友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ドラマ『キルトの家』の老人たち

2012年02月08日 19時29分02秒 | Weblog

 寒い。昨日までが少し暖かかったので、今日はとても寒く感じる。天候は不順で、青空が見えたかと思うとたちまち黒い雲が北西の空からやってくる。小さな粉雪が雨のようにパラパラと降ってきて飛び跳ねている。けれども長く続かずに、再び太陽が顔を出し、雪は瞬く間に溶けていく。空気は一気に冷たくなり、底冷えに思わず身体が震えた。まだ、春は遠いようだ。しかし、テレビの天気予報は、この急激な天候不順は春に向かっているからだという。「春になれば」と、今は待つより手立てはない。

 

 そんなわけで今日も一日家に閉じこもっているが、そうなると何を書きこうか、きっかけが見つからない。ボーとしてパソコンに向かっていた時、「時々読んでいますよ」と言ってくれた人が、「最近は不倫のススメがありませんね」と言ったことを思い出した。中学からの友だちのブログに『友だち以上恋人未満』が載らなくなり、それにつられて私も扱う頻度が少なくなった。「弁解するようだけれど、決して不倫のススメを書いているわけじゃーないよ。もっと高みから、男と女を観察しているつもりなのだけど」。

 

 終わってしまったけれど、土曜日のNHKテレビで山田太一脚本の『キルトの家』を観た。兄嫁と義弟が恋に落ち、都会の団地に住むようになるが、その団地は高齢化が進んでいるというのがドラマの設定だった。兄嫁と義弟が恋をして家を飛び出してくるのは、どんな事情があったにしても異常である。東日本大震災から逃れて、団地に来たということになっていて、「あの津波のようなとんでもないことが起きるかも知れない」と恐怖を語るシーンがあったけれど、取ってつけたようなセリフに聞こえた。

 

 育ててくれた兄であり結婚した夫の出現を恐れているように思ったけれど、地震とか津波を持ち出したのは、人生には何時何が起きるか分からないと言いたいのかも知れない。ドラマの主題はあくまでも団地の年寄りの生き方なのだから。ドラマは2通りを上げていて、ひとつはキルトの家に集まる老人たちの生き方で、もうひとつは団地の自治会が提唱している相互扶助というかボランティアに頼るという生き方。前者が松阪慶子を中心に山崎努をトップとする自立を重視するグループで、後者を余貴美子が演じていた。

 

 自治会では1件に付き250円で老人のためにボランティアをしてくれる人を募集しているが集まりは悪い。そういう助け合いを拒み、自分たちで自立していこうとキルトの家に集まっているが、やがてキルトの家も人手に渡ることになる。この先どうなっていくのか分からないけれど、老人は弱い者だからと十把ひとからげで見ないで欲しいという主張は鮮烈だった。老人一般ではなく、個人であると。老人であっても人を好きになるし、恋もするという主張だ。自尊心が前面に出ている気難しい老人としか受け止めてもらえないことが悲しいけど。

 

 私自身もいつの間にか老人の仲間入りをしてしまった。「はい、お年寄りはこちらに並んでください。みなさん、大きく口を開けましょうね」などとやられたら、死んだ方がマシだと思ってしまうひねくれ者だ。「扱いにくい年寄りね」と言われないように、早く逝ってしまいたいね。

コメント
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