団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

私は悩んでいなくても、空を見ることが好きです。

2021-09-30 00:59:41 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「悩んだ時は空を見よう」というタイトルで、高校2年生の女子生徒さんが投稿されていました。


 悩んでいるとき、どうすれば良いか分からないとき、空を見る。

 求めている答えが空にあるはずもないのに、雲一つない空を見ると、希望が湧いてくる。

 反対にどんよりした雲を見たり、雨が降っていたりすると少し気分が落ち込む。

 勉強や部活動、学校生活などさまざまなことで悩む。

 が、どこまでも続く広い空をぼーっと見ていると、この空の下には自分と同じような悩みを抱えている人はきっとたくさんいる、自分は一人じゃないと感じることができる。

 空は人を励まそうとしているのではないのに、そのような気持ちを思わせることができるのはすごいなと思う。

 私も周りの友達を自然と元気にできる、友達に勇気を与えることができる、そんな人になりたい。

 皆さんも生活で息詰まったとき、空を見ることをお勧めします。

 きっと力が湧いてくると思います。


 以上です。


 なるほど、投稿者さんは悩んでいるとき、空を見られるんだ。

 私は悩んでいなくても、空を見ることが好きです。

 投稿者さんは、雲一つない空を見ると、希望が湧いてくると書かれていますが、私は晴れた青い空に雲が浮かんでいる様が好きです。

 それこそ歌ではないですが、雲にのって下界を眺めて見たいです。

 自転車に乗っていても、晴れていますと、つい空を見てしまいます。







雲にのりたい ☆ 黛ジュン
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うちのお袋は「タイ米なんて食べない! 日本のお米しか食べない!」と言っていました。

2021-09-29 02:48:02 | 日記
 中日新聞の「風来語(かぜ きたりて かたる)」という欄に「多様性の風景」というタイトルで、中日新聞社 主筆 小出 宣昭さんが投稿されていました。


 ロンドンでタクシーに乗っていたときである。

 突然、雨がパラパラと降り出し、やがて土砂降りになったら、運転氏が後ろを向いて「イッツ・ア・ファインデー」(いい天気だねえ)とにっこり。

 思わず「ノー、ノットファイン」(いや、よくないでしょ)と答えると、彼は両手を広げて首をすぼめ無言のまま目的地へ。

 この奇妙な体験を英国人記者に話したら「それは、イエス、ファイン・フォー・ダックス(アヒルたちにはいい天気だね)と答えるのが習わしだよ」と教えてくれた。

 お天気は自分だけのものじゃない。

 風が吹けば渡り鳥にとって、雪が降れば白熊やスキーヤーにとって「いい天気」なのだ。

 大雪になれば「ファイン・フォー・ホワイトクリスマス」とやれば喝采ものだという。

 英国人はお天気話が大好きなのだが、それにジョークを交えてさまざまな人、動物、文化に思いをはせていく。

 多様性を重んじる根っこの深さというべきか。

 日本でもかっては「雨、雨ふれふれ母さんが」の文化があったのに、今や晴れが○、雨はXという非多様性の天気感覚になってしまった。

 何につけモノサシ一本主義に染まった現代日本だが、それが露わになったのは1993~94年のタイ米騒動だろう。

 冷害でコメ不足に陥り、タイから緊急に米を輸入したときである。

 タイ米を買った主婦たちから「パサパサでおむすびも握れない」との不満が続出したのだ。

 これにフランソワーズ・モレシャンさんがかみついた。

 「チャーハンに適したタイ米でおむすびを食べたいなんて、スパゲティをざるそばで食べたいというのと同じ無意味な言葉。
あの優しい日本の感性はどこへ」

 やがて、タイ米を入れた米袋からネズミの死骸が見つかって国中がヒステリー状態に。

 国会でも野党議員が「不衛生極まる」と追求したが、これも変な話だった。

 米蔵にネズミはつきもので、昔は「俵のネズミが米食ってチュー」とのどかに遊んでいたのではないか。

 一連の騒動でもっとも欠けていたのは、苦しいときに助けてくれたタイの人々への思いである。

 東京五輪・パラリンピックを機に多様性が脚光を浴びている。

 まずは、過去にあった他者のモノサシを尊ぶ習わしを思い出そう。

 以上です。

 
>何につけモノサシ一本主義に染まった現代日本だが、それが露わになったのは1993~94年のタイ米騒動だろう。

 タイ米騒動、思い出します。

 うちのお袋は「タイ米なんて食べない! 日本のお米しか食べない!」と言っていました。

 考えてみれば、政府もモレシャンさんが言われた様に「チャーハンに適したタイ米でおむすびを食べたいなんて、スパゲティをざるそばで食べたいというのと同じ無意味な言葉。」。
タイ米の用途は,違いますよと言ってくれれば良かったのに。

