団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

小学校の校歌は、6年もあったので一番は歌えますね。

2022-03-31 01:25:09 | 日記



 中日新聞の読者投稿欄に「校歌斉唱いつかきっと」というタイトルで、中学3年生の女子生徒さんが投稿されていました。

 担任の先生から「コロナが拡大しているから卒業式で歌うことができなくなった」と言われた。

 中学校に入学した時、先輩たちが校歌を歌う姿を見て、学校への思いやりや誇りを感じ、あのようになりたいとあこがれたのを覚えている。

 しかし新型コロナウイルスが広まり、全校や学年単位で歌う機会がなくなってしまった。

 私たちの学年が後輩の前で歌ったことは一度もない。

 同級生たちは歌詞を忘れつつある。








 コロナが収束しなければ、後輩たちは校歌を歌わないまま、歌詞も知らずに卒業してしまうのではないだろうか。

 卒業式で歌えないとなると、先生たちや親に感謝の気持ちをどのように伝えたらいいのだろう。

 いつか歌えるようになったら、一度でいいから同級生と集まって校歌を歌いたい。

 その時まで校歌を忘れない。

 以上です。







 そういえば、今度大学生になる孫も高校の卒業式で校歌を歌わなかったようです。

 私も高校の卒業式は、大学の入試があるので出なかったと思います。

 校歌ですか。

 小学校の校歌は、6年もあったので一番は歌えますね。

 中学・高校の校歌は、まるで覚えていません。

 甲子園をテレビで見ていると、勝者の選手が堂々と誇りを持って校歌を歌っていますね。

 選手もコロナ禍で校歌を歌う機会が少ないと思いますが、甲子園に来る前に校歌の練習をしてくるのかな?😁





小さな日記
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コロナで亡くなると、病院で家族も面会出来ないんだ。

2022-03-30 02:47:54 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「母の願い」というタイトルで87歳の女性が投稿されていました。

 私は昨年五月から、飛騨小坂の老人施設に入所しています。

 朝食後のコーヒーを飲もうとした時です。

 「娘さんが面会にみえたよ」と、世話係の人に言われて玄関へ行きました。

 だいぶ離れた所から「だめ?」と小さな声で聞くと、次女はこっくりとうなずきました。

 愛知県に住む長女がコロナに感染し、入院していたのです。

 次女は「亡くなるとすぐに白い袋に入れて火葬になるらしい」と言いました。

 すぐに行って、顔を見て、手を握って「良い所へ行くんだよ」と言ってあげたい・・・・。

 代われるものなら代わってあげたい・・・。

 「秀美ちゃん、ごめんね」と心で言いました。

 私は、一緒に食事をしていた友達には何も言わず、自分の部屋へ行きました。

 頭がぼんやりとして、涙は一滴も出ません。

 午後になって、雛飾りのお菓子をもらう「がんど打ち」に誘われ、部屋を出ました。

 いちご大福や雛あられを食べて、少し落ち着きました。

 そして、娘が亡くなったことを話しました。

 看護師さんや友達が元気づけてくれました。

 皆さんに助けられて、私はこれからしっかりと生きていきます。

 改めてにっくきもの!コロナです。

 こんな悲しい思いをするお母さんが、一日も早く無くなることを願っています。

 以上です。

 
>次女は「亡くなるとすぐに白い袋に入れて火葬になるらしい」と言いました。

 コロナで亡くなると、病院で家族も面会出来ないんだ。

>すぐに行って、顔を見て、手を握って「良い所へ行くんだよ」と言ってあげたい・・・・。
 代われるものなら代わってあげたい・・・。
 「秀美ちゃん、ごめんね」と心で言いました。

 お母様の心情がやるせないですね。
 コロナでなかったら、声をかけられるのに・・・。

>改めてにっくきもの!コロナです。
 こんな悲しい思いをするお母さんが、一日も早く無くなることを願っています。

 早くコロナ禍が収まって、投稿者さんのように悲しい思いをするお母さんがいなくなる事を願います。




『冬物語』歌 フォー・クローバース
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この文章に書かれているように、近くに大型スーパーが出来て商売が成りたたくなり店をたたみました。

2022-03-29 00:48:24 | 日記
 中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「町の商店街」というタイトルで、飛島圭介さんがエッセイを書かれていました。


