イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

水軒沖釣行と燻製作り

2021年06月09日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 4:59満潮 
釣果:ハマチ 1匹

今日は前回の休日に仕込んだ燻製の仕上げをしたいと考えているので近場で早朝だけの釣りに出た。
まずは紀ノ川河口でスズキを探ってみて、多分時間が余るはずなのでどこかに移動しようと考えている。家には午前8時頃に帰ればお昼までに燻製を完成させることができる。

夜明け前にはポイントに到着せねばと午前4時過ぎに出港。ここ数日はいきなり暑くなったが、この時間帯は心地いい。
いつものポイントではなく、以前に見つけておいた、紀ノ川左岸のテトラ帯のくぼみ周辺を狙ってみたいと思っている。



ここが釣れるポイントかどうかはわからないが便宜上、”ポイント”という言葉を使いながら書いていくことにする。
このポイントもいつものポイント同様、けっこう浅かった。おそらく水深は3、4メートルというところだろう。テトラのくぼみに周辺をリップレスミノーで探ってみるがまったく何の反応もない。ライズでもあれば頑張ってみようと思うのだが辺りがすっかり明るくなってしまってからではまったくその気もおきない。予想通りまったく時間が余ってしまった。

さて、次はどこに行こうか。少し足を延ばせば住金の一文字に行ける。この前、同じ港に船を係留している人に聞くと、その人たちはいつも住金の一文字周辺でいろいろな魚を釣っているそうだ。青物も釣れるという。
それにも興味があったが、そこまで行って何も釣れなければ燃料を消費するだけだ。それがもったいないと思い、結局、また、沖の一文字で100均メタルジグを投げて帰ろうと決めた。

渡船客がいつもいる場所が本命なのだろうが、今日は渡船の営業日なので先客がいる。渡船の船頭は友人なので、客から、変な奴が沖に居て釣りにならなかったとチクられるのも嫌なので少し離れたところに錨を下した。



何回かメタルジグを投げているとジグの回収時にわずかだが海水が妙な動きをしたような気がした。ひょっとしたら魚がメタルジグ追いかけてきたのかもしれないと思い、それなら表層で勝負だとリップレスミノーに交換。これで午前5時半までやってダメならおとなしく帰ろうと思ったまさに午前5時半の3分前。本当にアタリがあった。魚の引き方から想像すると青物だ。これを逃すともう後がないので慎重にやり取りをする。タモに入ったのはハマチだった。
渡船屋の客の釣果ではよくアップされていたが、本当に釣れるのだと釣った本人が驚いてしまった。
この魚はきっと、前回の釣行で拾ったタックルに気持ちが移ってしまうのではないかと恐れを抱いた現行のタックルが、ここで釣らさねば絶対に物置の隅っこに置き去りにされると渾身の一撃で僕にアタリをもたらしたのに違いないと思うのだ。僕のテクニックで釣れた魚ではないのは間違いがないのである。

ひょっとしてまだ釣れるかもしれないと少しだけ延長戦を試みたがそんなに甘くはなく、すぐにやめてしまった。


家に帰って魚をさばいて燻製作りの準備だ。
実は、サバを釣る季節までにもっと大きな燻製箱を作ろうとコンパネを切るところまでは準備していたのだが、面倒くさいなと思いつつ、それ以降作業を一向に進めることなく今日も一斗缶システムを使うことになってしまった。

 

いつものとおり豆炭に火を入れて乾燥作業から始めるが、この豆炭、どうも使い勝手悪い。火付きはいいのだが、その分火持ちが悪く、おまけに灰になると完全な粉になる。それが七輪のロストル(あの簀の子の名前はこういうらしい)の下に落ちて空気の道筋を塞いでしまう。今まではそれでも火力を保ち続けたが今日は箱の中に残っていた崩れた豆炭も一緒に放り込んだことが悪かったか、火力が上がらないのでチップから煙が上がらない。仕方がないので一度七輪の中を掃除して豆炭を入れ直し仕切り直し。
そんなことを2回もやっていたので仕上がりがお昼を過ぎてしまった。4時間以上もかかってしまったことになる。今度豆炭を買うときはコー〇ンのPBは買わないでおこう・・。と思うのだが、和歌山市内もコー〇ンの勢力が強くて僕の行動範囲にはコー〇ンしかないので選択肢が少ない。こういうところでは自由競争がもっと働いでほしいものだ。

今年はチョクリのシーズンインにサバを手に入れることができなかったので燻製はお預けかと思ったが、なんとか作ることがきた。試食をしてみると、相変わらずの旨さではあったのだ。



