この週末にかけて読んだ「神話が考える」という本、”ネットワーク社会における文化論”という副題が付いているとおり、現代のリベラルな民主主義社会と高度ネットワーク社会における文化を、新しい「神話」という概念で解き明かした、実に刺激的な本でした。
しかも驚いたのは、著者はまだ29歳の、福嶋亮大(ふくしま・りょうた)という中国近代文学を京大で専攻した若者でした。ユリイカなどに投稿していると言いますが、この本が実質的には初めての出版とのこと。
筆者がほとんどカバーしてこなかったアニメーション、ゲームなどのサブカルチャー、またハードボイルドやケータイ小説・ライトノベルについても引用・分析されており、そこについては理解を進めるのが些か困難であったものの、しかしそれらの領域における「神話」論を進めるにあたり、日本では柳田国男、大江健三郎、柄谷行人から村上春樹まで、海外ではレヴィ・ストロースはもとより、デリダ、ドゥルーズ、ボードリヤール、カール・シュミット、ベイトソン、ボルツ、ローティ、ルーマン、フーコー、ギデンズ、ブルデューなどの文化・思想をも渉猟しており、日本の若者にもこのようなスケールで社会と文化を分析する逸材がいたのかと驚いております。
村上春樹の小説は、「ねじまき鳥クロニクル」あたりから気にはしておりましたが、筆者は本格的に読むには至っておりません。それは、柄谷が村上春樹の「ノルウェイの森」を辛辣に批判しているように、「ロマンティック・アイロニーからアイロニーが抜ければ、ロマンティックが残る。つまり彼はたんにロマンスを書いたのである。」と言ったと同様の、偏光した眼差しを村上春樹の小説に向けていたためでもあります。
しかし、この本を読んで村上春樹が、このグローバル化された社会から提供された土台(規格品の拡がりと空間的制約の解除)の上で、「世界認識」の型を示していることがよく分かりました。この村上春樹論は、この本の中では白眉でしょう。
この本を読むと、その前に読んだジークムント・バウマンのリキッド・モダニティ論やスティーブン・バートマンのハイパーカルチャー論などが色褪せてくる、と言えば、とりあえず、福島亮太のいう「文化における情報処理の様式」としての「神話が考える」視点が、いかに秀逸なものか分かるかと思います。
「ネットワーク社会における文化論」となっておりますが、このグローバル化した世界がもたらした文化、つまり人々の精神構造の有り様を透視しなければならない立場の方々(文化・思想にかかわる方から現実のビジネスにかかわる方まで)には、この本、そして今後の福島亮太の著作は見逃せないのではないかと思います。