ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

深まる秋に思うこと

2016年11月06日 | ひとりごと
今朝2時、まだ真っ暗な中、サマータイムが終わった。
時計を1時間繰り上げるので、日本との時差が従来の14時間になった。
これでまた、日本に暮らす家族との連絡が、ちょっとだけ不便になる。

紅葉がぐんぐん広がり、どこもかしこも落ち葉だらけ。
葉っぱの雨を受けながら、車を走らせていると、必ず「ありがとう」の言葉が口をついて出てくる。
春の瑞々しい若葉が、陽の光に輝く成熟した緑の葉となり、そして様々な秋色に染まって落ちていく。











約7ヶ月の間、いろんな喜びや楽しみ、そして慰めを与えてくれて、ありがとう。


今週の中頃から末は、ひさしぶり息子ふたりと、別々に会うことができた。
長男くんは、先週の木曜日から来週の月曜日まで帰省して、マンハッタン時代の友人に会ったり、クライミングを楽しんだりしている。
次男くんは、昨日の映画を一緒に観て、その後ニュージャージーまで戻り、『いろいろあったけど元気出しな!夕食会』を一緒に食べた。
どちらもアラサーのおっさん(彼ら曰く)なのだけど、家に戻ったらチビ時代そのままに、わたしはせっせと世話焼きをしたくなる。


さて、明日からの1週間は、教えている生徒たちの発表会に向けての最後の週だ。
生徒たちは、夏休みを挟んでの、9月からの新生活の混乱の中、一所懸命頑張っている。
そんな彼らのためにも、わたしもできるだけのことをしてあげたいし、自分自身の練習もしなければならない。
そして発表会が終わったら、ようやく毎年恒例の、と言えるようになった、2週間の休暇を取って日本に行く。

長い間、この2週間の休暇を告げる時、なんだか申し訳ないという気持ちになるのを止められなかった。
様々な国から移り住んでいる人たちで成り立っているこの国の社会では、帰りたい時に、帰る必要がある時に帰るのは、その人の権利であり、当たり前の行動なので、
わたしが遠慮がちに、申し訳なさそうに、ちょっと2週間ほど、日本に旅行に行くと言うと、
生徒の親御さんたちは決まって、パッと笑顔になって、「それはよかった、楽しんできてね」と、誰もが喜んでくれるのに…。

ピアノの教師が休暇を取る。
というのは、わたしが習っていた時代(それはもう、半世紀も前のことなのだけど)には、あまり無かったような気がする。
生徒の方も、レッスンを欠席するなんてことは、よほどのことが無い限り考えられなかったし、許されないと思っていたような気がする。
時代が変わり、国が変わり、文化や、わたし自身の暮らしの経済、そしてわたし自身も変わってきたはずなのに。

まあ今年もまた、1年頑張ってきた自分への褒美、みたいなタイトルをつけて、わたしは飛行機に乗り込むんだろうな。
いつか、そんな褒美でも何でもなく、ひょいっと行きたい時に行ける自分になれる日が、来ることを願いつつ…、

ブログ記事の更新がかなり少なくなるか、もしかしたら12月のはじめまで、ずっとできなくなるかもしれないことを、先にお詫びしておきたいと思います。
今もまた、原発問題、汚染問題、被ばく問題、TPP問題、緊急事態条項問題、豊洲問題、オリンピック問題、米軍基地問題…と、次から次へと起こってくる問題について、書きたいことがいっぱいあるのですが、
いかんせん、体はひとつ、心もひとつしかありません。
だからまず、わたしがわたしであること、心身共に健康を保つことを最優先にするには、あきらめなければならないことが出てきます。

でも、もしよかったら、カテゴリー毎にいろいろと書いてきたものがあるので、読んでいただけたらとても嬉しいです。
なんて言いながら、またせっせと書き込んでいるのを見つけたら、「こら、まず今せにゃならんことをやれ!」と叱ってください。
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ユンカーマン監督「沖縄を『戦利品』としての運命から解放する責任を負うのは、日米両国市民である私たち」

