友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

犠牲と恩恵

2012年02月19日 17時50分35秒 | Weblog

 沖縄の問題も福島の問題も同じだと新聞にあった。犠牲になる人々がいるけれど、恩恵にあずかる人々もいる。沖縄の人々の犠牲の上に、私たち本土の人間は暮らしている。福島の人々の犠牲に助けられて、東京など都会の人々は豊かな暮らしをしている。社会は常に、少数の人々を犠牲にして、多数の人々が恩恵を受けてきた。そんな言い方がされている。確かにその通りだが、沖縄の米軍基地は絶対に必要なものなのか、福島の原発はなくてはならないものなのか、その検証が先だと私は思う。

 

 必要なもののために犠牲となるなら名誉と思って受け止める人もいるが、必要でないもののために犠牲になるのであれば犬死である。私はどんな戦争にも反対だが、戦争には何らかの理由が付く。国のためとか家族のためとか、だから命を捧げてもよいと思ったのだろうが、これが個人の欲のためだと知ったら、誰も命を捧げようとはしなかっただろう。大義はそれほど大きな力で人を支配する。

 

 沖縄に米軍が駐留するのは日米安全保障条約のため、つまりは日本の安全保障のためだと言う。けれども、米軍の駐留を沖縄だけでなく本土の各地に分散させようとなると、どこも引き受けられないと言う。誰もが拒否するなら沖縄が拒否しても当然ではないだろうか。そもそも国民は軍事基地は要らないと言うのだから、その根本である戦争のない世界を目指せばよいはずだ。しかし、それは現実的ではないと言う。いや、現実にしようとする努力をしていないだけのことだと私は思う。

 

 マンションで集会があった。下水道工事がマンションまで進み、これまでのし尿処理施設を廃止し下水管へ接続することになった。こうなっては仕方がないが、私は大型の都市下水処理方式は必要ではないと思っている。下水処理場を見せて、こうした施設があることが文化的というかハイレベルな生活ですよと私たちは思い込まされてきた。1千所帯以下の地域ごとの合併浄化槽方式の方が便利でお金もかからない。それを国があるいは県や各自治体が、大型の下水処理場造りを国策として勧めてきた。

 

 そんなわけで、マンションも下水管につなぐことになったが、それに伴ってこれまでの処理施設を壊す工事を行わなくてはならない。地下にあったので一部は掘り出し、一部は貯水槽として活用する方法を取った。それで、壊した庭をどうするかというので、自治会役員は処理施設の撤去工事に含める形にして庭の整備する意向を示した。これに対して住民は「一方的過ぎる」とか「詳しいことが知らされていない」とかで、白紙にするように要求している。

 

 誰かの犠牲の上に誰かが恩恵を受けているという図式で見ると、役員の犠牲の上に住民は恩恵を受けているとなるのだろうか。それとも住民の犠牲の上に役員は利益を得ているのだろうか。庭はマンション全体の一部であり、マンションの住民の共有財産でもある。どんな庭にするのか、いくらかけるのかは住民みんなで決めるのが原則である。決めるためには、判断する資料を全て公開しなくてはならない。お金はかけずに地震に備えて欲しいと言う人もいる。中庸を取って、最良の案を提出する義務を役員会は負っている。

コメント
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