団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

日本人でよかったと思わせてください!

2006-03-25 14:55:00 | 日記
昨日の夕刊に全国戦災傷害者連絡会会長 杉山千佐子さんの記事が掲載されていました。あまりに悲惨で私でしたら自殺してしまうと思いました。
杉山さんは、1945年(昭和二十年)三月二十五日に名古屋空襲に出会いました。
名古屋の大規模な空襲は三月十二日から始まり三度目の空襲が二十五日。「いよいようちが焼ける」と家の中に水をまいていたら、大型の爆弾が。防空壕に入ったとたん、爆風で鼻がもぎ取られて顔が裂け、すごい土砂で体ごと埋まった。
二十九歳のときのことです。こら助からんなあと思いました。その後、激痛に苦しみました。顔の傷が化膿して医師がはさみで顔をジョキジョキ切ったら、うみがザーザー流れ出た。左目の摘出は手術室も痛み止めもない中でした。傷あとを初めて見た時は情けなくて、生きてるかいがないなと。日本が負けた時も、屋上から飛び降りようと思った。心の支えは、なけなしの信仰。
「神様は私が死ぬことをお望みでなかった。まだなさねばならない。強く生きてみよう」と。でも悲しいことはたくさんあった。職も行き先もないのに、ずっと面倒を見るといってた弟に「(結婚するから)うちを出てくれ」と言われた時も本当に情けなかった。
七三年に全傷連を作り、民間の戦傷者の救済運動を始められてずっと今まで活動されているが、今も民間の戦傷者を救う援護法は成立していません。
戦争の為に犠牲になられた方は靖国神社に祭られている軍人さんだけではないのです。当然 民間の犠牲者の方が多くみえますし、なおかつ戦傷者の方も数多くみえます。けがのせいで自立できず、誰一人満足な生活はおくってみえません。片腕がないのに同居する子供夫婦から朝のパンしかもらえない人、人間扱いされず家族から「捨てたい」と言われた人・・・。
昨年の「戦後六十年」でもう戦争は終わったという雰囲気があるが、今もなお戦争の傷害で苦しんでみえる民間の方が数多くみえます。政府は大銀行が潰れかかった時には、大銀行が潰れたら日本の経済はむちゃくちゃになると言って国民の税金から大銀行を助けた。大銀行の一つや二つつぶれてもかまわない。戦争に少しもかかわりたくなかったのに戦争の被害者になった民間の方の援護をしなければ日本の品位に欠けますよ!!.
小泉さん、靖国よりも生きてみえる民間の戦傷者さんを少しでも助けるべきではないでしょうか。杉山さんの生きてみえる間に戦時災害援護法を国会に提出して立法化してください。小泉さんは冷たい人のようだから無理でしょう。どこかに弱者を助ける政治家が出ることを期待したいし、そのような政治家が日本にいてほしい。
最近 日本が野球で世界一になったとき、若者の一人が日本人でよかったと叫んでいました。私は日本が弱者にやさしい国になった時、「私は日本人でよかった」と叫びたい。
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ノンビリ行こうよ人生は

2006-03-19 09:08:00 | 日記
以前も取り上げた事がありますが、私が尊敬する人のひとり漫画家の水木しげるさんの記事が日経の夕刊3月9日に掲載されていましたので、抜粋してお伝えします。
まず水木さんは「睡眠至上主義」です。
水木さんは子供の頃から好きなだけ寝ていたとのこと。父親は水木さんのことを低能だと思い、幼稚園に行かせてくれなかったとのこと。一年送れて小学校に入ってからも、兄と弟があくせくと学校に出かけてから、ゆっくり起きて、腹いっぱい朝飯を食い、二時間目から悠々と教室に現れたとのこと。
「決まり切った常識や窮屈な規律に従わずに、子供のころから自分本位の価値観、すなわち(水木さんのルール)で生きてきたきたわけです。「睡眠を削って頑張るのを良しとする風潮が日本中を覆っています実に嘆かわしい。眠るが勝ちです。眠る時間まで犠牲にして粉骨砕身、努力してきた手塚治虫さんや石ノ森章太郎さんは早々とあの世に行ってしまった。眠りに忠実な水木さんは百歳まで生きるような気がしています」
次に「幸せ、幸せと叫びすぎると、小さな幸せは逃げてしまう」
「自分の幸福は自分で追求しないといけません。我が道を行くわけです。他人の知恵を使おうとするからいかんので、借り物の知恵はカスです」「あきらめも肝心です。欲望にはきりがないから、自分で幸せのレベルを決めておく。どこかで線を引かなければダメです。幸福を渇望して幸せ、幸せと叫びすぎると、小さな幸せは驚いて逃げてしまう。ほんの少しの幸せを感じて味わう能力が大事です。幸福が欠乏したら自分で補充すればいい」
 幸福を補充する方法が凡人には分からない。
「簡単です。よく寝ると幸福の感度が上がります。眠りの達人の水木サンが言うのだから間違いない。一日十時間眠るのです。それを一年間続ける。欲張ってあくせくした人生観が一変します。すなわち半分バカになる。幸せの第一歩です。それができないと、いつまでたっても幸せ下手から抜け出せません」