2016年11月06日 | 日本とわたし
ユンカーマン監督の映画『うりずんの雨』(英語タイトル『THE AFTERBURN』)を観ました。

あっこちゃんが書いて持って来てくれた、『ようこそ ジャン・ユンカーマン!」の筆書き。愛が勢いよく伝わってくる、とっても良い書です。


当日受付を手伝っていたら、ユンカーマン氏が、来場者に混じってひょっこり現れました。
うっかりパンフレットとプログラムを渡しそうになったぐらいに、彼は来場者の人々に溶け合っていました。
なんと柔らかな、心を包み込むような眼差しを持つ人なのだろうと、一時彼から目が離せませんでした。



上映の前に、会場になった教会の牧師である高橋さんの、ソプラノサックスによる祈りの演奏、


主催者のひとりである空くんの挨拶と祈り、


そして、中垣上人の読経が行われ、


最後に、ユンカーマン監督が挨拶に立ち、前日に行われたマサチューセッツ州のハーバード大学での試写会や、映画の内容について、軽く語ってくれました。


******* ******* ******* *******

「私たちは沖縄のことを、どれくらい知っているのだろう?」

これは、パンフレットの表紙をめくると、いちばんに目に入ってくる言葉です。

「わたしは『沖縄』のことを、どれくらい知っているのだろう?」

原発事故から後、何度も何度も、対象になる『名前』を入れ替えては、自分に問うてきた言葉です。

わたしは『原発』のことを、
わたしは『避難者』のことを、
わたしは『水俣』のことを、
わたしは『被ばく』のことを、
わたしは『米軍基地』のことを、
わたしは『沖縄』のことを、

そして、そういう物事をこの世に発生させてきた、政治家や官僚や軍、もっと言えば国の実態を、
いったいどれくらい知っているのでしょう?

ここ数年、自分なりに、沖縄のことについて学んできたつもりでいましたが、『うりずんの雨』を観て、まだまだ足りないことを痛感しました。
そして、アフターバーン(=炎が消えた後も、火傷が深くなっていく日々)が、沖縄戦の地獄を体験した人たちはもちろんのこと、
元米兵や元日本兵の肉体と精神を、今も傷つけ続けていることを、実感として知ることができました。

沖縄戦は、今も続いている。

監督はまた、1995年に起こった、3人の米兵による小学生女児への暴行事件の犯人の一人に、インタビューをしました。
「このインタビューを承諾してもらうのは、とても難しかった」けれども、
「当時、早稲田大学で教えていたことを活用し、早稲田大学の名称が印刷された封筒を使ったのが、相手の信用を得た理由だと思う」と言って、会場を和ませていました。
このハープ元米兵の、暴行に至るまでの経緯や、その時の彼の心情、そして、被害者の女の子に許しを乞い、心からの反省を語る姿は、わたしの心にたくさんの宿題を残しました。

米軍基地を囲う金網に、ガムテープやリボンで、基地反対の意思を示す住民の人たち。
そのテープやリボンを、ひとつ残らず剥がし取ることで、町の美化が保たれると、誇らしげに言う住民の人たち。
「私たちは、任務を果たし、国のために戦うためにここに居る」と、美化運動に加わる米兵の人たち。

政治的な物言いを極力避けながら、経験者、関係者、そして一般の声無き人々や、残された貴重な映像などによって、どちらかに偏ることなく語られていく沖縄。
ともすれば、非常な差別を受け続けてきた姿に、心が沈み、希望を失いそうになります。

住民の4人に一人が亡くなったという事実。
1945年の4月1日から、12週間にわたって繰り広げられた殺戮の惨たらしさ、当時の市民に対する、徹底的な思想教育の恐ろしさ…。
狭い洞窟の中で数十日も過ごし、死ぬことしか考えていなかった市民たちは、互いに斬首したり刺し違えたりして、命を落としていきました。
日本の兵隊も、死ぬまで戦え、そうすれば勝てると教え込まれ、爆雷を持った生身の若者が、戦車隊に突っ込んでいくというような、異常な行動に出ました。
もちろん、25名全員全滅しました。
火炎放射器は、沖縄戦で使われた主要武器でした。
これに吹かれると、ゴム状のものがベタベタついて、どうしても落ちないので、衣類から何からみな焼けて死んでいく。
それは本当にひどい死に方だから、兵隊の間では、死ぬなら鉄砲の弾か何かで死にたいと話していたそうです。

