石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

グローバルサウスに傾斜する中東北アフリカ諸国(MENAの多国間関係)(10)

2023-09-25 | 今日のニュース

3. 軍事・安全保障連携

(著しいサウジアラビアの指導力低下!)

3-3. GCC(湾岸協力会議)

 GCC(Gulf Cooperation Council、湾岸協力会議)はアラビア(ペルシャ)湾沿岸の絶対君主制国家6カ国(サウジアラビア、UAE、クウェイト、オマーン、カタール及びバハレーン)により1981年に結成された地域安全保障連合である。2年前の1979年、イラン革命が勃発しイスラム共和制国家が出現したことが結成の経緯であった。

 

それまで湾岸地域はイランのシャー独裁体制が「湾岸の警察官」を自認し、背後の米国とともに脆弱な湾岸君主制国家を支える構図であった。しかしイスラム共和国のホメイニ最高指導者はイスラム革命の輸出を標榜、湾岸君主制国家の支配者たちは東のイラン、西のイスラエルに挟まれる形となり脅威に駆られて連合を結成した。

 

GCCの構成国は石油・天然ガスに恵まれているが、大半の国は人口が少なく国土も狭い。そのような中でサウジアラビアは人口が際立って多く、国土も広大である。同国は自他ともに認めるGCCのリーダーである。本部はジェッダ。

 

イラン革命後もGCCは常に安全を脅かされ続けた。1980年代のイラン・イラク戦争ではアラビア湾のタンカー運行が危険にさらされた。輸出ルートがイランとオマーンに挟まれたホルムズ海峡のみであることがアキレス腱となった。そしてイラン・イラク戦争後の1990年にはクウェイトがイラクの独裁者フセインにより侵攻され、翌年米国を中心とする多国籍軍により解放された(湾岸戦争)。

 

次いでGCC諸国は国家対国家ではなく国境を越えた宗教或いは民衆活動により体制が揺らいだ。2001年の9.11同時多発テロをピークとするスンニ派イスラム組織アルカイダのテロ活動であり、或いは2011年のチュニジアに端を発する「アラブの春」運動であった。GCCで最も脆弱なバハレーンでは王制打倒運動に火が付いた。この時はサウジアラビアを中心とするGCCの治安部隊によりデモは鎮圧された。

 

サウジアラビアがGCCの盟主として指導力を誇示できたのはこの頃がピークだったと言えよう。「アラブの春」でサウジはイエメン内戦に巻き込まれサウジとイランの代理戦争の様相を呈して今日に至っている。一方、GCCの同盟国カタールとはイラン及びイスラム同胞団の扱いをめぐって対立、ついにはカタールと断交している。この時バハレーンはサウジに盲従、UAE、クウェイトがサウジに同調、オマーンは中立的立場となり、GCCの結束にひびが入った。

 

この頃から他の加盟国はサウジアラビアの独善的な姿勢に嫌気がさし、独自の行動に走るようになった。2020年にはUAEとバハレーンがイスラエルと国交を正常化し(いわゆる「アブラハム合意」)、これと並行するようにカタールは米軍のアフガニスタン撤退とその後の外交窓口としての存在感を示し、オマーンは従来から続いていたイランとの友好関係によりイエメンをめぐるサウジアラビアとイランの代理戦争の停戦仲介など重要な外交問題の解決に寄与している。

 

このようにサウジアラビアの指導力は年々低下しており、むしろGCC内部で孤立しているとすら言える状況である。

 

 

(続く)

 

 

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見果てぬ平和 ― 中東の戦後75年(56)

2023-09-25 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 

第2章 戦後世界のうねり:植民地時代の終焉とブロック化する世界(18)

 

056立ち上がるパレスチナ人(3/3)

結局パレスチナのアラブ人たちの多くは土地を追われ難民となってヨルダンなど隣国のアラブ諸国に移り住んだ。その動きを加速したのが第一次中東戦争、いわゆるイスラエル独立戦争である。70万人ともいわれるパレスチナ人が祖国を追い出された。祖国に残り或いは祖国を離れたアラブ人たちは以後「パレスチナ人」と呼ばれるようになった。親子代々パレスチナに住み続けた彼ら自身にはそもそも「パレスチナ人」などと言う意識は無かったはずである。第二次大戦後、国民国家が当たり前となり誰しもが「何々国民」として色分けされる世界になり、パレスチナにパレスチナ人が生まれたのである。

 

彼らパレスチナ人はいつの日にかアラブの同胞が自分たちの土地を取り戻してくれると信じ、1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)さらには8年後の第二次中東戦争(スエズ戦争)に耐え抜いてきた。第一次中東戦争ではイスラエルなど一ひねりで潰してみせると豪語したアラブ諸国の為政者たちに裏切られた。そして第二次中東戦争(スエズ戦争)ではエジプト軍とイスラエル軍の装備と戦闘能力の差をいやと言うほど見せつけられた。結局第一次中東戦争ではアラブ連合軍が単なる烏合の衆に過ぎなかったことを思い知らされ、第二次中東戦争ではスエズ運河の国有化を勝ち取ったナセル大統領ただ一人が英雄となった。パレスチナ人の心の中にはアラブ陣営が束になってもイスラエルには勝てないと言う無力感が残っただけであった。まさに「一将功成って万骨枯る」である。パレスチナ人はアラブの同胞に失望した。

 

パレスチナ人たちに残された道はただ一つ、自ら立ち上がることであった。1964年、彼らはパレスチナ人の民族自決と離散パレスチナ人の帰還を目的とするパレスチナ解放機構(PLO)を結成する。

 

(続く)

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

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