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(目次)
第2章 戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界(9)
047.東西二大陣営の激突(3/3)
中東では1958年にMETO(中東条約機構、本部の置かれた都市に因みバグダッド条約とも言う)が生まれた。NATO、METO及びSEATOの三つの反共軍事同盟によりソ連封じ込め体制が出来上がったが、このうちのMETOはエジプトが当初から参加しなかった上、設立の年にイラクで社会主義革命が勃発、同国がMETOを脱退したため、本部はトルコのアンカラに移転、名前もCENTO(中央条約機構)と改められている。
汎アラブ主義のナセルは米国の反共同盟に加わる気はもとよりなかったが、さりとてソ連社会主義の傘の下に入る気もなかった。彼の眼には米国もソ連も所詮新しいタイプの帝国主義国家と映ったのである。米国とソ連に対する見方は中国の周恩来首相、インドのネール首相、ユーゴスラビアのチトー大統領あるいはインドネシアのスカルノ大統領もナセルと大同小異であった。ネールと周恩来は1954年の首脳会談で平和五原則を発表、さらに翌1955年にインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催された(バンドン会議)。
バンドン会議で採択された平和十原則では反帝国主義、反植民地主義、民族自決の精神のもと、米国、ソ連のいずれにも属さない第三の立場いわゆる第三世界をうたいあげたのである。ナセルはいがみ合う東西両陣営者の間でうまく立ち回って漁夫の利を得ることを狙い、また第三世界の中ではアラブの代表としての地位を確かなものにしたのである。このころから第二次中東戦争、そしてシリアとアラブ連合を結成する頃までがナセルの絶頂期であったと言えよう。
(続く)
荒葉 一也
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