 政府はやはりタイ米でおむすびが作れると思っていたのかな?😅
タイ米を日本のお米の代わりに使おうと考えていたとしか思えない。
タイ米の用途は違うのに。
 
 日本はガラパゴス文化と言われます。
 世界の主流と違うものを独自に作っていて、世界の主流に乗り遅れてしまってビジネスの世界では負けてしまう様です。

 島国の弊害かも知れませんね。

 日本も、もっと多様性を身につけねばいけなくなるでしょうね。

 少子高齢化社会では、外国人を受け入れなくては生き残れないでしょうから。




Bobby Vinton - Mr Lonely
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最後の最後まで人生を謳歌された女性でしたね。

2021-09-28 01:34:35 | 日記
 昨日の続きです。

 押富さんが挑んだバリアー 3回目「恐怖の体験」

 「絶望の淵から奇跡の”声”」というタイトルで、中日新聞の安藤明夫さん(編集委員)の記事が載っていました。



「死にたくなければ一生食べるな。食べたいなら声はあきらめろ」

 押富俊恵さんが主治医からこんな言葉をぶつけられたのは、二十七歳の時だった。

 重症筋無力症に合併した誤嚥(ごえん)性肺炎や敗血症で、入退院を繰り返してきた。

 誤嚥をなくすには、唾液が気道に入るのを防ぐ喉頭(こうとう)気管分離手術をするか、胃ろうからの栄養補給だけで、体力の低下を覚悟するしかない。

 医師が勧めたのは分離手術だが、空気が声帯を通らなくなるため、話す力を失ってしまう。

 押富さんは「そんな重大なことを突然言われても」と戸惑った。

 看護師たちも相談に乗ってくれず、一人で考えた末、手術を断った。

 話せないと復職の夢も絶たれるし、意思を伝えられなくなることに「恐怖の体験」があったからだ。

 <患者の尊厳は口先?>


 院内で痰(たん)がのどに詰まって意識不明になり、救命のために気管切開した後のこと。

 まぶたが下がって目が開かず、人工呼吸器に妨げられて声も出ず、全身の脱力で筆談もできなくなった。

 神経難病の世界では、意識も感覚もあるのに伝える手段がないことを「完全な閉じ込め状態」と呼び、患者たちが恐れているが、それに近い状態に陥ったのだ。

 その時、医療者たちは押富さんへの関心をなくした。

 医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。

 看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。

 作業療法士も黙々と関節をほぐして帰って行った。

 すぐに回復できたが、不信感が残った。

 「命を守ることが最優先」「信頼関係が大事」と言っている医療者が、患者の尊厳を大切にしているのだろうかと。

 押富さんにとっては、入院中は患者だが、家に帰れば生活者として充実した時間があった。

 歩行や嚥下のリハビリに全力投球する一方投球する一方、誤嚥を防ぐ「おいしい嚥下食」のメニューを考え、母たつ江さん(69)に作ってもらった。

 趣味の手芸にも打ち込んだ。

 2009年、28歳の夏には、高校の仲間の結婚式に酸素ボンベなしで松葉づえを使って出席し、おしゃべりや食事を楽しんだ。

 <医師の涙に手術決意>

 だが、また再発して別の病院に緊急入院した。

 一時は生死の境をさまよう重症だった。

 担当した医師はやはり分離手術を勧めた。

 「敗血症を繰り返すたびに救命の可能性が下がる。

 今のうちにやるほうがいい」。

 前の病院とは違い、丁寧な説明だった。

 付き添った たつ江さんは、医師の涙を覚えていた。

 文字盤を使い「ほかにほうほうはないの(か)」と泣きながら訴える押富さんに、説得する側の目も真っ赤だったのだ。

 一週間考え、イエスの返事をした。

 「医療職の関わり方が患者の決意を後押しするのだと、身をもって学びました」と13年の「作業療法ジャーナル」の連載で書いている。

 そして、奇跡が起きた。

 体調が回復してきたある日、ベッド上で「口パク」のように舌や唇を動かしているうち「口やのどにある空気を使って音が出せるかも」と、ふと思った。

 空気を吸い込めないから、大きな音は出せないが、看護師を相手に練習するうち、だんだん思うような響きを出せるようになって、意味のある声に変わっていった。

 この独自の発声法、多くの患者の福音になりそうだが、うまく説明できないという。

 昨年9月に、私がやり方を尋ねたとき

 「懸命なリハビリというより、気楽に気長に続けることで、今に至ります。

 いろいろな方法で呼吸器を着けていても話す方はいますが、私みたいな方法で話す人はまだ会ったことがないですし、医師も不思議がっていますよ。たぶんすごく稀です」と返事のメールをもらった。

