

   語り手に必要な声は役者のそれとは 違うのではないか...と感じはじめたのはこのごろだ。金属的な硬質の声...ではない 深い声 ときに固くもやはらかくもなり レンジのゆたかな歌うような声 激しくもやさしい声 豊穣の声 沁みいる声....もちろん役者のための声とも伝統芸能の声とも重なるのだが 水泳の筋肉とシンクロの筋肉が スピードスケートとフィギュアと筋肉がちがうように語りのための発声もすこし違うようだ...張る声では心に沁みない..と思う。ものがたりにもよるけれどすべてが聴き手に発せられる声ではない.....幾分かは自分に向かって発せられている。

   それぞれが自分の方法で自分の声をものがたりをのせ得るものにしてゆけばいいのだろうと思う。声は声紋というようにひとりひとり固有の性格や心情をもうつしだすものである。....日々の暮らしのなかで意識することでも変わってゆくだろう。

   すこし早めに一番町の集会所を出たのは会社の今後について頼みもし相談もするためにこれはという社員と約束をしていたからだ。急行は1時間20分でわたしを現実に連れ戻してくれた。...状況は刻々変わるが問題点は明確である。つなぐための努力を急がなくてはならない。...幾人かのひとたちと腹を割って話しあわなくてはならない。そしてわたしもいよいよ供物を差し出さねばならぬ時がきた。

   アリストテレスはひとの究極の目的は 本来の己になることだ...というようなことを言っている。...ひとは社会的な動物でひとりではなにもできない...つながらなくては....とすれば本来の自分とはつながる自分であり つなげてゆくことが己の目的と重なってゆくのが流れであろう...。死にゆくときこの世の限りあるつながりは切れる...だがつなぐとはそれだけではない...未来へ向かって橋を架けること...身を投げだすことである。...自分がもういないこの世のためになにができるか...それがひとの証であろう。

   ささやかな供物を捧げるのに どうしてわたしはこのように躊躇するのだろう....生と死に介在するもの 生と死のあわいをつなぐもの 見える世界と見えざる世界をつなぐもの....語り...とはそういうものだ。....もっと知りたい...しかし もっとたいせつなものがある。...

   

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   このテーマは松本永実子さんのワークショプにおいて対立する概念としてうかがったのである。演出家としては感性のするどいあるいはゆたかな役者を使いたい...だが感性の強い役者が理性を持ったとき..は実におもしろい...というようなおはなしだった。

   感性とはよく聞くことばだがその実態はなんだろう...と調べてみるとこれがなかなか興味深い。哲学的な概念にかんするかぎりまずアリストテレスありき...でその後はたいして進歩していないなぁ...というのが実感であった。感性というその語源は、古くはアリストテレスの「アイステーシス」(aisthesis、感性・感覚を意味する古代ギリシャ語)であり感性は自然と美につよくむすびついている。

   直感的感性とは, すべてを詳細に見ずとも、事物の全体像を直感的、無意識的に瞬時に把握する能力であるのだが 受け取るばかりでなくそれを取捨選択して判断し、五感で認識できる形を通して自ら表現し発信するような一連の働き...ともいう。必要なときに都合の良い情報が予期せず飛び込んでくるような直感的なひらめきも感性の特徴的なかたちであって ひとが個々に収得してはいるもののまとまりがついていなかった情報を一つに統合するようなカも持っている...という。

   ここで気がつくのは 語っていたり芝居をしていたりするとき..の感覚である。...外部にも内部にもひらいていて思わぬことば 思わぬ行動が起きたりする...即興こそその最たるものであるが 創造する芸術も再現する芸術も感性のはたらきであることがわかる。感性を内部外部からの情報を感知して瞬時に取り込みすでにある内部の情報と統合し瞬時に表現というかたちで発信するまでのはたらきというなら理性とはいったいなにか....?