 おじさんの幼なじみで商店主になった友だちは多い。

 布団屋、八百屋、魚屋、酒屋、本屋、洋服店、文房具店、米屋、すし屋、居酒屋、食堂などなど。

 これらがマッチ箱を立ち並べたように、小さな商店街を形作っていた。

 幼なじみのほとんどは今は仕事をやめて引退してしまっているが、彼らが現役の時代、町の小さな商店街は人々が生活していくための大切な存在だった。

 商店主たちもその店のささやかな商いで、日々の暮らしを立てていた。

 お客も、お店も、大金とは無縁ながら、まあまあ自足の生活を了としていたのだった。

 しかし、そこに大資本の大型チェーン店が入り込み、便利さと安さ、品物の豊富さなどで商店街の小店を圧倒した。

 たちまち商店街はシャッター街と化してしまった。

 これは日本の生活史の一断面だろう。

 「昭和」は商店街の時代だったといえるかもしれない。

 歴史の流れには坑しがたいが、ワシらは、商店街の衰弱で何か取り返しがつかないことを失ったような気がする。

 雑多な小店が、それぞれの暮らしを成り立たせ自足している時代は、つつましくも清廉な良い世の中ではなかったか。

 以上です。


 うちは洋服店をやっていました。

 この文章に書かれているように、近くに大型スーパーが出来て商売が成りたたくなり店をたたみました。

>雑多な小店が、それぞれの暮らしを成り立たせ自足している時代は、つつましくも清廉な良い世の中ではなかったか。

 雑多な小店が集まった商店街は、何か昭和の活気と温かさを感じましたね。

 私の子供時代は、そのようなものを感じながら過ごしていたような気もします。




恋 心  菅原洋一&ペギー葉山 UPC‐0311
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投稿者さんのように図書館の本を全て読破してませんので、血と肉になったとは思えませんが、高校時代が一番読書をしたように思います。 

2022-03-28 01:24:36 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「若い頃の読書 血や肉に」というタイトルで、63歳の男性が投稿されていました。


 中学生だったとき、図書室の本を全て読むことに挑戦した。

 憧れていた先輩が本好きだったこともあり、先輩が借りたものを読破したいとの単純な動機だった。

 三年かけて読破した。

 その十数年後、私は国語教師として母校に赴任した。

 図書室の授業で生徒に「私の名前が残っている本の貸し出しカードを探して」と言うと、皆宝探しのように取り組んでくれた。

 そんな古いカードが残っていたのはあまり人気がない、古びた文学全集に多かった。

 満面の笑みを浮かべ「見つけました」という報告のたび、「せっかくだから読んだら」と勧めてみた。

 読書から学んだことは私の血や肉となり、今に至っている気がする。

 若者には今のうちからたくさんの本に触れてほしいと切に願う。

 以上です。


 
>そんな古いカードが残っていたのはあまり人気がない、古びた文学全集に多かった。

誰も読まない本のカードに好きな女性の絵を描いた。「ラブレター」という映画を思い出しました。

 たしか中山美穂さん演じる主人公を好きな男子生徒が、誰も読まない本のカードに主人公の女学生の絵を描かれて、その後後輩の生徒さんがそのカードを見つけ、成人した主人公中山美穂さんに渡すシーンがありました。
その映画のワンシーンを思い出しました。

 私は今ではほとんど読書をしませんが、小学校5年の時、小学4年の後半に患った心臓弁膜症の影響で体育が出来なかったので、よく図書館へ行き時間を潰しました。
 けっこう図書館の本を読みました。

 高校生の時は、隣に住む私より年上の従姉弟の世界文学全集を借りて夏休み中よく読みました。
 まぁトルストイの「カラマーゾフの兄弟」とか長編の「戦争と平和」は、途中で面白くなく読まなかったですが、ヘミングウェイの「老人と海」とか「武器よさらば」は面白く最後まで読みました。

 投稿者さんのように図書館の本を全て読破してませんので、血と肉になったとは思えませんが、高校時代が一番読書をしたように思います。 




曲の中に恋人だった十朱幸代さんによく似た女性が出ているのでビックリしました。 小坂一也/君を送った 帰り道
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この文章を拝読して、昔 長男孫、次男孫の保育園への送り迎えをしていた事を思い出しました。

2022-03-27 01:21:25 | 日記
 中日新聞の読者投稿欄に「登園付き添い 成長実感」というタイトルで、70歳の方が投稿されていました。

 二年前の春から一年間、近くに住む妹の孫である大おいの幼稚園登園に付き添いました。

 片道二十分ほどの道程です。

 その間、大おいは段がある場所や白線の上をあえて歩いたり、石を蹴飛ばしたり、道端の花や草木を摘んだり・・・・。

 それこそ道草をしながら、ゆっくり歩きました。

 それでいて、ようやくたどり着いた園内の敷地に入るや、いきなり「ダッシュ」と言って走り出し、私も懸命に追い掛けました。

 日に日に追いつくのが難しくなっていき、成長の早さを思い知らされたものです。

 大おいは昨春、園隣の小学校に進みました。
 
 ランドセルを背負って集団登校するさまは、今の私は見守り隊の一員として目にしています。

 以上です。

 この文章を拝読して、昔 長男孫、次男孫の保育園への送り迎えをしていた事を思い出しました。

>大おいは段がある場所や白線の上をあえて歩いたり、石を蹴飛ばしたり

 うちの孫たちも同じでした。

 道草しながらゆっくり歩いてましたね。

 それが今では大学生と高校生。

 月日の経つのが早いです。





「何故に二人はここに」 Kとブルンネン
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