友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

今日はクリスマス

2011年12月25日 21時49分48秒 | Weblog

 今日はクリスマスである。「ところで、イエス・キリストの誕生はこうであった。その母マリアがヨセフと婚約中であった時、ふたりが結ばれる前に、彼女が聖霊によって妊娠していることが分かった。しかし、その夫ヨセフは義にかなった人であり、また彼女をさらし者にすることを望まなかったので、ひそかに離婚しようと思った。しかし、彼がこれらのことをよく考えたのち、見よ、神のみ使いが夢の中に現れて、こう言った。『ダビデの子ヨセフよ、あなたの妻マリアを迎え入れることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエスと呼ばなくてはならない。彼は自分の民をその罪から救うからである』」と『マタイによる書』第1章にある。

 

 イエスはベツレヘムで生まれた。しかし、『マタイによる書』にはそれ以上の記述がない。この日の様子は『ルカによる書』に次のようにある。「そして彼女は男の子、初子を産み、これを布の帯でくるんで、飼い葉おけの中に横たえた。泊まり部屋に彼らの場所がなかったからである」(第2章)。だから、最初に誕生したイエスを見たのは動物たちだと言う。それから、同じ地方にいた羊飼いに神のみ使いが現われて「今日、ダビデの都市で、あなた方に救い主、主なるキリストがうまれた」と告げる。「羊飼いたちは互いにこう言いはじめた。ベツレヘムまで行って、神がわたしたちに知らせてくださった出来事を見てこようではないか」。『ルカによる書』には羊飼いたちが飼い葉おけの幼子を見て、自分たちに語られた事柄に驚き、皆に伝えた様子が窺える。

 

 先の『マタイによる書』では」「東方から占星術者たちがエルサレムに来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方にいた時、その方の星を見たのです。わたしたちはその方に敬意をささげるために参りました」とあり、恐れたヘロデ王は幼児の虐殺を命じるが、み使いがヨセフの夢の中に現われて、エジプトへ逃げるようにと伝える。イエスの誕生を記したものは他にはないのだろうか。『マルコによる書』や『ヨハネによる書』には誕生の様子の記述はなく、バプテスマのヨハネの話から始まる。いや、もっと正確に言えば『ヨハネによる書』は、「初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、言葉は神であった」で始まり、マタイやルカのものとは違っている。

 

 子どもの頃のイエスについての記述は『ルカによる書』の第2章の後半に少しだけある。イエスが12歳の時で、エルサレムでの祭りが終わって親戚一同は岐路に着いたが一日たって両親はイエスがいないことに気付き、エルサレムの神殿で学者たちの真ん中に座って彼らと話しているイエスを見つける。母親が心配して探し回ったことを告げてとがめると、イエスは「なぜ、わたしを捜さなければならなかったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを知らなかったのですか」と誠に生意気なことを言う。おそらく、学者たちと平気で話のできる神童であったのだろう。

 

 しかし、単なる神童であれば神ではない。わたしが聖書研究会で最初に読んだのは『マタイによる書』の初めのページで、「アブラハムはイサクのちちとなり、イサクはヤコブの父となり」というイエスの系図だった。イスラエル民族の系図など何の意味があるのか、当時の私は全く分からなかった。神から言葉を預かった者、つまり預言者の言葉を成就していくことで、イエスは神の子であり、神が私たちに授けてくださった救い主であると説明していることが分かるようになった。そんなわけで、イエスの物語は歴史と哲学に満ちていると思うようになった。

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