遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   代々木の青年座に行きました。”運転免許わたしの場合”の主役を友人のjunさんが演じていたからです。100人くらいの劇場でしたが満席でした。そして締まった、いい舞台でした。

   演劇的な実験がたくさん織り込まれていました。役者は5名、少女とベック叔父さん役のふたりをのぞいた3人はコロスとして複数の役を演じます。少女の母そして叔母、レストランの客、13歳の女学生etc,あるいは、祖父、少年、レストランのボーイ、学生...幕間はなく時代と場面はめまぐるしく前後し、五脚の椅子、二台のテーブルが車の居間、台所、学校、宿舎、レストラン、バス、ホテル、地下室などのさまざまな舞台設定となります。(これからお芝居をご覧になる方はこの先を読まないでくださいね)過去・現在めまぐるしく移り変わるシーンがコラージュのようにひとつのものがたりを浮かび上がらせてゆくのです。

   junさんは13歳から40くらいまで、そしてものがたりの進行役も兼ねていました。junさんにはふわふわしてそれでいて鋭く繊細なイメージがあったのですが、すこしふっくらして地面にしっかり足がついていました。舞台がはじまって、進行役から顔を俯いたとたんに17歳の少女になったのは驚きました。笑いもあり歌ありダンスあり息をつかせぬ2時間でした。ひとことで語るのはむつかしいです。....チラシなどによれば、男女の性差...がテーマのようでした。

   けれども、わたしは性差による誤解であるとか、”林檎の木”のように階級的な障害とか”蜘蛛女のキス”のように同性であるとか、あるいは年齢差、国籍とか、極端にいえばそこに性が介在するかいないかでさえ二の次であるように思うのです。障害が問題なのではなく、自分から他者へ梯子をかけよう、橋をかけようとして、その梯子がはずれてしまった、それがなんであれ、胸をうつのはその闇雲な想い、愛というのでしょうか、熱望というのでしょうか、渇望といいましょうか。自分のなかの欠けたものを埋めようとする、その必死の試みこそが胸を打つような気がします。

   やさしいベック叔父さんは、戦争帰還兵でした。どうやら深い精神的傷を負っていた...彼は姪というあたらしい生命の誕生に希望を持ち、戦争によって受けた傷が幼い姪によって癒されてゆくのを感じ、もっと癒されたいと願いました...それは見方を換えればおぞましい児童虐待ともとれるのです。叔父さんが教えてくれたのは自動車の運転だけではなかった。けれども少女は本能的に叔父を救おうとするかのように見えます。叔父の禁酒と引き換えにある取引を持ちかけます。そのとき少女は母のように聖女のように見えます。。(わたしにとってはここがハイライトです...なぜ少女はそれをしたのか)少女は周到に一線を画し身を守りながら、週に一度、叔父とドライブをつづけます。やがて少女は18歳になり家を出て大学の寮に入ります。それは少女にとって、清算すること、あたらしい旅だちも意味していました。しかしベック叔父さんが望んだのは全く別のことでした。わたしは終盤、ベック叔父さんの絶望に泣きました。そして最後にいままでのこと、叔父さんの死をも受け入れて再生するおとなになった少女を見て泣きました。

   junさんと別れてからカフェに入り、ボーッとしていたので電車を間違えました。わたしはなぜもっと心を揺さぶられないのだろうと考えていました。演出について設定について違和感がすこしあった....わたしは父のことを思い出していたのです。父は決してつよいひとではありませんでした。わたしはものごころついたころから父をかばい、たとえ母に理があり父に非があったにしても味方となって、母がしないこまごましたことを父にしてあげようとしていました。父の靴を磨くことは喜びだったし役所に行く父にハンケチも用意しました。わたしは父を深く愛していました。.....変わったのは12.3の頃...父を客観的に批判的に見るようになりました、愛していながら父の愛の暑苦しさ、陋習がいやだった。父を熱愛していた妹はもっと極端でした。やはり12.3の頃、父の触れたものに触れるのさえ嫌がるようになりました。わたしが、なにかといえば相談にのってくれた若い叔父を拒絶したのは15の時だったと思います。それは少女からなにかに向かう通過儀礼のようなものだったのでしょう。これから起きることを予期しているのかもしれない。だから身にまとわりつくようなものを好まない、潔癖であり残酷です。

   ふつうにいけば、女は幼女→少女という花のような存在→不可思議な曖昧な中間地点→女→母→おばさん→おばあさんになります...変態を繰り返し殻を脱ぎ捨てるように。わたしもいずれおばあさんになります。けれどもその疲れた骨のすみっこに少女を残しておきたいと願うのです。それは今流行りのガーリィなというようなつくられたものではありません。男が少年性を保つのよりそれはずっと困難な希少のことのように思われます。変わることで女は力をつけ世間と渡り合っていけるようになるのですから。

   ....ゴールズワージーの林檎の木のミーガンの台詞は難しい....少女になるのはむつかしい.....でも希望をいうなら、junさんのなかのあふれるばかりの少女が見たかった。素晴らしい演技だった。けれど首をかしげるとかみつめるとかじゃなくて、あなたの深奥に残っている少女をもっと見たい、存在を感じたい ともに生きたい。そのとき わたしはきっと慟哭することでしょう。


.....別れ際junさんは「なにもかもむだじゃないことがわかったの」...と言いました。ほんとうにそうだと思います。三人の子の母となってあなたはいい役者になった!!これからだね、junさん。わたしうれしかったよ。この芝居を観られて今のあなたを見られてほんとうによかった。

   橋をかけること、梯子をかけること....個から個へ....個から時代へ...ひとびとへ。わたしもまたやりたいことがたくさんあります。実は今日歯医者さんにも行きました。グレーのシルクのチュニックを買いました。自分の未来に橋をかけること、子どもたちの梯子 夫の橋 さまざまさまざま考えました。


   最後にこちらも少女の透明さを持ち続ける浅田真央さん、きのう書いた軸について、写真をごらんください。浅田真央さんの身体の軸がまっすぐなこと、股関節を意のままにできることが理解できますね。今年はもっと進化しています。



右の二枚が浅田真央さんです。左はキムヨナさんです。



こちらも右が真央さんです。

    語り手にとって、身体をゆるませることと同時にグランディングならびに身体の軸を意識することはたいせつですが、単に姿勢のうつくしさだけの問題ではないように感じています。それはおそらく受信する身体になる、それと同時に不要なものをシャットアウトすることができる身体になるということなのです。

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