ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

いのち

2008年08月29日 | 世界とわたし
人が人の命を奪う。毎日毎日、どこかの国のどこかの町中で、山中で、海辺で。
残された人達は悲しみ、怒り、助けられなかった、防げなかった自分達を責める。

どんな生まれ方をするのか選べないように、どんな死に方をするのかも選べない。
けれども、生まれたその日から、人は命の終わりに向かって生きているのだから、
どんな死に方をするのか、1日1日、死を感じながら準備していけば、
もしかしたら少しはそれなりに、選んだような気持ちになれる最後の日を迎えられるかもしれない。

でも、突然、なんらかの、恐ろしい暴力で、無理矢理その1日を奪われたら……。

その時の絶望と怒りと哀しみは、その人にしか分からない。
15才の秋と19才の秋と29才の冬に、わたしはほとんど命を失いかけた。
3度とも、想像を遥かに超えたものすごい恐怖がわたしを圧倒した。
わたしには、はっきりとわたしが見え、その目の中に黒々とした絶望と怒りと哀しみの炎が燃えていた。

アフガニスタンで殺された人、洪水で溺れた人、離婚調停中の夫に殺された人、
昨日もまた、何人もの人が、あの炎を見ながら生還できなかった。

生還できたわたしは、その無念を思う。

息子達がとても小さかった時から、わたしは命の話をよくした。
どんな理由があったとしても、自分の命を自分で奪ってはならない。人の命も奪ってはならない。

いつか、とてつもなく辛いことが起こって、真っ暗な井戸の底に落ちてしまったら、
母親から言われたことなんて吹っ飛んでしまうかもしれないけれど、
そんな時に、自分の根っこから栄養を出せるような、心の底力をつけられるよう、
わたしは心の底の底から祈っている。


 



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2 コメント

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死について (メタボおじさん)
2008-08-29 19:42:24
アフガンでなくなられた伊藤さんには深い悲しみと共に謹んで哀悼を捧げます。戦後日本の実生活の中や教育の場では教わり方は教えてくれたが学び方についての教育はなくなりました。そして、毎日肉親を殺してしまうニュースが途切れることなく流れる今を見ていくとこの先どうなるのやら。簡単に自分の命を絶つ。他人の命を奪う。そもそも死と生きることは表と裏で一体のものと考えるのですが、戦前の日本の社会いやついこの前までであったと思いますがお祖父さんやおばあさん、孫までの大家族の中での暮らしから自然と感謝の気持ち思いやる気持ち大切にする気持ち、そして年老いた身近な家族の死から深い悲しみと共に生きている大切さ、生きてこそできる事。そんな事が自然にはぐくまれていったものです。身近な死を見つめることこそ生きる大切さ、命の大切さを感じ取るものです。力強く生きろ、夢に向かって頑張れ等教える人はたくさんいるけど、死について教える人はあまりいない。・・何か仏の教えみたいになっきました。 おじんになるとどうも世間からかけ離れた講釈人間になるのかな。 ***失礼しました。
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いえいえ、 (まうみ)
2008-08-29 22:42:36
失礼なんてとんでもない。いろいろ一緒に考えてくれてありがとう。
メタボおじさんも昭和30年代の生まれでしょうか?ふとそんな気がしました。

わたしは、これも息子達に話したことがありますが、人の死を願ったことが何度かあります。
ただピアノが上手に弾けるからということで、3人の女の子達から虐められていた小4の時、
やくざから毎晩、親が金を返さんのなら、お前の内蔵売れと脅かされていた時、
父親が、お金の無心を時と手段を選ばずしていた時、
自分の手でやろうとは思いもしなかったけれど、なにか大きな力が動いて、その人達を消し去ってくれたらと願いました。

そしてもっと情けないことに、産んで間もない赤ん坊の息子達を、それぞれ1回ずつ、
夜泣きが激しかった彼に、布団を何重にも被せて上から押さえつけたり、
抱いてあやしても泣き止まない彼を、このまま腕を解いて落としてしまおうかとふと思ったり、
ほんとうに紙一重の、恐ろしい行動をとりかけたこともありました。

なので、わたしはとても単純に、もっともっとみんなで話して欲しいと思います。

親でも子供でも、教師でも生徒でも、先輩でも後輩でも、お年寄りでも若者でも、
もっともっとみんなで、身近にいる者同士で、いろんな話ができる環境になればいいなあと思います。

そういう時間なんて今の社会には無いよって言う人が多いけれど、
携帯のメールでも電子メールでも、車の中のほんの5分の間でも、
言葉はいっぱい使えるのになあ、なんて思うわたしはズレてるのかしらん。
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