「おめでとう」
朝一番に次女ピーチからメールがきた。
「よく気が付くわね~」と驚き思いながらも、そのメールが嬉しかった。
そう・・・今日は私の55回目の誕生日なのです。
私は早生まれなので、同級生たちのほとんどがすでに昨年のうちに55歳になっているのだが、54歳と55歳のたった1歳の違いが、今回はいつも以上に大きく感じる。
なんだかとても年を取ったような・・・
たぶん、これは四捨五入で切り上げか切り捨てかの違いかもしれない。
54歳は切り捨てできるが、55歳だと切り上げで60歳・・・な~んてね。(別に意味はないのですが)
誕生日と言っても、ときどき自分でも忘れているくらいなので、今までは特に感慨もなく過ごしていたのだが、今回はやや思うところがあった。
それはピーチからの「おめでとう」メールを見てだった。
お誕生日になぜ「おめでとう」と言うのだろうかと思ったとき、「よくここまで生きてきましたね」との意味を込めて「おめでとう」と言うのだろう。
たしかに55年間もの長きにわたり、事故にも遭わず大きな病気をすることもなく、よくここまで生きてこられたと我ながらに思う。
毎年ガンで30万人以上の方が亡くなり、何千人という方が交通事故で亡くなっていることを考えると、今ここに生きていられることは、本当に奇跡に近いのではないかと思う。
自分自身の身体の細胞のひとつひとつに感謝、そして何かはわかりませんが、守って下さっている存在のすべてに感謝したい気持ちになってくる。
人は輪廻転生を繰り返している・・・ということを前提に話すと、今世はいまのところ、とても満足のいく人生を送っていると思っている。
これは経済的に、家庭的に恵まれているから、ということではけっしてなくて、自分自身が納得する生き方ができるようになったことがそう思えるのだと思う。
自分自身の良心を納得させるように生きていると、人生に付随するもの・・・たとえば金銭面などの豊かさも自然についてくるのだと思う。
ただ豊かさと言っても人それぞれに感じ方は違っており、小さくても屋根のある家で温かい布団で寝られて、普通のごはんを食べられることが何よりも豊かだと思える人もいれば、大邸宅で豪華な暮らしをすることが豊かと思う人もいるかもしれない。
だが、これらはけっして自分が生まれてくるにあたっての大きな目的ではなく、まさに付録であり、本当はもっと違う目的があったはずだったことを、今になってやっとわかったような気がしている。
生まれてくる目的とは、自分自身が納得する生き方ができたかどうか。
つまりは自分の良心に沿う生き方ができたかどうかなのだと思う。
だから今世で経済的にも家庭的にも恵まれなくても、良心に沿った、自分が納得できる生き方ができたら、それは大成功なのだ。
ここからは信じて頂けないことを承知で書くが、私は48歳頃に自分の前世を見ることが多かった。
その時期は日中起きていても、ある映像がまるでテレビを観ているかのように眉間に映ることが起こり、一体これは何なのかと思っていると、日をあけて「あぁそうだった」と自分が前に生きた人生の断片を思い出した。
思い出すきっかけとなったのは、山道を歩きながら見た木漏れ日のさす森林だったり、草を踏む自分の足元だった。
そのようなことでいくつかの人生を経験してきたことがわかったが、共通するのは家族を持たずに一人で生きたことが多かったことを思い出した。
今の人生のひとつ前の人生では、家族がほしいと強く望んでいた。
だから、今世は三人姉弟に生まれ祖父母も一緒で、父母が自宅の部屋を貸していていたため他人の家族も一緒の大世帯くらしだった。
そして結婚してからも三人の子を持ち、義父母と一緒でにぎやかだった。
時には「あ~ひとりで暮らしたい」などと思ったこともあったが、私の心の奥底では、これこそが望んでいたことだった。
家族がいると煩わしさもあるし、何かと問題も起こるが、もしも途中で「大家族はもうやだ!」と言って逃げだしたとしたら、やっぱり私は後悔する。
そして、また再びここへ戻ってくるだろう。同じような大家族を持つことに挑戦するために・・・
もう絶対に失敗はしたくない。
しかし無理をしているわけではなく、とても幸せを感じている。
迷ったら、自分の良心に立ち返るようにする。
最初は自我が強くてうまくいかなかったが、すこしずつ慣れてくる。
さて・・・とりあえず、あとどれくらい生きるのかわからないが、こうして55回目の誕生日を迎えられたことに今日は深く感謝したい。