 この「気楽に気長に」がポイントかもしれない。

 12年のブログでは「声と呼べない口パクのようなもの」と記し、併用する文字盤では気持ちが伝わりにくいと嘆いていた。

 それが15年になると「パソコンって言うと、50%近い確率で「ばんそうこう?」って返される。

 「今日は『血、止めているの』と言ったら、シートベルトだと思われた」と聞き間違いされた体験をおもしろがっていた。

 19年に私が知り合った時には、声量はないが明瞭で聞き直す必要のない精度だった。

 講演では文字をスライドに映して読み上げていたが、なくても十分に伝わると思えた。

 20年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。

 市民団体を立ち上げ、障害者と健常者が集う「ごちゃまぜ運動会」などのイベントを企画し、地域でのつながりを広げていったのも、電動車いすで遠方まで講演に出掛けたのも「楽しいから」。

 楽しむために努力を重ね、発声障害のバリアーを乗り越えたのだ。

 以上です。


 
>医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。
 看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。
 作業療法士も黙々と関節をほぐして帰って行った。

 自分が人間扱いされなくなったら、どれほど悲しいでしょうか。
 それこそ奈落の底に落ちた気分なのでは。
 それを医療者が行う。
 なんて残酷なんでしょう。

 
>20年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。

 本当にそうですよね。
 学生時代からずっと頑張り続けた女性ですね。
 常識をものともせず、いろんな工夫をされた方ですね。
 それを楽しんで行なっていた素晴らしい女性です。
 最後の最後まで人生を謳歌された女性でしたね。




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体の自由が奪われていく神経難病・重症筋無力症という病気を患われても、負けない気力・努力、私には信じがたい女性でした。

2021-09-27 00:44:56 | 日記

 中日新聞に「押富さんが挑んだバリアー 2回目 病院への違和感」という欄で中日新聞の安藤明夫(編集委員)さんの記事が掲載されていました。

 今回のタイトルは「患者になって気付いた」

 押富俊恵さんは、患者さん思いの作業療法士だった。
 専門学校を卒業して勤務した愛知県弥富市の偕行会リハビリテーション病院の上司・赤坂佳美さん(現・リハビリテーション部長)は、患者の在宅復帰に情熱を燃やす押富さんの姿を覚えている。

 長期入院中の六十代の男性患者がいた。脳出血で重度の右まひと失語症の状態。脳出血時の交通事故により、右足を切断して寝たきりだった。担当チームは「退院後は施設入所」と考えていた。

 当時、就職三年目の押富さんは自分の担当患者ではなかったが、病院に付き添う奥さんから「もう一度、家に帰らせてあげたい」という思いを聞き、実現できる方法を調べた。

 座高を昇降できる電動座椅子を病院で借りられると知り、その置き場所やリハビリの手順などの企画書を作って、赤坂さんに持ちかけた。
 「これがあれば、一人で床からベッドへ移る練習ができて、奥さんの介助も楽になります」

 熱意に押されて、赤坂さんは「やってみようか」と答えていた。チームに加わった押富さんとのリハビリの末、男性は家に帰ることができた。

 「支援方針が途中で変わるのはめったにないことで、よく覚えています」と、支援相談員の安井絹代さんは振り返る。

 奥さんの介護が大変で長くは続かなかったが、希望に沿えて達成感を覚えたという。

 <方針をめぐって悔し涙>

 同僚の言語聴覚士・鈴木伸吉さん(45)は、就職2年目の押富さんの涙を目撃した。

 入院中の高齢者が認知症で不安定になり、やむなく医師が睡眠導入剤を処方して落ち着かせたことがあった。

 その報告があった会議の後、廊下を歩く押富さんがうなだれていて「どうしたの」と尋ねると「あんなの抑制じゃん。かわいそう」と悔し泣きしていた。

 「私自身は、薬の投与は仕方ないと思っていたので、びっくりしました。
 ここまで患者さんのことを考えるのかと」と鈴木さん。

 当時、危険防止のため患者をベッドに拘束するなどの「抑制」は、できる限り避けるという人権意識が医療界にも広まりつつあったが、このケースを抑制とみる職員はかなり珍しい。