  
    アリストテレスは理性を人間の霊魂の固有の形相である...という。理性は人間の中で最も神的なものではあるが、身体的・感覚的限界をもつものであると考えた。それ故、人間がこの限界を、想像力と豊かな感性、そして、可能な限りの広くて深い知識によって克服する姿の中に、理性的人間の完成を見ていた。すなわちアリストテレスにとって感性は理性より上の位置にあったのである。理性「ロゴス」は多くの概念を持つが通常はことばを意味していた..これは感性と理性を考えるとき示唆的である。

    近代では古代ギリシャ人がもっていた超越者や聖なるものへの畏敬を持ちつづけることができず、理性こそが人間のしるしであるとされ人間が「世界の主」となった。理性的であることと合理的であることが同じ意味で用いられ、理性的であるべきだということから やがて理性は人間の自然性を否定し、自然は克服し且つ支配すべきものになった。

    考えるに理性のはたらきについてはどうも古代に分があるようだ。感性と理性は本来は対立する概念ではなく 双方とも神的なもの超越的なものにその起源を持つ。近代において理性のある面だけを偏重してしまったことで ひとは自然から切り離されてしまった。が本来の理性..とは普遍性・客観性であって超個人的な感覚である感性を補完するものではないだろうか...

    つまり 感性が先行し 森羅万象からあるなにかを感知し自己の内部に蓄えられたものと統合し 自らの美・自然・あるべきものを他者が五官で感じられるカタチにして発信する。....つぎにあるいは同時に理性が普遍的なるもの 人類が本来共通して持っているベースに照らしあわせ総合するのではないかと思う。

    踊る 歌う 語る...奏でるなどの原初的な芸術はひとの感性の発露であり それ自体が事物との一体化であって客観性の入り込む余地はなかった。また発信者、受け取り手のあいだに垣根なくともにその今を共有したと思われる...描くこと自体は感性の発露であるが客観視できるモノになったことで発信した者から離れる。文字が介在する戯曲や文学はますますその度を増す。身体から離れることが客観性を生む。

    語りの場合 語り手がどれだけ外部からの声豊かな情報を感知して語っているか、また語り手自身の内奥とむすびついているかであろう...そのうえに現代の語り手は語り放しにしないでフィードバックする 自らの裡にある普遍的なるもの アリストテレスによれば 「世界理性」に照らすことをしてゆきたいもの..と思う。まだまだ書きたいことはあるが 今回はこれで終わりにし日常にかえろう。





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   今日は幼稚園年少さんのおはなし会の打合せがあった。ひさびさに幼稚園にうかがったとき明るい声がひびいた。幼稚園の雰囲気はカラリかわっている...壁を塗り替えたのか...蛍光灯を換えたのかと思ったら...園長副園長が代わられ新任の先生も迎えたとのこと....前任の園長先生は素晴らしい方だったが 新生の気が漲るのもいいなぁ...今はそういう季節なのだとあらためて思った。

.....3人の先生と併設の保育園の先生 そしてわたしの5人で年間の計画を立てる。先生方に要望をお尋ねしたところ...聴く力がのびるようなおはなしを。。。権現堂の伝説のような地元に伝わる昔話を...水のおはなし!...コカのカメははずせない!..とかヒートアップしていった。おかあさん方といっしょのおはなし会も4クラスひらくことになった。

  おひとりが...園庭で木の下で梢のそよぎを聴きながら風を感じながらおはなし会ができたら...と言われて 即5月にひらくことになった。今年のテーマは戸外で野外で語る...になりそうだと楽しい語らいからお別れして 園の門を出たところ 犬をつれたご婦人にあいさつされた。「先生..! 雪女の先生ですよね..はじめてでしたよ あぁいうおはなしは わたし涙がでました。 感激して新聞のつれづれに投稿したのだけれどボツになってしまいました...」

  偶然 春のコンサートにきてくださった方とであったのだ。今日はショッキングなことがあって 意気も落ちていたのだが ベストを尽くそう..会社でもどこでも....聴いてくださるかたにものがたりを届けよう...わかってくださる方にわかっていただければそれでいい...とそんな風に思えて まだ頬に冷たい春の風を感じながら石ころだらけの駐車場をあるいた。


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   井の頭公園でのライブから体調がわるくなるばかりで昨夜からは左腎臓が痛み、出かけるのを見合わせたかったが、そうもいかず新宿に向かう。五年越しの債権回収の件でU社の社長と会うも話し合いは不首尾におわる。

   櫻かたりの会場 参宮橋のオリンピックセンターに向かう。昼前に着き 数名の友人と話す。いっしょに公園ライブをした友人もその後不調とのこと、野外のライブは心しなくてはとあらためて思う。午後の部のかたりは昔話が多かった。方言のかたりにはかなわないなぁと思いつつ いささかの違和感も覚える。不調のため 途中退場しようと思ったが語りのお誘いをいただく。友人のリクエストにより芦刈を語ろうとするも 瀬織津姫となる。...心の準備なきまま覚悟して語りはじめるも 誰の目にもそれとはっきりわかるほどの激しい手の震えがくる。別段あがったわけではない。...とくに良いできだったわけでもないのが不思議だったが これまでのことからしてよしという知らせには相違あるまいと思う。