朝一番に次女ピーチからメールがきた。
「よく気が付くわね~」と驚き思いながらも、そのメールが嬉しかった。
そう・・・今日は私の55回目の誕生日なのです。
私は早生まれなので、同級生たちのほとんどがすでに昨年のうちに55歳になっているのだが、54歳と55歳のたった1歳の違いが、今回はいつも以上に大きく感じる。
なんだかとても年を取ったような・・・
たぶん、これは四捨五入で切り上げか切り捨てかの違いかもしれない。
54歳は切り捨てできるが、55歳だと切り上げで60歳・・・な~んてね。(別に意味はないのですが)
誕生日と言っても、ときどき自分でも忘れているくらいなので、今までは特に感慨もなく過ごしていたのだが、今回はやや思うところがあった。
それはピーチからの「おめでとう」メールを見てだった。
お誕生日になぜ「おめでとう」と言うのだろうかと思ったとき、「よくここまで生きてきましたね」との意味を込めて「おめでとう」と言うのだろう。
たしかに55年間もの長きにわたり、事故にも遭わず大きな病気をすることもなく、よくここまで生きてこられたと我ながらに思う。
毎年ガンで30万人以上の方が亡くなり、何千人という方が交通事故で亡くなっていることを考えると、今ここに生きていられることは、本当に奇跡に近いのではないかと思う。
自分自身の身体の細胞のひとつひとつに感謝、そして何かはわかりませんが、守って下さっている存在のすべてに感謝したい気持ちになってくる。
人は輪廻転生を繰り返している・・・ということを前提に話すと、今世はいまのところ、とても満足のいく人生を送っていると思っている。
これは経済的に、家庭的に恵まれているから、ということではけっしてなくて、自分自身が納得する生き方ができるようになったことがそう思えるのだと思う。
自分自身の良心を納得させるように生きていると、人生に付随するもの・・・たとえば金銭面などの豊かさも自然についてくるのだと思う。
ただ豊かさと言っても人それぞれに感じ方は違っており、小さくても屋根のある家で温かい布団で寝られて、普通のごはんを食べられることが何よりも豊かだと思える人もいれば、大邸宅で豪華な暮らしをすることが豊かと思う人もいるかもしれない。
だが、これらはけっして自分が生まれてくるにあたっての大きな目的ではなく、まさに付録であり、本当はもっと違う目的があったはずだったことを、今になってやっとわかったような気がしている。
生まれてくる目的とは、自分自身が納得する生き方ができたかどうか。
つまりは自分の良心に沿う生き方ができたかどうかなのだと思う。
だから今世で経済的にも家庭的にも恵まれなくても、良心に沿った、自分が納得できる生き方ができたら、それは大成功なのだ。
ここからは信じて頂けないことを承知で書くが、私は48歳頃に自分の前世を見ることが多かった。
その時期は日中起きていても、ある映像がまるでテレビを観ているかのように眉間に映ることが起こり、一体これは何なのかと思っていると、日をあけて「あぁそうだった」と自分が前に生きた人生の断片を思い出した。
思い出すきっかけとなったのは、山道を歩きながら見た木漏れ日のさす森林だったり、草を踏む自分の足元だった。
そのようなことでいくつかの人生を経験してきたことがわかったが、共通するのは家族を持たずに一人で生きたことが多かったことを思い出した。
今の人生のひとつ前の人生では、家族がほしいと強く望んでいた。
だから、今世は三人姉弟に生まれ祖父母も一緒で、父母が自宅の部屋を貸していていたため他人の家族も一緒の大世帯くらしだった。
そして結婚してからも三人の子を持ち、義父母と一緒でにぎやかだった。
時には「あ~ひとりで暮らしたい」などと思ったこともあったが、私の心の奥底では、これこそが望んでいたことだった。
家族がいると煩わしさもあるし、何かと問題も起こるが、もしも途中で「大家族はもうやだ!」と言って逃げだしたとしたら、やっぱり私は後悔する。
そして、また再びここへ戻ってくるだろう。同じような大家族を持つことに挑戦するために・・・
もう絶対に失敗はしたくない。
しかし無理をしているわけではなく、とても幸せを感じている。
迷ったら、自分の良心に立ち返るようにする。
最初は自我が強くてうまくいかなかったが、すこしずつ慣れてくる。
さて・・・とりあえず、あとどれくらい生きるのかわからないが、こうして55回目の誕生日を迎えられたことに今日は深く感謝したい。