 <隔離された異質な場>

 仕事以外でも、愛知県の障害者スポーツ指導員の資格を生かし、全国障害者スポーツ大会で選手の世話役を務めるなどの支援をしていた。

 そんな押富さんが、体の自由が奪われていく神経難病・重症筋無力症になって「病院に対するイメージが、ガラリと変わった」と言う。

 働いていたころの病院は「日常の一部で居心地のいい職場」だったが、何年も入院する中で「社会から隔離された異質な場」だと感じたのだ。

 24歳で気管切開し、調子が悪くなると人工呼吸に頼り、一時は口から食べることも難しくなって胃ろうを設置。

 しばしば肺炎を起こすハイリスクの患者だった。

 ある病院では半年間入浴ができず、体を拭くだけで済まされた。

 体調が良くなっても「おふろなし」が続いた。

 申し出たら「えーっ、半年も入ってないの」と驚かれ、スタッフの無関心が悲しかった。

 胃ろうの”朝食”は午前三時だった。

 歯磨きなどの口腔ケアは「一日一回」の病院もあった。

 誤嚥性肺炎の予防には「二回」が望ましいが「忙しい」が口癖のスタッフに言い出せなかった。

 2013年に執筆した「作業療法ジャーナル」の連載「患者と治療者との間を生きる」で、押富さんは入院中の体験を振り返り、こう書いている。

 「日常生活ではあたり前と思っていることが、病院というところではいいかげんに扱われているように感じました。

 忙しさで、つい忘れがちになったり、慣れが生じてしまうのだと思います。
 一番怖いと思ったのは、私自身も働いていたときに同じようなことを無意識にやっていたのかもしれないということでした。

 もし患者という立場にならなければ、ここまで自分の業務態度を振り返ることはできなかったのではないかと思います」

 治療が最優先されるのは当然だが「生活の場」としての意識が医療者に乏しすぎる、という気付き。

 その体験を生かすためにも、もう一度働きたいと、歩行や嚥下のリハビリに頑張ったが、効果は乏しかった。

 25歳のとき「この体では、患者さんの人生に責任を持ってかかわるのは無理」と、一年の休職を経て退職を決めた。

 人生で一番悲しいできごとだった。

 退職の手続きに入院先を訪れた赤坂さんは「どうしてこの子が・・・・」と胸が苦しくなった。

 症状の重さに「また戻っておいで」とはとても言えなかった。

 その六年後、押富さんが職員研修会の講師として元の職場に戻ってくる未来は、想像もできなかった。


 ことし四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は地域の中での重度障害者の生き方を示そうとした。

 彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。

 以上です。

 押富俊恵さんは、いつでも、どんな時でも、全力投球で頑張られましたね。

>症状の重さに「また戻っておいで」とはとても言えなかった。
 その六年後、押富さんが職員研修会の講師として元の職場に戻ってくる未来は、想像もできなかった。
 
 体の自由が奪われていく神経難病・重症筋無力症という病気を患われても、負けない気力・努力、私には信じがたい女性でした。

 神様は、押富俊恵さんに試練を与えすぎのように思えました。



悲しき街角 デル・シャノン 1961
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バッグを買ってもらったのがうれしかったのではなく、おばあちゃんに買ってもらったのが、うれしかったのだ。

2021-09-26 00:59:31 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「思い出詰まったバッグ」というタイトルで、中学3年の女生徒が投稿されていました。


 幼稚園の頃に欲しかったイチゴ柄のバッグをおばあちゃんに買ってもらった。

 世界一の幸せ者ではないかと思った。

 どこにでも持って行き、幼稚園では先生に怒られたこともあった。

 家に置いておくと誰かに取られるのではと思って手放したくなかったのだ。

 ある時、バッグを持って出かけようとして、ひもがちぎれてしまった。

 「直して」と親に頼んだが、修復不可能だった。

 「新しいのを買ってあげるよ」と言われたが、断った。

 どうしてだろう。

 当時は分からなかったけど、今は分かる気がする。

 バッグを買ってもらったのがうれしかったのではなく、おばあちゃんに買ってもらったのが、うれしかったのだ。

 バッグを捨ててはいない。

 たくさんの思い出が詰まっているからだ。

 たくさんの物を持つより、思い出が詰まっている一つの物を長く使いたい。

 以上です。


 
>バッグを買ってもらったのがうれしかったのではなく、おばあちゃんに買ってもらったのが、うれしかったのだ。

 こんなことをかわいいお孫さんに言われたら、おばあちゃんはとてもうれしいでしょうね。

 私も孫たちが小さい頃いろんな物をプレゼントしましたが、このお孫さんの様に大事にしてよろこんでくれた物が一つでもあったらいいですが。




bee gees "massachusetts" rare acoustic
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