   .....寺内さん櫻井さんおふたりの楽しい語りを聞きながら このかすかなしかし拭いようのない違和感はなんだろうとずっと考えていた。カフェで今後の打ち合わせをする。HPのTOP画像できあがった由 めでたいが遠くのことのようにも思えた。朦朧としたまま 宇都宮線に乗る。2/17のライブで7年間の総括をし 地の語り、ここにいるここにいたひとびとの語りから 天の語りに切り替えようとしてきたものの 暗中模索であった。いままでなにを語ってきたのか...これからなにを語ろうとしているのか 雲の切れ間のように見えてくる。

   鎮魂の語りのほかに わたしが一度きりでなく好んで語りつづけてきたものがたりの多くは終わることのない進行形の語りだった。コカのカメは旅をつづける ジャックは旅をつづける 娘はオレンジを売り続け わたしは生きつづける ”おとうちゃまへ”の妻は祈りつづける...

   白い花...のはんは闘う エリザベートは闘う おさだおばちゃんはあきらめない...わたしは闘いつづける....違和感のわけがわかったように思った。昔話はそこで終わってしまう。善良なる者は応分のしあわせを得る...かしこい者は利を得る...めでたし、めでたし。....だが人生はおわらない。

   電車は駅に着いた。もうすこし考えたかったのでMACに寄る。...なぜ2/17以降はじめての創作のものがたりが瀬織津姫なのだろう。天照大神も瀬織津姫も巧妙に表舞台から隠された神である。.....ひ(日 火 霊)の神 みず(水 身)の神。男神と女神......瀬織津姫は夫である天照大神の甦りを待つ...御袖を振り 手ずからひとびとに金のひかりを降り注ぎながら早池峰のおやまにのぼる...そして遠野のひとびとを護りつつまことの光の神天照大神を待ちつづける....追われた神に投影されていたのは誰か?....このものがたりの底にわたしが祈るようにゆだねたものがあるのだった。

   このときわたしは自分がすべきことを知ったように思った。生きること語ることは縒り合わされた糸である。...これから語るべきものがたりがわかったように思った。癒しのものがたりを語るひとは多くいる。わたしのテーマは闘いつづけること そして太古から語り伝えられたものがたりを語り継ぐこと。 そのまえにまず今を生きること。愛するものを護ること。

   もうひとつ はっきり見えたのは太古 神への祈りであり ひとびとに天意を伝えるものだった語りが 内に祈りとメッセージを秘めながら しだいにひとびとにだけ向けたものになっていった過程である。他の芸術とどうように現代の語りの対象はひと...である。癒しや楽しみが中心となる。

    聴き手を求めてのものがたりばかりではない。捧げるものがたりも自分のためのものがたりもあっていいのではないか。それが聴き手の魂に響くように精進するとして....。もっと技も磨かなくてはならないのだった。わたしのいる場所語る場所が違うのかもしれなかった。期せずしてきのう書いた「アート 芸能 芸術 芸」の疑問のひとつの答になるかもしれない。

    これからもわたしは果敢にあたらしい地平にチャレンジするだろう。....だがそれよりなにより これから闘いがはじまる。もう目を背けることはできない。いままででもっとも厳しい闘いになるだろう。信頼できるほんとうに手をつなぐべき味方は実はすぐそこにいたのである。背中の痛みは消えていた。

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   仕事に追われ「感性と理性」「芸能・アート・芸・芸術」についてなかなか書けずもどかしい日々です。春に酩酊しつつ 日常に忙殺されつつ...今日は井の頭公園で野外ライブします。...たぶんお昼ころないとうさん まつもとさんとごいっしょします。

12時に集合し、まずは内藤さんとライブの場所を物色しました。...時あたかも林をバックに幼稚園や保育園の先生のたまごさんたちが実習していたのを見つけ 声をかけ コカのカメをいっしょにしていただきました。盛り上がって楽しかったです。お昼休みが終わってういういしいたまごさんたちが引き上げ つぎに内藤さんが語り..わたしが語り...6つ終わったところで、松本さん 竹内さんが合流しました。