水木サンが言われるように睡眠時間十時間取ることが幸せの第一歩とのことですが、私にとってチヨットむつかしい。定年になったら、一日十時間の睡眠を取るよう努めたい。
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岡部伊都子さん「加害の女だから戦争と差別憎い」

2006-03-18 19:50:00 | 日記
昨日の夕刊に随筆家の岡部伊都子さんの記事が載っていました。それ以前に本の書評で岡部さんの記事を多少覚えていましたので、興味を持って記事をよみました。岡部さんは自分で「加害の女」という烙印を押されています。というのは戦争中、婚約した日、初めて、婚約者と二人だけで向かい合った日
見習士官の婚約者が「この戦争は間違いやと思うてる。僕は戦争のために死にたくない」。岡部さんはその婚約者に「わたしだったら喜んで死ぬけど」。と答えてしまった。その日の晩、婚約者を大阪駅で日の丸の旗を振って戦地へ送り出した。
戦争の最中、「戦争間違ってる」ていった男の子、聞いたことない。覚悟しないと言えない。うっかり言って、人に聞こえたら牢獄に入れられる時代です。みんな死にたくなかったのに、死んだ。岡部さんは婚約者を戦地に送りこんで死なせた加害者。だから自分の正体は、自分が明らかにせないかん。それをしないと、うそをついたまま死ぬことになる。
婚約者は沖縄戦で両足を失って自決。沖縄には複雑だが、思慕のような思いもある。
今、時代の空気がよどんでいます。郵政民営化とだけ声高に叫んだ総選挙がおましたやろ。あの時、日本の未来はどうなるか、なんも考えない国民を信じられなくなっちゃったよ。なんで日本人が、国民が、小泉純一郎首相の言いなりにならんならんの。真実を見て生きたいと思う人よりも、格好よく生きていたいと思う人の方が多いんとちゃう。真剣に自分と向かい合って、自分の真実をゆるせるかどうか。どこに立ってるかを考える努力がいる。
憲法も危ういな。九条を守ることが、憲法やがな。改憲しようとしている人たち。自分たちのしていることを何だと思ってんだろうな。
「加害の女」であるからこそ、言うんだということもあるわな。だけど、言いたいことは言うて死にまっせ。今、信じられないくらい九条の周辺がややこやしくなってるの。九条があるということだけを信じたら駄目だよ。自分の中に本当の九条を置きなはれ。と岡部さんは言われる。
岡部さんのような人たちの声を私たちは真摯に受け止めなければいけないと思います。国民よ目を覚まそう。人の声に耳を貸さず。何が自分たちに幸せなのかを自分の心でかんがえようではありませんか!


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美輪明宏さんのハートナビ(人生相談)②

2006-03-12 16:05:00 | 日記
以前 美輪明宏さんの人生相談を取り上げた事がありますが、昨日の夕刊にも美輪明宏さんの人生相談の回答に感心させられましたので記載します。
女子大学生が自分の母親に関して相談しています。相談内容は5年前に父と別れ女手一つで大学まで行かせてくれ、心から母親に感謝しています。母親には新しい幸せを見つけてほしいと思っていました。
ところが、母が2、3ヶ月前から身だしなみにも気をつかうようになり、いつもうれしそうにしているのを見るとどうも彼氏ができたみたいなのです。最初はこれで母も第二の人生を歩きだすんだと、祝福する気持ちが多かったのですが、最近になってなぜか許せなくなってしまいました。母にはいつまでも母でいてほしいと思う心と、やはり女として幸せになってほしいと思う心が毎日、私の中で葛藤しています。
という相談内容にたいして美輪さんの回答は
恋をしたお母さんを許すとか、許せないとか、人に対して思うのはごう慢ではありませんか。
人間社会で生きていくルールは「人と付き合う時は腹六分」ということ。
誰だって見せたくない所はあるし、入ってほしくない部分もあります。「親しき仲にも礼儀あり」というように、親子、夫婦、きょうだいであっても礼儀はあります。
「お母さん」「お父さん」「息子」「娘」などという名は、意味のない記号の」ようなものです。あなたから見れば「お母さん」ですが、お父さんには「妻」、他人から見れば「おばさん」。相手によって、くるくる変ります。基本は「人間」ということです。「人間」ならば恋もします。それが許せないならお母さんを「人間」として見ていないのです。「お母さん」というレッテルを押しつけている独裁者です。この人間社会の基本を理解すれば、どこの世界に行っても、苦しみや悩みは半減すると思います。以上が美輪さんの回答ですが、いつもながら感心させられます。
特に人間社会で生きていくルールは「人と付き合う時は腹六分」の記述には感心しました。なかなか難しいですが、みんながそのルールを守れば最近の夫婦、親子、祖父、孫 間の事件など少なくなるとおもいます。誰にも入ってほしくない部分があります。「親しき仲にも礼儀あり」を守るように心掛けましょう。 