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「チーズと塩と豆と」読了

2021年06月06日 | 2021読書
角田光代、江國香織、井上荒野、森絵都 「チーズと塩と豆と」読了

四人の直木賞作家のアンソロジーだ。それも書き下ろしらしい。
井上荒野がそのひとりに含まれていたので手に取ってみたのだが、そのほかの3名の作家も興味を引く。
すべての作品は、食べ物と愛をテーマにして書かれている。
角田光代はバスク地方(スペイン)、井上荒野はピエモンテ州(イタリア)、森絵都はブルターニュ地方(フランス)、江國香織はアレンテージョ地方(ポルトガル)を舞台にし、主人公や登場人物もすべて現地の外国人であるということも共通している。
角田光代と森絵都の作品はプロットはよく似ていて、故郷や家族を嫌って地元を飛び出したものの、結局は故郷の味と生活に無意識的に引き戻されていくというようなものだ。

味覚は後天的なものであるというのは「あなたはなぜ「カリカリベーコンのにおい」に魅かれるのか」にも書かれていたことであるが、良くも悪くも小さいころの味を死ぬまで引きずって生きていくのだろうなと思うのである。
しかし、その土地に根付いた味覚を持っているということはある意味それは幸せなことだはないのかとも思う。
それがなければ人は根無し草になってしまう。心の強い人間であればそれでも十分生きてゆけるのであろうが、僕には不安で仕方がない。僕にとってそういうものは母が作ってきた料理しかない。しかしそれは、今考えればただの手抜き料理でしかなかった。なぜか母も祖母が作ってきた味というのもを持っていなかったように思う。それはそうだろう、スーパーで買ってきた安い食材を使って内職の合間に作っていたのだから・・。戦中戦後を生き抜き、高度経済成長前の苦しい時代を貧しさのなかで生きてきたのだから伝統の前に働かなければとということがあったのだと思う。

かつて生計を立てることと生活が一体化していた時代、ひとの労働時間は1日3、4時間ほどであったらしい。時間に余裕があったということだ。だからその土地共通の生活と伝統が受け継がれる余裕があった。それが、産業革命以降、労働と生活が切り離され、一見豊かになったように見えるけれどもそれは土地に根付いた生活を失うことであった。それが今も続いていてこういう小説のプロットになっていくということか。
だから僕のような読者には共感を覚えることになるのだろう。ベーコンをきかっけにこの本にたどり着けたというのは幸運であった。



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水軒沖釣行

2021年06月05日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:長潮 2:57満潮 9:31干潮
釣果:マアジ、マルアジ、サバ 匹数未確認

緊急事態宣言が緩和になり完全休業が土日の休業になった。営業をはじめても客足は少なく、昨日は強い雨のために景色は完全なホワイトアウト。写真を撮ったときは誰一人として客はいない。



そして緊急事態宣言が解除されるまでは僕の休日も一般会社員のように土日ということになってしまった。

しかし、帰宅する頃には雨雲はどこかに行ってしまい見事な夕焼けになっていた。明日もいい天気のようだ。



さて、どこに釣りに行こうかと、その誰もいない仕事場をウロウロしながら考える。加太に行っても魚を釣る自信がなく、キスもこの大雨では難しそうだ。そんなことを考えていると、カリカリベーコンを思い出し、ダメ元でサバの燻製のネタを釣りに行ってみようかと思い立った。サバがダメでも少しくらいならアジが釣れるだろう。ついでに沖ノ島でタイラバを試してみようと合計3本の竿を持ち出した。

夜明けはどんどん早くなり、午前4時半でこの明るさだ。



もう少し早く出たかったのだが、今日も道糸をインターラインの元ガイドに通すのを忘れてしまい、デッキの上で悪戦苦闘しているうちすっかり明るくなってしまった。

濁りが多いであろう紀ノ川方面を避け、初島に向けて船を走らせるため、一文字の切れ目を越えてしばらく行くと何やら変わったゴミが浮いていた。黒い円筒形の筒が垂直に浮かんでおり、自然界にある木の枝などとはまったく異なるものであった。とっさに判断したのは、あれは釣竿ではないのだろうか・・?
すぐに船を方向転換させサルべージを試みる。確かにそれは釣竿であった。