  場所を移動して..池のまえでそれぞれが弐話ずつ語りました。3時間で13のものがたり...野外での語りについて気づいたことを述べてみます。

  日本でも西洋でも中世の語り手・ストーリィテラーは楽器を携えて語りました。弦楽器が多かったのですが ささらなどもありました。また歌うと語るが不可分でした。それがなぜだかこのたびのライブでよくわかりました。以前 弦楽器の起源は弓であり ブルンブルンと震わせることで語り手の意識を飛ばしカラにする必要があった...と書きましたが 中世においては楽器の響きそのものがたいせつな役割を果たすようになっていったのではないか と推察しました。道行くひとの足を止めさせ 聞き入らせるために語り手たちは技巧の粋を尽くしたことと思います。そうしなければ今日のやど 今日の食事にありつくこともできず あるいは親方にこっぴどく叱られることもあったことでしょう。

  ジョングルールもそうでしたが 楽器や歌はリズム メリハリを生みます。聴き手を飽きさせないことは 語り手にとって生きてゆくためにどうしてもしなければならないことだったのです。ものがたりも笑わせ また泣かせなくてはなりませんでした。庶民の感情に直に訴える喜怒哀楽のはっきりしたものでなくてはならなかったのです。長いものがたりも一節一節の起承転結のはっきりした骨太のものである必要があったのではないでしょうか?...すなわちニュアンスではなくいろあいのはっきりしたものがいいように思いました。

  現代において 語り愛好者でなく不特定多数のひとにむかってライブをするとしたら短いくっきりはっきりしたものがたりが適するでしょう...まずおおかたのひとびとはテレビと不可分の生活をしていますから CMに分断された10分前後しか集中できないということもあります。高齢者に語るとどうようの配慮が必要です。ましてなにかしら別の目的できているのですから 短時間で結果のわかる場面展開の早いものがたり 5分からながくても7.8分がよい加減でしょうか。

  人形や道具をつかうとか 楽器などがあるといいと思います。もっともむつかしいのは語り手の集中 そして力のぬき具合です。 アクシデントもあって わたしは三つめの芦刈の途中で集中が途切れてしまいました。...また  聴き手を引き寄せよう逃すまいとしてかえっていつものように間がとれませんでした。聴き手の反応より1.2秒(もっとかな)早くなってしまったのです。これは路上ライブを重ねれば落ち着くかとも思いますが....そして発声 拡散しやすいので通常の発声ではとおりにくい..日本の芸能は能にしても戸外ないし半戸外.. 神社の境内の舞台やよしずで仕切るなど..が多かったので声をとおらせるため独特の発声をしましたが、発声についてもっと考える必要があるかもしれません。

  場所のとり方も重要です。結界・場をつくりやすい場所 また聴き手が立ち止まりやすい場所が必要です。たのしい話 清清しい話が無難でしょう。その他聴き手を参加させる...即興で対応できる...などふだんの活動での語りにもつながる課題が山積でした。参加者一同 次回の野外ライブに向けた課題を確認しあいました。

  終わったあと 4人で それから櫻井先生が最後の30分飛び入りで参加され3時間にわたるディスカッションをしました。 実りあるものでしたがそれについては後日書くこともあると思います。二時間かかって地元に帰りつきましたが この徒労感 疲労困憊 チリチリとした不安のようなもの...はなんだろうと考えてみてもよくわからないのです。身体のなかに発散されない余熱が残っている感じといったらいいでしょうか。(...これは夜になってわかりました...)

  井の頭公園でのライブわたしは今回が最初で最後になると思います。個人的には井の頭公園のような場所で ライブをするのはわたしのように感覚をひらいて語る語り手には大きなリスクがあると感じました。刑場のあとのようななにかの気配があります。野外ライブの可能性はさまざまですが 清浄な場 大自然の気のなかで太古の語りのように焚き火を囲んでまるくなって おなじ想い価値観を共有する 少なくともおなじベースを持つひとたちと祈りにちかい語りをしてみたいという望みがこころの底に生まれました。オファーがふたつきているので ちかぢか実現するかもしれません。

  やってみなくてはわからないのでした。 ...いままでしてきた語りにとらわれず 呼ばれているほうに行ってみようと思います。...ほんとうにたいせつなものはどこにあるのでしょう...これからのことを根本からかんがえなおすきっかけになるかもしれません...。過去や未来に恋々とすることなく より良い選択ができますように...

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