チビチリガマという洞窟で起こった、83名の集団自決。
今もその洞窟には、その時に使われた包丁や鎌などの刃物が残っています。
石油を自分の体や子どもたちにかけ、毛布にかけして、火が燃え盛り、煙が充満する中で、首を斬り合いしながら死んでいったのだそうです。
何も考えられない。
死ぬ、死ぬ、死ぬだけ。
どうしたら死ねるか、こればかり考えていた。
当時はそういう教えだったと。
沖縄は、捨て石として利用されたのですから、その沖縄に住む人たちもまた、同じ扱いを受けたのだと思います。
更には、戦時中の日本兵のための慰安所から続く、沖縄での兵士による性暴力は、今も女性を苦しめています。

本当に、なぜここまでにひどい差別を、沖縄は受け続けなければならないのでしょうか?

それでも、「我々は負けたことが無い」と言い切る、とてつもなく大きな力に立ち向かう人たちの笑顔や、民謡を歌い踊る姿に、
沖縄に生きる人々の間に、脈々と受け継がれてきた、これほどにも強い精神と希望を、分け与えてもらったような気持ちになりました。

沖縄の年表を、ペリー来航のあたりから現在まで、膨大な資料と取材を重ね、映像にしてくださったユンカーマン監督。
その映画は、静かに、淡々と、けれども確固たる信念を持って、
戦争の愚かさ、悲惨さ、権力者たちが振るう暴力、わたしたちの精神をも狂わせる抑圧と差別について、
わたしたち一人一人が、自分の問題として受け取り、考え、自分なりの意見を持ち、それを行動につなげていくことの大切さ、
抗いようの無いものを相手にしていることを悲観せず、楽観もせず、諦めず、やけにならず、
心を鼓舞してくれる歌や言葉を共に唱い、時には踊り、語り合いながら、これからも闘っていくのだという希望の玉を、
観ているわたしたちの手に、そっと乗せてくれたような気がします。

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購入したパンフレットに、ユンカーマン監督による、沖縄国際大学教授の前泊博盛氏へのインタビューが載っていました。
この内容が本当に素晴らしく、沖縄が抱えている実情のすべてが、とても簡潔に鋭く語られています。
↓以下、部分的に省略しながら、紹介させていただきます。

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沖縄の米軍基地は、沖縄戦による米軍占領後、本土攻撃のための拠点として準備された。
戦後は、朝鮮、ベトナム戦争時の攻撃、戦略基地に変わった。
現在は、アメリカの世界戦略の拠点基地となっている。
サンフランシスコ講和条約発効後、本土と分離された沖縄は、核ミサイルの配備も可能な基地として、戦略的に強化されてきた。
講和条約発効後、本土で高まった反米軍基地運動で、本土各地を追い出された米軍基地の受け皿としても、沖縄は使われてきた。
東アジア全体をにらめる地理的優位性が、『太平洋の要石』という形で、戦略爆撃機の出撃拠点にされた。
日米安保体制の維持のために、在日米軍に、施設・区域を提供しなければいけない日本側の『安保負担義務』を、沖縄に基地を置くことで果たしてきた。

とにかく沖縄に基地を維持しておけば、アメリカも文句を言わない。
そういう政治的バランスを取るためというのも、沖縄に米軍基地が置かれ続けている理由。

沖縄に対する、アメリカの特権的な意識と、それを許している日本の差別意識について

軍事というものが時代とともに変化して、理由を変えながら存続を続けてきた。
沖縄経済はその中で、戦前の主要産業たる農業が、米軍基地に農地を奪われ、いやおうなく基地に依存させられてきた。
しかも、戦後の日本が、1ドル360円の円安固定相場制の時代に、沖縄は、米軍統治下で、1ドル120円のB円(B型軍票)という、超円高の通貨政策がとられ、沖縄の、輸出向けの製造業の多くが、淘汰されていく。
こういう米軍統治時代の通貨政策と産業政策で、沖縄は、どっぷりと、基地経済に浸らざるを得ない。
そんな犯罪的な、経済政策を行われた気がする。

