中日新聞の「家族のこと話そう」というコーナーに、ご当地タレントの塚本明里(つかもと あかり)さんの「病と歩む力くれる母」というタイトルの記事が載っていました。
私は三つの病気の患者です。
インフルエンザの高熱のような倦怠(けんたい)感が続く「筋痛性脳脊髄炎」、二十四時間全身に痛みが走る「線維筋痛症」、
髄液が減るため頭を起こしているのが難しい「脳脊髄液減少症」で、高校二年の時に発症。
最初は風邪かと思いましたが、治らない。
異常に体が重く感じ、締め付けるような痛みにも襲われました。
母と二人で病院を回り、一年半後、十六人目の医者に出会ってようやく病名がついた。
痛みを疑いの目で見られることもあって、母は赤飯を炊き、父や二人の兄とともに家族全員で喜びました。
今は週に二日、麻酔注射を四十カ所にしています。痛みが和らぎ、それから三時間だけ休めます。
普段は朝起きると全身がぎゅーっと絞られるような痛み。体調によっては一日動けません。
頭を起こし続けていると倒れてしまうため、普段は横になっています。
移動はリクライニング機能のある車椅子。前が見えず自分で動かせないので、外出はいつも母にサポートしてもらっています。
母は私の介助のために仕事をやめました。それでも、「娘がいろんなところに連れて行ってくれる」と言ってくれます。
母は明るくてアクティブ。料理も裁縫もできてコミュニケーション力も抜群。
「明里の心は変わってない」と言い、病気になる前と変わらず接してくれています。
腫れ物を触るように扱われていたら、普段の自分でいられなかったと思う。
心が明るくいられるのは、母のおかげです。
車椅子で、友人のモデルを応援する姿が、今の芸能事務所の社長の目に留まり、
商店街のゆるキャラの広報担当として活動を始めました。
当初は、十分に活動できない自分にいら立つことも。
痛みがつらすぎて、周囲への感謝の気持ちを忘れたこともあった。
そんな時は母に叱られました。
「みんなのおかげで仕事ができている。一人でできると思わないで」と。
一つ一つ、今できることをこなすことで、成功体験が増えた。
できないことを数えるのではなく、できることを数えるようになりました。
つらくて家でつぶれた姿は母しか知らない。
悲しくて泣いたことはないけれど、悔しくて泣いたことはある。
そんな私を見守ってくれ、本音が言えるのも母です。
父は「自分が稼ぐから、お金はいくらかかってもいい」と
治療することに対して背中を押してくれました。
夢は、車椅子の姿で朝の情報番組に出ること。
いずれ、金銭面や体調も含めて自立できることが、家族への恩返しになると思っています。

彼女のプロフィール
1990年、岐阜県可児市出身。
2011年、当時、岐阜市柳ヶ瀬商店街のゆるキャラだった「やなな」の広報として、活動を開始。
2012年、筋肉性脳脊髄炎を啓発しようと患者会「笑顔の花びら集めたい」を発足させた。
2019年に県ヘルプマーク普及啓発大使に任命。
可児市ふるさと広報大使、岐阜大ゲスト講師などを務め、
各地で病気を啓発する講話に取り組む。
以上です。
大変な病気を患っていらっしゃいますね。
>今は週に二日、麻酔注射を四十カ所にしています。痛みが和らぎ、それから三時間だけ休めます。
麻酔注射を四十カ所に打っても、たった三時間だけ痛みがなくなるだけなんて。
こんな大変な病気が、世の中にあるんですね。
>痛みがつらすぎて、周囲への感謝の気持ちを忘れたこともあった。
そんな時は母に叱られました。
「みんなのおかげで仕事ができている。一人でできると思わないで」と。
このお母様がいらっしゃるから、彼女も明るくてアクティブに生きていらっしゃいますね。
このような大変な病気を持つお嬢様を、叱るなんてなかなか出来ないと思うのですが。
>夢は、車椅子の姿で朝の情報番組に出ること。
いずれ、金銭面や体調も含めて自立できることが、家族への恩返しになると思っています。
