【がんがつなぐ足し算の縁】笠井信輔 読者からの反響編(5) AYA世代 僕らが伝えたいこと
2023年3月28日
21日に最終回を迎えたフリーアナウンサー、笠井信輔さん(59)の連載「がんがつなぐ足し算の縁」。
笠井さんと読者が紙面で「双方向」につながることを目指してきた連載には、1年3カ月で約200通の感想や闘病記が寄せられました。
反響編の5回目は、まさに今、がんと闘っているAYA世代(15~39歳)の2人の思いを伝えます。 (細川暁子)
そのままの自分でいい
生きる力をくれた笠井信輔さんとの再会。
抗がん剤治療中の社交ダンスインストラクター谷口兼一さん(33)=写真、名古屋市=は先月中旬、笠井さんが出演した同市内のイベント会場に駆けつけ、涙を流して喜んだ。
血便が続き、検査で大腸がんだと判明したのは昨年8月。その1カ月前には社交ダンスの全日本選手権の若手部門で3位に入るなど元気に活躍していた。手術でがんを切除した1カ月後、肝臓への転移が分かった。
病室に1人でいると、気が狂いそうだった。「このまま死んでいくのかな」。人前で喝采を浴びるダンスの仕事が生きがいだった。でも、もうできない。自分が無価値な人間になった気がした。
退院後、懐かしい人たちに会いたくなった。訪ねたのは高校時代のサッカー部の恩師。その時、笠井さんが近々来校することを知った。昔からテレビで見ていた笠井さんには親近感を覚えていた。
昨年10月、母校で笠井さんの講演を聞いた後、「どうしても笠井さんに会いたい」と頼み込んだ。
抗がん剤治療を10日後に控え、不安が募っていた。楽屋で話を聞いてくれた笠井さんは「医学は発達している。大丈夫だよ」と言ってくれた。「がんになったからこそ得られる縁がある」とも。笠井さんとの出会いこそが、縁だと感じた。
その後、今度は恩師から、母校の生徒たちに向けての講演を頼まれた。飾らない言葉で、がんになって気づいたことを話した。
「入院中は、ご飯も食べられない。手術したら風呂も入れない。トイレに行けない。立ち上がれない。ただただ痛い。自分は何の価値があるんだと考えもしました。
おかげで退院した時に太陽の暖かさ、風の爽やかさ、ご飯のおいしさ、トイレに行ける幸せを感じることができました。普通の日常がどれだけありがたく幸せなことかを知りました」
生徒たちに一番伝えたかったのは、ありのままの自分でいいんだということ。自分自身も徐々に病気を受け入れることができるようになっていった。
当初は高校3年生だけが対象だった。だが、恩師から他の学年や中学生にも話してほしいと求められ、講演会は計4回に及んだ。知人が勤める児童養護施設からも声がかかった。子どもたちに、こう語りかけた。
「今ここにいて僕の話を聞いてくれて、僕と同じ時間を共有してくれて、本当にありがとうございます。生きていてくれて、本当にありがとうございます。ここにいる仲間は、誰一人欠けても、今、この時間はつくれない」
笠井さんとの出会いが前を向くきっかけをくれた。感謝の気持ちを、会って伝えたい-。
そう願っていたら訪れた再会のチャンス。笠井さんは手を固く握りながら「よく来てくれたね、頑張ってるね」とほほ笑んだ。
「笠井さんに生かされてる。本当に、ありがとうございました」。泣きながら伝えると、笠井さんは別れ際に抱き締めてくれた。
現在も2週間に1回の抗がん剤投与が続く。治療後1週間はだるくて、寝込む日々。「でも、自分が若くしてがんになったことには必ず何か意味があるはず。それを伝えていくのが使命なんだと思う」。笠井さんの背中を追って、生きていく。
経験生かし 誰かの役に
何よりおびえていたがんの再発。自宅の机をひっくり返し、本棚の本をまき散らした。「なんで、こんな目に遭うんだ。なんで俺が」。
岐阜県内の高校3年生タクミさん(18)=仮名=の気持ちが爆発したのは昨年春のことだった。
血尿が出始めたのは2017年12月末。中学1年の冬だった。
大学病院を含め病院をいくつも回ったが、原因が分かったのは約1年半後だった。
19年3月に受けた検査で、小児がんの「腎芽腫」だと判明。
中学3年になった翌月、左の腎臓を摘出した。
修学旅行には行けなかった。その後も抗がん剤治療を受けながら学校に通った。
病院に向かう車の中で英語のリスニング対策のCDを聞き、投与中も参考書を手放さなかった。
猛勉強の成果で希望の高校に合格。
だが昨年3月、再発と肺への転移が分かった。
告知された時、初めて母親(49)の涙を見た。
自分はその場では淡々と説明を聞いた。「おかん、泣くなよ。恥ずかしいやん」。
診察室を出た後、母親にそう声をかけた。
帰宅し1人になると、感情を抑えられなくなった。
翌月、2日だけ高校3年の新しいクラスに通った後、入院。
抗がん剤と放射線治療が始まった。最初は個室の病室でオンライン授業を受けていたが、治療の副作用がきつくて起き上がることもできない。授業に集中できず休学することにした。
テレビの高校野球など、青春まっただ中の高校生の姿を見るのがつらかった。
他の患者との交流はなく、コロナ禍で家族にも会えない。
「自分は一体、ここで何をしているのか」。
孤独を救ってくれたのは病院のスタッフたち。医師や看護師、薬剤師、心理的支援などを行う専門職「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」との何げない会話が大きな支えだった。
退院できたのは、入院から8カ月後の昨年12月。
家族4人で過ごす喜びをかみしめた。
取材を受けることになったのは、母親が笠井信輔さんの連載に投稿したことがきっかけだった。
自分と似て、控えめな母親。投稿していたことを知り驚いた。「がんと共存して生きていく。これからもそんな息子の背中を見守り続けたい」。母親の投稿にはそう書かれていた。
闘病中の笠井さんのことはニュースで知っていた。
「この人も、つらいだろうな。しんどいだろうな。でも頑張ってる」。
同じ患者目線で、笠井さんのことを見ていた。笠井さんの連載は、入院中も母親が取っておいてくれたものを読んできた。
先月下旬、肺に新たながんが見つかった。
来月に手術と抗がん剤治療を控えている。「手術できるということは、治療の選択肢が増えるということ」。気持ちの浮き沈みと闘いながらも、前を向く。
将来は、医療関係の仕事に就きたいという。医師を目指すように勧めてくれたのは主治医。「若くしてがんになる人はそういない。患者になったからこそ、できることがきっとある。経験を生かし、誰かの役に立ちたい」
小児がんで闘病中のタクミさん。医師になる夢に向かい勉強に励んでいる=岐阜県内で
以上です。
>何よりおびえていたがんの再発。自宅の机をひっくり返し、本棚の本をまき散らした。「なんで、こんな目に遭うんだ。なんで俺が」。
会社の同僚の自宅にお見舞いに行った時、彼が「なんで、こんな目に遭うんだ。なんで俺が」と、言ったことを思い出しました。
彼は癌の手術をして、自宅に戻っていました。
防人の詩 ナターシャ・グジー / Sakimori no Uta by Nataliya Gudziy