見てみるとショアジギング用のタックルが一式であった。メタルジグのフックが元ガイドに引っ掛けられたままになっているところを見るとこのタックルの持ち主はテトラの上に乗った直後に手を滑らせてそのまま海に落としてしまったようだ。ヌルヌルしたものが付着していないので海面を漂い始めてそれほど時間は経っていないようだ。
家に帰って値段を調べてみるとロッドもリールも1万円もしない安物だったが僕が使っているリールよりもいいものだ。幸田露伴の「幻談」に出てくる竿はかなりの名品だったが、これくらいの値段のものでは持ち主の怨念をやどしていることもあるまい。大切に使わせていただこう。
夕食後、リールを分解してグリスを洗い流し塩出しをしてみた。錆も浮いていないのできちんと回ってくれるだろう。




魚探の反応は水深40メートル付近で現れた。すぐに船を停め仕掛けを下す。2本の竿をセットするとすぐに両方の竿にアタリが出た。それからは連続してアタリが続き、船の前と後ろを行ったり来たりして椅子に座ることができない。
20匹近く釣り上げたがアジばかりでは面白くない。今日はダメ元でサバを釣りにきたのだ。菊新丸さんも姿は見えないが同じようなところに浮かんでいるがほとんどがアジのようだ。
元々沖ノ島にも行こうと考えていたのでもう少し沖を目指すことにした。そしてこれが正解であった。
沖ノ島のほぼ真北あたりに船団があり、そこで仕掛けを下すと仕掛けが入りきらない間にアタリがあった。



ものすごく走る。これは間違いなくサバだ。それほどの大きさではないが、その後はアタリラッシュだ。手持ちの竿の仕掛けを下しなおして置き竿の仕掛けを下すと再び仕掛けが下りないうちにまたアタリがあった。魚を回収し仕掛けを下すとまた下りきらないうちにアタリ。そうこうしている間に手持ちの竿にもアタリがあるが置き竿の場所から離れられない。
なんとか仕掛けを下して後ろに向かうとまた前でアタッている。これでは忙しすぎると置き竿の仕掛けを片付けてしまおうと思うのだがアタリが続くので仕掛け巻きに巻き込むことができない。少しアタリが遠のいた隙に置き竿の仕掛けを片付けてしまい、手持ちの竿を前に持ってきた。これだけサバがアタると走り回って舵に仕掛けが巻き付く恐れがあるのでれきるだけ舵から離れて釣りをするのだ。魚探を見ることができないがそんなことは関係がない。すぐに釣れる。
小さな魚は船べりで放流しながらでも生け簀の中は酸欠状態だ。
これ以上釣ってしまうとクーラーボックスに入りきらなくなるので午前7時にならずに終了。

当初は初島を目指すつもりだったが予定を変更。これだけ釣れれば燻製はもちろん、一度作ってみたかったサバの水煮も作れる。アジの干物も作りたいとなると仕込みにも時間がかかるのでこのまま帰投。そう思いながら叔父さんの家によって相変わらず円卓会議に参加すると帰宅は午前9時を回り、お昼前まで仕込みを続けてサバの水煮を作り切り身をソミュール液に漬け込んだ。

 

水煮は思いのほか美味しい仕上がりになった。そのまま食べても美味しいし、夕食に作ってくれたサバカレーも美味しかった。本物のサバ缶というものを食べたことがないのでこれが本来のサバの水煮なのかどうかはわからないが、ひとつの料理としてはなかなかのものだ。



しかし、ひと缶が88円だと今日作った水には多分5、6缶分くらいだろうから500円ちょっと分・・。労力のわりには大して値打ちがないものだと少し悲しくなるのである・・。


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『あなたはなぜ「カリカリベーコンのにおい」に魅かれるのか  においと味覚の科学で解決する日常の食事から摂食障害まで』読了

2021年06月04日 | 2021読書
レイチェル・ハーツ/著 川添節子/訳 『あなたはなぜ「カリカリベーコンのにおい」に魅かれるのか においと味覚の科学で解決する日常の食事から摂食障害まで』読了

またまたベーコンネタの本だ。これもタイトルが面白そうだと思って読み始めた。それと、においについては僕も疑問に思っていたことがあった。
それは、においについての記憶だ。何かの記憶や夢に見る光景の中に、においというものがないと思わないだろうか。光景はもちろん、人の声、歌などの音は記憶の中に思い浮かべることができる。しかし、そこにはにおいがないように思うのだ。ある料理を思い浮かべてもそのにおいは再現できないように思うのだ。
この本のタイトルになっているベーコンについても、もちろん現物を前にすると、ああ、このにおいだと識別なり食欲なりが湧いてくるのだが、今、キーボードを叩きながらベーコンのにおいを頭の中で再現するこができないのである。