彼女の夢が、いつか叶うことを願っています。
青春の影 (720P)
私は三つの病気の患者です。
インフルエンザの高熱のような倦怠(けんたい)感が続く「筋痛性脳脊髄炎」、二十四時間全身に痛みが走る「線維筋痛症」、
髄液が減るため頭を起こしているのが難しい「脳脊髄液減少症」で、高校二年の時に発症。
最初は風邪かと思いましたが、治らない。
異常に体が重く感じ、締め付けるような痛みにも襲われました。
母と二人で病院を回り、一年半後、十六人目の医者に出会ってようやく病名がついた。
痛みを疑いの目で見られることもあって、母は赤飯を炊き、父や二人の兄とともに家族全員で喜びました。
今は週に二日、麻酔注射を四十カ所にしています。痛みが和らぎ、それから三時間だけ休めます。
普段は朝起きると全身がぎゅーっと絞られるような痛み。体調によっては一日動けません。
頭を起こし続けていると倒れてしまうため、普段は横になっています。
移動はリクライニング機能のある車椅子。前が見えず自分で動かせないので、外出はいつも母にサポートしてもらっています。
母は私の介助のために仕事をやめました。それでも、「娘がいろんなところに連れて行ってくれる」と言ってくれます。
母は明るくてアクティブ。料理も裁縫もできてコミュニケーション力も抜群。
「明里の心は変わってない」と言い、病気になる前と変わらず接してくれています。
腫れ物を触るように扱われていたら、普段の自分でいられなかったと思う。
心が明るくいられるのは、母のおかげです。
車椅子で、友人のモデルを応援する姿が、今の芸能事務所の社長の目に留まり、
商店街のゆるキャラの広報担当として活動を始めました。
当初は、十分に活動できない自分にいら立つことも。
痛みがつらすぎて、周囲への感謝の気持ちを忘れたこともあった。
そんな時は母に叱られました。
「みんなのおかげで仕事ができている。一人でできると思わないで」と。
一つ一つ、今できることをこなすことで、成功体験が増えた。
できないことを数えるのではなく、できることを数えるようになりました。
つらくて家でつぶれた姿は母しか知らない。
悲しくて泣いたことはないけれど、悔しくて泣いたことはある。
そんな私を見守ってくれ、本音が言えるのも母です。
父は「自分が稼ぐから、お金はいくらかかってもいい」と
治療することに対して背中を押してくれました。
夢は、車椅子の姿で朝の情報番組に出ること。
いずれ、金銭面や体調も含めて自立できることが、家族への恩返しになると思っています。

彼女のプロフィール
1990年、岐阜県可児市出身。
2011年、当時、岐阜市柳ヶ瀬商店街のゆるキャラだった「やなな」の広報として、活動を開始。
2012年、筋肉性脳脊髄炎を啓発しようと患者会「笑顔の花びら集めたい」を発足させた。
2019年に県ヘルプマーク普及啓発大使に任命。
可児市ふるさと広報大使、岐阜大ゲスト講師などを務め、
各地で病気を啓発する講話に取り組む。
以上です。
大変な病気を患っていらっしゃいますね。
>今は週に二日、麻酔注射を四十カ所にしています。痛みが和らぎ、それから三時間だけ休めます。
麻酔注射を四十カ所に打っても、たった三時間だけ痛みがなくなるだけなんて。
こんな大変な病気が、世の中にあるんですね。
>痛みがつらすぎて、周囲への感謝の気持ちを忘れたこともあった。
そんな時は母に叱られました。
「みんなのおかげで仕事ができている。一人でできると思わないで」と。
このお母様がいらっしゃるから、彼女も明るくてアクティブに生きていらっしゃいますね。
このような大変な病気を持つお嬢様を、叱るなんてなかなか出来ないと思うのですが。
>夢は、車椅子の姿で朝の情報番組に出ること。
いずれ、金銭面や体調も含めて自立できることが、家族への恩返しになると思っています。
彼女の夢が、いつか叶うことを願っています。
青春の影 (720P)