農地を基地に奪われた農民は、もうそこ(米軍基地)しか働く場所がない。
住民が捕虜収容所に入っている間に、基地が建設され、解放されて地元に戻ったら家が無い。
農地も土地もとられている。
沖縄本島の半分以上が、米軍に接収されている。

当時の沖縄の人たちが、戦争で疲弊しながらも、しっかり基地反対してくれたことで、永久的な基地建設は免れた。

沖縄戦は、太平洋戦争の中で、一番犠牲が多いところなのに、ノルマンディーの戦いの方が、はるかに認識されている。
そういうアメリカの意識も、今の沖縄の置かれている現状につながっている。
昔も今も、沖縄は、「記憶に無い」というか、「認識されない島」。
「忘れられた」どころか、「覚えた覚えもない島」なのかもしれない。

嘉手納飛行場は、4千メートル級の滑走路が2本ある、成田空港の倍の面積、機能でいうと1.5倍の、アジアでも最大級の規模の空港。
明日返還されてもすぐに使えるので、その経済効果は、1兆円くらいになる。
滑走路が2つあるので、青森県の米軍三沢基地や、山口県の岩国基地のように、『軍民共用』『軍軍民共用』で使えば良い。
共用している三沢基地や岩国基地は、滑走路が1本しかないのにできているのだから、2本ある嘉手納基地にできないはずがない。
有事には、那覇空港や離島の空港すべてを使うので、戦略上、平時に嘉手納を独占しておく理由が無い。
大きな戦争が起こった時に、というが、いつまでそういう備えをするのか、なぜ、軍事力にいつまでも依存していくのか、
過去の戦争の歴史を振り返り、反省をし、教訓として学ぶことが、主要先進国には必要である。
殺戮のための基地に、どれだけのコストを、今後も払い続けるのか。
『軍産複合体』の危険性が、戦後70年経った今も、アメリカ経済を縛り、戦争を続けなければ存続できない国家にしている。
軍事産業依存、軍依存経済から、どうやって脱却するか。
沖縄の脱基地経済、脱軍事経済を考えることは、アメリカ経済が抱える同じ問題の処方箋にもつながる。
だから、基地を経済基地に変えていく。
あるいは、世界経済、アジア経済の貢献拠点、軍事基地から経済基地に変える。
それが、新しい安全保障の形を、生み出す契機になる。

沖縄経済全体に占める、米軍基地経済の比率は、4兆円のうちの2000億円。
5%程度まで、貢献度は落ちている。
ヨーロッパのように、経済的に運命共同体になること。
アジアにもAU(亜州連合)を作り、経済共同体になることによって、域内の対立や戦争は意味を失う。
軍事基地は、富を生まない。
脅威を生み、破壊を生み、殺戮を生む。

基地がなくなると、沖縄は経済的に困る。
基地がなくなると、沖縄と日本の平和が危なくなる。

この二つの神話、基地経済の呪縛から、どうやって解き放つか。

フェンスの内と外にある「受益者と被害者の分離」の問題がある。
基地から利益を得る人たちと、被害を受ける人たちは別である。
(*利益を得る人たち)
フェンスの内側に土地を持っている軍用地主には、年平均約200万円(沖縄県民の平均的な所得と同額)支払われている。
軍用地主は43228人、年間の借料は832億4千万円。
基地従業員は8800人。

今現在、民間経済がものすごくパワフルになってきていて、基地返還後の後利用で、失敗したところは一件も無い。
ミサイルや核兵器の開発で、沖縄の軍事的地理的優位性は、すでに喪失している。
しかし、沖縄の経済的な地理的優位性には、アジア中の企業がものすごく注目している。
「嘉手納飛行場を軍事だけに使わせるのはもったいない」「もっと金になる仕事やろうよ」となり、
アメリカにとっても、アジア経済の拠点化は、安全保障にもつながる。