なぜ、そう思うようになったのかというと、あの、悪臭を放つ元同僚のことなのだ。幸か不幸か、今年の春から席を同じくすることがなくなり、あの臭いを嗅ぐこともなくなったのだけれども、そうなると、あの臭いはいったいどんなものであったかということを思い出せなくなった。もっとも、思い出したくもない臭いであるのには間違いがないのだが。
そんな臭いのメカニズムとはいったいどんなものであるのか、そういったことが書かれてあるのではないかと期待をしていたのも事実である。
しかし、その内容は、味とにおいの心理学というような内容であった。
それはどんなひとでも何となくわかっていることであると思うが、味やにおいというのは同じものであってもその時の気分や心の状態で違うものだ。

前半部分は味覚と嗅覚についての科学的な説明になっている。
イギリス国民が好きな匂いの2位はベーコンの匂いだそうだ。そしてそのベーコンの味は匂いに基づいているらしい。舌が感じることができる味覚は、甘味、塩味、酸味、苦み、そして旨味の5種類しかない。そこに鼻が感じるにおいが加わってはじめて複雑な味覚が生まれる。
昔よく放送されていた、目隠しをされた芸人が鼻をつまんで料理名を当てるというのはそういった人間の機能を利用しているのである。
では、なぜ人は五つの味しか識別できないか。それは生きるというもっとも基本的な欲求を満たすために必要な最低限の味がこの五つであるというのである。

甘味は、デンプンの分解物である糖類、とくにブドウ糖を識別するための味覚である。脳のエネルギー源はブドウ糖のみであるが、そのためにも甘味が必要であり、甘さという味覚は脳の飛躍的な発達につながった。
塩味はおそらく生物(陸上の?)が最も最初に獲得した味覚だろう。神経回路の維持にはナトリウムイオンが欠かせない。そして、塩分の欠乏は深刻だ。だから子供の頃、塩味の強いものは体に悪いといつも叱られていると、その後の塩味の嗜好に影響する。
酸味は腐ったものを識別するため。確かにそうだが、一方で酸味は美味しい。それは、かつて主要なカロリー源であった果物がどのくらい熟しているかを識別するためであったそうだ。そういえば、お酒も主要なカロリー源になる・・。
苦みは毒を識別する。苦みが嫌いな人、苦みに敏感なひとをスーパーテイスターという。 これは遺伝子(TAS2R38)によるらしい。そんな人は、苦みを打ち消そうと塩の量が増えてくるらしく、発がん率が高くなる傾向があるので注意しなければならない。逆に、苦みが気にならない人(ノンテイスター)はアルコール依存症になりやすい。
また、口の中の苦みは危険を知らせる。その苦みは腫瘍壊死因子(TNF)が原因である。それは免疫機能のひとつであり、「がん細胞を破壊する」「傷を治癒する」「体内に入ったウイルス・バクテリアを排除する」という役割がある。これが増えると食欲の減退につながるが、食欲が減退すると消化に使われるはずのエネルギーを病原体との戦いに回せるという理由だそうだ。なんとも人間は高性能にできている。
旨味は、人類が最後に発見した味覚であるが、これはタンパク質を感知するための味覚。
しかし、旨味の元であるグルタミン酸はタンパク質を構成するアミノ酸だが、唾液ではタンパク質を分解することはできない。ではなぜ人は旨みが好きなのだろうか。それは、消化管にも様々な味の受容体があるそうだが、旨味の受容体もそこにはある。タンパク質が分解され、消化管の受容体がそれを感知すると、体はタンパク質を食べたことを知って気持ちがよくなる。その記憶が旨みを美味しいと感じさせるのである。
味わえない場所の味が美味しさの引き金になるというのも不思議なものだ。
味ではなくてこれは刺激であるが、トウガラシの辛味についても書かれている。トウガラシを食べると、死亡リスクが13%低下するという統計結果が紹介されている。これはいい話だ。
カプサイシンは、酸化、炎症、菌を防ぐ効果があるそうだ。今年も一所懸命トウガラシを食べよう。

後半は味とにおいの心理学というところである。
味覚はそういうことで先天的というか、本能的というか、生きるための最低限必要とするものに対して嗅覚は後天的なものである。それは経験によるところが大きい。嗅覚と舌の味覚が合わさって”におい”が成立するのであるから、味の好みはひとそれぞれとなるのである。
美味しさは味覚だけでなく、食材を盛る器、量、雰囲気でさまざまに変化する。そこが心理学的な部分である。
また、アメリカで出版された本だけに、食欲(食べる分量)についても多くのことが書かれている。ここにも心理学がある。
その時の感情、誰と食べるか、何をしながら食べるか、食材の盛り方、こうしてしまうとよりたくさんの量を食べてしまうのだというようなことが様々な事例を上げて説明されている。
結構簡単にダイエットをすることができてしまった僕からすると、これも心理学なのかもしれないが、単に気の持ちようで食べる量のコントロールは簡単にできてしまうのではないかと思う。