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茨木のり子さん ③

2006-03-11 06:21:00 | 日記
茨木のり子さんに関して最後の記述とします。茨木のり子さんのプロフィール紹介の中で人間幾つになっても初々しさを失ってはいけないとの記述がありました。誰もが人間年を取ると人生のベテランのように振舞わなければならないと思ってしまいますが、そんなことはない。ドギマギしてもいいんだよと言っています。私もこの詩で安心しました。そうなんだ人間幾つになってもドギマギしてもいいのだと。
下記にその詩を記述します。
汲む
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

このY・Yさんとは夕鶴の舞台俳優として有名な山本安英さんとのこと。
山本安英さんの出会いについての記述を記載します。

山本安英との出会い

 「Y・Yに」は女優の山本安英さんのことですが、山本安英さんと初めてお会いしたのは、昭和二十二年なんです。
 土方与志さんっていう、今の方はわからないかもしれませんが、新劇運動の創始者で、築地小劇場をつくった方が、佳作になった私の戯曲を読んで、女性で戯曲を書くのはめずらしいからあなた会ってごらんなさいって山本さんに勧められたらしいんですね。それで向こうのほうから学生寮にお手紙下すって、私はそのときとってもうれしかったんです。きれいな字でね。それから戦後ずっと山本さんとのおつきあいが始まりました。
 そのころは、山本さんは結核がまだ治り切らなくて、寝たり起きたりしてらっしゃいましたから、私は山本さんのお宅をおたずねしては、いろんなお話をうかがってたんです。私が山本さんから得たものはとても大きいんですね。そのころは四十くらいでいらしたけど、人間が生きていく基本みたいなもの、親やら先生からは得られないような大事なものを、私は山本さんからたくさんいただいたと思ってるんです。
 生き方の根本みたいなものって、どう言うのが一番いいかなあ。あのね、私、山本さんの色紙を一枚持っていたんです。生前、あまり色紙をお書きにならなくて、現在、夕鶴記念館に寄贈したのですが、それは
「静かにいくものは
 すこやかに行く
 健やかにいくものは
 とおく行く」
っていうんです。
 女優さんなんか、派手で、一時期脚光を浴びて、それですぐだめになる人が多いでしょう。ところが山本さんは、この色紙のことばを一生かかって体現したのですね。 初舞台は大正十年ぐらいだったと思うんですけど、築地小劇場で女優さんとして始めて、ほぼ七十年間、九十歳で亡くなられるまで、最後まで第一線だったんですよね。あのみごとさっていうのはないと思うんです。けっしてきらびやかではないけれども、ほんとに本質的な女優さんだったと思いますね。
 それともう一つは、芸術家っていうのは奔放無頼、何をしてもいいとみんな思ってるけど、私はそうは思いませんっておっしゃるんですね。長い間いろんな人を見てきたけれど、一流の芸術家は社会人としても立派だって言うんです。当時私は、こんな常識的な生きかたしてていい詩なんかできるはずないってどこかで思ってたんですが、でもそうじゃないってこと。そういったことを、教えるっていうんじゃなしに、自分の話として言って下さるんですね。そういうのが私にはびしびしききました。
 それから先年亡くなられるまで、ずっとおつきあいは続いていました。それはたったひとつ私の誇れることですね。
 当時、自分の身のまわりにいた女性達とはぜんぜん違ってた。第一ことばがよかった。っていうのは内容があるってことなんですけど。それから生き方の問題とか、いろいろあるんですが、そういうことってすごく大事で、だからあなたもね、はたちなんだし、そういう人を見つけられるといいですね(笑)。



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