軍事での紛争解決では、勝者と敗者が生まれる。
でも、経済安保は、win-winの関係が重視される。
経済は敗者を作らず、勝者と勝者を作る。
そういうwin-winの安全保障の時代に変えてほしい。

戦後70年使って、老朽化した基地を返して、最新鋭の基地に更新する。
それを、普天間返還と絡めて、日本政府に全部負担してもらう。
辺野古新基地には軍港機能があり、整備地区機能があり、兵站(貯蔵・補給)機能、そして飛行場まで備えている。
近くには、核ミサイルも配備されていた、辺野古弾薬庫もある。
これほどフルセットで、使いやすい最新鋭の基地が、アメリカにすればタダで手に入る。

「普天間を返す」というフェイクだけで、日本政府は応じてしまう。
一部は、別基地に新基地を建設して移転する。
その基地建設の大金を、負担させられる日本国民の多くも、
「なぜ沖縄は拒否するんだ」と、移転・新設を応援してくれる。

そんな矛盾に誰も気づかない。
辺野古新基地も含め、沖縄の米軍基地は、本当に必要なのか、役に立っているのか。
なぜ十分に検証しないのか。

沖縄は、米軍基地がなくてもやっていける経済を目指している。
それが成功すると、基地依存度の高い米国経済の、脱基地・軍事経済の処方箋にもなる。
脱基地で発展する沖縄の姿を見た時に、アメリカ自身が、基地依存経済の呪縛に気づき、
アメリカにとって沖縄は「忘れられない島」に変わっていく。


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1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸、12週間に及ぶ沖縄地上戦では、4人に一人の住民が亡くなりました。
本作では、当時、同じ戦場で向き合った元米兵、そして沖縄住民に取材を重ね、米国立構文書館所蔵の、米軍による記録映像を交えて、沖縄戦の実情に迫ります。

また、戦後のアメリカ占領期から今日に至るまで、米軍基地をめぐる負担を、日米双方から押し付けられてきた、沖縄の差別と抑圧の歴史を描き、
現在の辺野古への基地移設問題につながる、沖縄の人たちの深い失望と怒りの根を、浮かび上がらせます。

『老人と海』で、与那国島の、荒々しくも美しい自然と風土を捉え、
『映画日本国憲法』で、日本の平和憲法の意義を訴えた、アメリカ人映画監督ジャン・ユンカーマンが、
真の平和を求め、不屈の戦いを続けている、沖縄の人々の尊厳を描いた、渾身のドキュメンタリー。



小嶺基子(詠み人):
うりずんの 雨は血の雨 涙雨
礎の魂 呼び起こす雨


『うりずん』とは、『潤い初め(うるおいぞめ)』が語源とされ、
冬が終わって大地が潤い、草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨に入る5月くらいまでの時期を示す言葉。
4月1日から始まった沖縄地上戦が、うりずんの季節に重なり、戦後70年経った現在も、
この時期になると、当時の記憶が甦り、体調を崩す人たちがいることから、
沖縄を語る視点のひとつとして、本作のタイトルを『沖縄 うりずんの雨』とした。



ジョン・ダワー(歴史家):
この世界に、沖縄ほど、過酷な第二次世界大戦の遺産はない。
そして、平和と平等を求めるどんな声も、沖縄の人々が語る言葉ほど雄弁ではない。

映画『沖縄 うりずんの雨』を観ると、そんな思いにさせられる。
この映画は、沖縄の人々に寄り添いながら、けっして抑制を失わず、私たちの心をしっかりとつかむ。
そして、1945年の沖縄戦から、戦後の米軍による植民地化、現在の闘争まで導いていく。

日米間の戦争の悲惨さや、冷戦時代のアメリカによる権力の乱用、
そして、冷戦後も続いた、東京の政治家たちの背信…。
これらを証言するのは、沖縄の人々だけではない。
アメリカ人たちも、率直な言葉で語る。
さまざまな視点から捉えた映像の中には、戦場でアメリカ軍が撮影した、引き込まれるような記録映像もある。

