中日新聞に「押富さんが挑んだバリアー 2回目 病院への違和感」という欄で中日新聞の安藤明夫(編集委員)さんの記事が掲載されていました。
今回のタイトルは「患者になって気付いた」
押富俊恵さんは、患者さん思いの作業療法士だった。
専門学校を卒業して勤務した愛知県弥富市の偕行会リハビリテーション病院の上司・赤坂佳美さん(現・リハビリテーション部長)は、患者の在宅復帰に情熱を燃やす押富さんの姿を覚えている。
長期入院中の六十代の男性患者がいた。脳出血で重度の右まひと失語症の状態。脳出血時の交通事故により、右足を切断して寝たきりだった。担当チームは「退院後は施設入所」と考えていた。
当時、就職三年目の押富さんは自分の担当患者ではなかったが、病院に付き添う奥さんから「もう一度、家に帰らせてあげたい」という思いを聞き、実現できる方法を調べた。
座高を昇降できる電動座椅子を病院で借りられると知り、その置き場所やリハビリの手順などの企画書を作って、赤坂さんに持ちかけた。
「これがあれば、一人で床からベッドへ移る練習ができて、奥さんの介助も楽になります」
熱意に押されて、赤坂さんは「やってみようか」と答えていた。チームに加わった押富さんとのリハビリの末、男性は家に帰ることができた。
「支援方針が途中で変わるのはめったにないことで、よく覚えています」と、支援相談員の安井絹代さんは振り返る。
奥さんの介護が大変で長くは続かなかったが、希望に沿えて達成感を覚えたという。
<方針をめぐって悔し涙>
同僚の言語聴覚士・鈴木伸吉さん(45)は、就職2年目の押富さんの涙を目撃した。
入院中の高齢者が認知症で不安定になり、やむなく医師が睡眠導入剤を処方して落ち着かせたことがあった。
その報告があった会議の後、廊下を歩く押富さんがうなだれていて「どうしたの」と尋ねると「あんなの抑制じゃん。かわいそう」と悔し泣きしていた。
「私自身は、薬の投与は仕方ないと思っていたので、びっくりしました。
ここまで患者さんのことを考えるのかと」と鈴木さん。
当時、危険防止のため患者をベッドに拘束するなどの「抑制」は、できる限り避けるという人権意識が医療界にも広まりつつあったが、このケースを抑制とみる職員はかなり珍しい。
<隔離された異質な場>
仕事以外でも、愛知県の障害者スポーツ指導員の資格を生かし、全国障害者スポーツ大会で選手の世話役を務めるなどの支援をしていた。
そんな押富さんが、体の自由が奪われていく神経難病・重症筋無力症になって「病院に対するイメージが、ガラリと変わった」と言う。
働いていたころの病院は「日常の一部で居心地のいい職場」だったが、何年も入院する中で「社会から隔離された異質な場」だと感じたのだ。
24歳で気管切開し、調子が悪くなると人工呼吸に頼り、一時は口から食べることも難しくなって胃ろうを設置。
しばしば肺炎を起こすハイリスクの患者だった。
ある病院では半年間入浴ができず、体を拭くだけで済まされた。
体調が良くなっても「おふろなし」が続いた。
申し出たら「えーっ、半年も入ってないの」と驚かれ、スタッフの無関心が悲しかった。
胃ろうの”朝食”は午前三時だった。
歯磨きなどの口腔ケアは「一日一回」の病院もあった。
誤嚥性肺炎の予防には「二回」が望ましいが「忙しい」が口癖のスタッフに言い出せなかった。
2013年に執筆した「作業療法ジャーナル」の連載「患者と治療者との間を生きる」で、押富さんは入院中の体験を振り返り、こう書いている。
「日常生活ではあたり前と思っていることが、病院というところではいいかげんに扱われているように感じました。
忙しさで、つい忘れがちになったり、慣れが生じてしまうのだと思います。
一番怖いと思ったのは、私自身も働いていたときに同じようなことを無意識にやっていたのかもしれないということでした。
もし患者という立場にならなければ、ここまで自分の業務態度を振り返ることはできなかったのではないかと思います」
治療が最優先されるのは当然だが「生活の場」としての意識が医療者に乏しすぎる、という気付き。
その体験を生かすためにも、もう一度働きたいと、歩行や嚥下のリハビリに頑張ったが、効果は乏しかった。
25歳のとき「この体では、患者さんの人生に責任を持ってかかわるのは無理」と、一年の休職を経て退職を決めた。
人生で一番悲しいできごとだった。
退職の手続きに入院先を訪れた赤坂さんは「どうしてこの子が・・・・」と胸が苦しくなった。
症状の重さに「また戻っておいで」とはとても言えなかった。
その六年後、押富さんが職員研修会の講師として元の職場に戻ってくる未来は、想像もできなかった。
ことし四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は地域の中での重度障害者の生き方を示そうとした。
彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。
以上です。
押富俊恵さんは、いつでも、どんな時でも、全力投球で頑張られましたね。
>症状の重さに「また戻っておいで」とはとても言えなかった。
その六年後、押富さんが職員研修会の講師として元の職場に戻ってくる未来は、想像もできなかった。
体の自由が奪われていく神経難病・重症筋無力症という病気を患われても、負けない気力・努力、私には信じがたい女性でした。
神様は、押富俊恵さんに試練を与えすぎのように思えました。
悲しき街角 デル・シャノン 1961