明るくて温かくてひまわりのような友人ゆかさんが紹介してくれたこの映画のトレーラーを観て、久しぶりに、深くて冷たい枯れ井戸の底で、膝を抱えているような気持ちになりました。
映画のタイトルは『Silent Fallout・サイレント・フォールアウト~乳歯が語る大気汚染~』、元幼稚園の先生&テレビ局ディレクターの、伊東英朗監督の作品です。
この作品は、先日のハンプトン映画祭に引き続き、昨日はセントルイス映画祭で上映されましたが、また配給会社が決まっておらず、上映がままなりません。
ゆかさんが自身のFacebookに載せたメッセージと写真をお借りして、わたしなりに紹介させていただこうと思います。
映画「Silent Fallout』予告編
『神奈川新聞』
引用はじめ:
日本は唯一の戦争被爆国と言われるが、米国ではネバダ核実験場で100回もの大気圏内核実験が行われた。
本番も実験も同じ核爆発と考えると、米国は凄まじい『被爆国』。
それも自国によるオウンゴールだということを米国民は知らない。
『デイリースポーツ』
アレック・ボールドウィン“ノーギャラ”ナレーション 伊東英朗監督あぶり出す米の放射能汚染
引用はじめ:
作品であぶり出された放射能汚染の実態は、米国人のボールドウィンにも衝撃を与え「自分は、この事実を知らなかったが伝えないといけない。できることは何でもやる」との言葉ももらったという。
実際に頼もしい理解者の尽力もあって、ハンプトン国際映画祭での特別上映が決定。
上映後のシンポジウムには一緒に登壇することになっている。
(まうみ注・セントラル映画祭ではこれが2回目の上映、そしてハンプトン国際映画祭が10月に行われ、ボールドウィン氏が登壇してくださいました)
伊東氏が核実験による被曝問題に取り組み始めて19年。
愛媛・南海放送のディレクターとして数々のドキュメンタリー番組、映画を製作し、上映活動も行ってきたが、
「何も変わらなかった。福島(第一原発事故)が起こっても何も変わらない」。
ジレンマを抱え、出した結論が「核の問題の本場である、アメリカでうねりを作ること」。
米議会を動かし、日本に波及させることが目指すところだ。
『週刊金曜日』田中優子氏
ゆかさんの記事
河野洋さんの記事
引用はじめ:
映画監督でありTVディレクターである伊東が2004年から追い続けているテーマがある。
それは、原爆、原発、核、水爆実験などと切っても切り離せない放射線だ。
1942年から始まったマンハッタン計画は45年の原爆投下に繋がり、続く核実験、54年のビキニ環礁水爆実験で被曝した第五福竜丸は氷山の一角で、62年にかけて米国や英国が太平洋で行った水爆実験の数々で被曝したであろう日本人たちは数知れない。
このテーマを追い続けているのには理由がある。
ビキニ事件における放射線の被害を調査し、報道を続けている人が他にいないからだ。
「僕が止めてしまうと、この調査はストップしてしまいます。放射能がいかに私たちの生活にとって脅威であるかということにみんなが気がついて、事実を突き止めようと動き出してくれる人が出てくるまで、僕がやるしかないと思っているのです」
伊東は元々、奏者になることを夢見てトランペットを演奏していた。
「僕が止めてしまうと、この調査はストップしてしまいます。放射能がいかに私たちの生活にとって脅威であるかということにみんなが気がついて、事実を突き止めようと動き出してくれる人が出てくるまで、僕がやるしかないと思っているのです」
伊東は元々、奏者になることを夢見てトランペットを演奏していた。
養護学校で音楽を教えたかったが、それが実らず、就いた仕事は幼稚園の先生。
映像について勉強をしたこともない伊東は、映画監督になるとは夢にも思っていなかった。
「もともと、僕は子供たちに教えることが好きで、幼稚園の先生を16年やっていました。いわゆる公務員です。40歳の時、教育委員会への異動が決まり、現場で教えることにこだわっていたので、退職届けを出しました」
自称「変な人」を名乗るように、幼稚園教師から映画監督になった人間は世の中に数えるほどしかいないだろう。
「もともと、僕は子供たちに教えることが好きで、幼稚園の先生を16年やっていました。いわゆる公務員です。40歳の時、教育委員会への異動が決まり、現場で教えることにこだわっていたので、退職届けを出しました」
自称「変な人」を名乗るように、幼稚園教師から映画監督になった人間は世の中に数えるほどしかいないだろう。
【日本語字幕付き】Oppenheimer / オッペンハイマー 予告編2