この映画を観ることで、私たちは、沖縄の人々が体験してきた抑圧と差別の歴史を、直視させられることになる。
それでもなお、彼らが語る言葉は明快で、威厳に満ちているため、
観る者に、理解や賞賛だけでなく、希望すら抱かせる。
この映画の、最もすばらしいところである。



ジャン・ユンカーマン(監督):
1975年、大学を卒業した私は、沖縄を訪れ、6ヶ月間、コザのバー街で、反戦兵士(*1)たちの支援活動に関わりました。
ベトナム戦争が終わった直後で、其処此処に、きな臭い雰囲気が残っていました。
沖縄戦の終結からは30年が経っていましたが、島の至る所で、焼け野原になった跡が見られました。
高い樹木はありませんでした。
トタン屋根を乗せただけの建物が、たくさんありました。

占領は3年前に終わったはずなのに、沖縄はまだ、基地だらけでした。
米軍による支配が、続いていたのです。
「基地の中に沖縄がある」と、言われたとおりでした。

私は、アメリカをはじめ、世界中の人々に、沖縄の実態を伝えることが、自分の人生の仕事の一つだと考えるようになりました。

沖縄の実態の一つは、この映画の英語タイトル"The Afterburn"が象徴しています。
『アフターバーン』とは、炎が消えた後にもやけどが続く。
やけどが残るんじゃなくて、時間とともに、火傷がより深くなっていくことです。
沖縄戦を体験した人々は、まさに、そうしたトラウマと共に生きてきました。
元米兵もそうです。
元日本兵もそうです。
そして特に、4人に一人が亡くなった沖縄の人々にとって、沖縄戦は今も続いているのです。


想像もつかないほどの戦争体験をした、沖縄の人々は、一貫して、戦争を拒絶してきました。
米軍も、沖縄戦では、同じ血を流しました。
しかし米軍は、沖縄を『戦利品』として扱い、膨大な基地を建設。
それらを拠点として、朝鮮、ベトナム、中東での戦争を続けてきました。
平和を求める沖縄の文化と、戦争を選ぶアメリカの文化ーー。
対極にある二つの文化が、狭い島に共存せざるを得なくなったのです。

何の武器も持たない沖縄の人々が、世界でいちばん強大な軍隊を持つアメリカに対して、反戦・反基地の戦いを始めました。
そして、1950年代の島ぐるみ闘争から、普天間基地の辺野古移設反対闘争まで、不屈の精神で戦い続けています。
私は、1975年に、初めてその精神に触れ、深い感銘を受けました。
そして、強い尊敬の念を抱きました。
以来、40年が経った今、不屈の精神はいっそう強固となり、さらに広がりつつあります。
まさにそれこそが、私が世界に伝えたい、もう一つの沖縄の実態です。
私はそれを、この映画の日本語タイトル『うりずんの雨』に込めたつもりです。

米軍基地を撤廃するための戦いは、今後も長く続くでしょう。
沖縄の人々は、決してあきらめないでしょう。
しかし、沖縄を『戦利品』としての運命から、解放する責任を負っているのは、沖縄の人々ではありません。
アメリカの市民、そして日本の市民です。
その責任をどう負っていくのか、問われているのは私たちなのです。


(*1)
米軍の中で、反戦の意志を持って抵抗していた兵士のこと。
ベトナム戦争当時、反戦米兵の支援運動を続けてきた。
PCS(パシフィック・カウンセリング・サービス)という米国のグループがあり、ユンカーマン監督は、その沖縄事務所のスタッフとして、法律相談などの活動をしていた。


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企画と実行を担ってくれた歩美ちゃん。




今回もまた、素晴らしい広告パンフレットを手がけてくれた、デザイン神の金魚さん(中央右)。彼の後方には監督が。


人間は素晴らしい。愛すること、祈ること、人の良いものを引き出すこと、そして繋がることを説いてくださる純さん。



すっかり日が暮れていた。


実は今回初めて、次男くんが参加した。
「沖縄のことをよく知らないでいるのは、いけないと思うから」と言って。
「映画を観て、どうだった?」と尋ねると、「観て良かった。知らないことが多過ぎた」と言った。
ものすごく嬉しかった。
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