こうやって書き進めてきたけれども、やっぱりあの悪臭を思い出すことができない。2回同じことを書いてしまうが、思い出したくもない臭いなのだからそれでいいのであるが、これも動物としての本能がそうさせるのであれば、きっとそんな臭いを記憶の中で再現できるとしたら自家中毒で気が狂ってしまうかへたをすると死に至るようなことになってしまうからなのではないのだろうかと思い至った。少なくとも、食欲は確実に減退することは間違いがない。

今年はサバを釣ることができなかったのでサバの燻製はお預けだ。また、涼しくなってからのベーコン作りを楽しみにしておこう。

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加太沖釣行

2021年06月01日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 4:45干潮 9:38満潮
潮流:5:30 下り1.4ノット最強 9:27転流
釣果:マアジ2匹 サバ1匹


休日連続での釣行だが、今日も天気がよい。
釣りに行こうとは決めたが、さて、どこに行こうかと迷ってしまう。
安全パイのチョクリか初島で夏の海の釣りを試してみるか、キスも気になるし・・。
あれこれ考えていても何も妙案が浮かばず、前回の加太では短時間でけっこういいサイズの鬼アジが釣れたので今回も柳の下のドジョウを狙いに行こうと決めた。
まあ、しかし、これは結局、あまりよい選択ではなかったようだ。

アジ釣りは早朝に限ると考え、朝は気合を入れて午前2時半起床。出港したのは午前4時であった。
空には雲がなく、海面も鏡のようなので海面に半月がくっきり映っている。



潮はすでに下りの時刻に入っているが、前回も友ヶ島の南側で釣れたのでそれに倣って一番近い四国沖ポイントから順番に攻めてみようと考えている。
四国沖ポイントには数隻の船が出ている。



相変わらずかなり接近しながら浮かんでいるのできっとその辺りがポイントだろうと考え僕も早速仕掛けを下す。今日は完全に鬼アジ狙いなので最初からサビキ仕掛けを使う。
アタリはいきなりあった。かなり小さい魚だのようだがそれでもすぐにアタリがあったということはうれしい。上がってきたのは小さなマアジだった。
しかし、アタリは続かない。今日は長くやっても転流時刻までなので長居はできない。次のポイントを探して移動。大和堆ポイントに行こうと考えていたがその手前の第2大和堆ポイントに数隻の船が出ていたのでここで仕掛けを下す。



ここでもアタリはすぐにあった。今度はサバだ。しかし、ここでもその後はアタリがなくなった。これでは運がいいのか悪いのかわからなくなってくる。同じくここでも長居はできない。
前回釣果があったポイントに移動するがアタリはなく、最後に行こうと決めていたコイヅキに早々と移動。



潮流の時刻表からすると最強の時刻を少し過ぎたくらいだが、あまり潮の速さは感じられない。
これだとなんとか釣りになるだろう。そして、海面にはたくさんのナブラが見える。小サバの群れだ。

 

魚探ではその下にも魚の反応がある。これは期待が持てそうなのだがアタリはいっこうにない。



しかし、もうほかに行くところがない。コイヅキの鼻を支点にしていろいろな方向に船を移動させてみるがアタリはない。しかし、魚探の反応は相変わらずよく出てくる。
この反応も小サバのような小さな魚なのだろうか。
それでも1回だけアタリがあった。慎重に魚を取り込むと鬼アジと言えそうな立派なマアジだ。
しかし、僕の命運もここまで。一向にアタリがないのに業を煮やしてもう一度第2テッパンポイントに移動するも魚探の反応もなく、午前8時30分に終了。

朝は少し肌寒い気温であったが、この時刻になると夏のような暑さになっていた。加太での釣りもここでひと区切り入れなければならないのかもしれない。

今日の獲物はアヒージョにしてみた。魚が少ないのでしめじと玉ねぎで嵩を増やす。



はじめてつくるメニューだが、これはこれで美味しい。魚の身も硬くはなっていない。2リットル980円(税抜き)という格安オリーブ油を使っているのでオリーブの風味はいまひとつなのかもしれないが、そこは我慢ということで・・。

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