日本ではまだ上映されていない、もしかしたら上映されない可能性もある(どうしてなのでしょう?)という映画『オッペンハイマー』。
この映画は、『原爆の父』と言われた物理学者、オッペンハイマーの生涯を描いたものです。
彼は、第二次世界大戦時の核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」を主導した理論物理学者です。
*「マンハッタン計画」
アメリカ、イギリス、カナダが主導となり行われた核兵器開発プロジェクト。
科学者や技術者たちが、原爆開発のために、ニューメキシコのロスアラモスに総動員された。
オッペンハイマーは、ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、化学部門のリーダーを務めた。
彼が41歳だった1945年の7月16日に、アメリカにおいて、人類史上初の核実験『トリニティ実験』が行われ、それから21日後の1945年8月6日に、広島に原子爆弾(通称リトルボーイ)が、そしてその3日後、長崎に原子爆弾(ファットマン)が投下されたのでした。
彼は、原爆投下後の惨状を目の当たりにして、自らが犯した過ちの大きさに気づきました。
彼は、原爆投下後の惨状を目の当たりにして、自らが犯した過ちの大きさに気づきました。
その後、原子力委員会(AEC)のアドバイザーとなり、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、水爆をはじめとする核開発に反対の意を示したため、マンハッタン計画で研究を共にしたエドワード・テラー「水爆の父」と対立するようになります。
そして原爆投下から9年後、彼が50歳になった年に、「ソ連のスパイである」との容疑をかけられ、オッペンハイマー聴聞会が開かれ、スパイに仕立て上げられてしまいました。
アイゼンハワー大統領は、大統領命令として、オッペンハイマーを一切の国家機密から隔離、政府公職追放を決定します。
それから後は、国家機密を漏洩する可能性を持つ危険人物と断定され、FBIによる尾行や盗聴など、晩年まで厳しい管理下に置かれました。
伊東監督がこのオッペンハイマーの遺族にインタビューをした時のエピソードが、facebook上に書かれていました。
「15年前、ボストンで、オッペンハイマーの遺族をインタビューしたことを思い出す。
2008年、タフツ大学で上映された僕のドキュメンタリー番組を見た、ハーバード大学の教授から突然「遺族にインタビューする気はないか」と声をかけられ、急遽、大学内でインタビューすることに。
当時、オッペンハイマーや原爆開発の背景把握が十分でなかった僕には、インタビューはかなり重荷だった。
彼が何を語ったかは、今、軽はずみに言えるものではないが、当時80代だった彼の言葉や表情は忘れらない…」
実は、わたしが住む町の、それこそ歩いて数分のところにある隣町の通り一帯が、マンハッタン計画と深く関連していたらしく、どなたかの引越し手続きの過程で地面を深く掘り下げたところ、とんでもなくひどい汚染が見つかり、慌てて大規模な除染をしたらしい、という話を聞いたことがあります。
それほど前の話ではありません。
なので「マンハッタン計画」はとても身近に考えられる現実のものなのでした。
そして…アメリカ大陸に落とされた100発もの原子爆弾…。
伊東監督の映画を観ると、戦争という世にも愚かな行為は、その場で繰り広げられる人や暮らしや自然の破壊だけでなく、その前後にも悲惨な破壊が伴うものなのだと、しみじみ考えさせられます。
わたしを含む、平坦で安全な暮らしを与えられている者たちは、戦争という事件は他人事で、胸を痛めることはあっても実際に傷つけられて血を流したり、空から降ってくる凶器に怯えることもありません。
たかを括っている間に、危険は突然空から襲いかかってくる。
たかを括っている間に、危険は地の底でとぐろを巻いて機を狙っている。
たかを括っている間に、危険は生き物や自然の命をジュクジュクと蝕んでいく。
核兵器の空気汚染は、その最たるものの一つだと思います。
だから伊東監督は、膨大な資料と格闘し、忍耐強く精査し、コツコツと拾い集めた事実を元に映画を作り続けておられるのだと思うのです。
この映画が、少しでも多くのみなさんの目に、胸に、入り込んでいくことを心から願っています。
オンライン上映会などのアイディアや強力なツテがある方はぜひご一報を!
よろしくお願いします!