友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『マルドロールの歌』

2012年02月14日 17時42分11秒 | Weblog

  っと気が付いた。先ほどまで持っていた傘がない。どこに忘れてきたのだろう。あの傘はデパートで高いお金を払って買った思い出の品だ。傘を忘れることが度々重なって、忘れてもいいようにコンビニの安い傘を使っていた。すると忘れても、平気で安いのだからいいと思うようになった。これはダメだと、デパートの高級傘を手に入れ気を付けてきた。なのに、どうしたのだろう。立ち寄ったところを思い出そうと、必死になって考えた。

 

 朝になって、昨日はどことどこへ出かけたのかと、また考えた。個人の家ならばきっとまだあるだろう。しかし、公民館や会館だともう誰かが持っていって無いかも知れない。早めに行って探さなくてはならない。それにしても、どこへ行ったのか、その順番さえも思い出せない。歳を取るとこんなことも忘れてしまうのかと腹が立った。とりあえず、まずは探すことだ。そう言い聞かせて、玄関で靴を履く。そして何気なく傘入れを見る。あれ、傘はある。どうなっているのだろう。

 

 そんな夢を見た。焦って今にも出かけるところだったけれど、それも夢だったのか。どこまでが夢で、どこからが現実なのか、境目までもはっきりしない。でも、良かった。傘が無くなることで、思い出の全てを失う気がしていた。つながってよかった。傘からの連想で、シュールリアリストが称えたロートレアモンの『マルドロールの歌』の「ミシンと雨傘とが解剖台の上で、はからずも出会ったように美しい」を思い出した。ミシンは女性、傘は男性などと解釈してくれた人もいたけれど、何のことなのかさっぱり分からなかった。

 

 古本屋で見つけた『マルドロールの歌』を読んでみたが、全体が詩のようで脈絡が分からず、さっぱり理解できなかった。ただ、分かったのは、シュールリアリストが求めていた自動記述の発想というか、あるべきものがあり、理屈で説明がつく、そういう世界とは反対にある。20世紀をマルクスとフロイトとトロツキーの時代と受け止めていた彼らにとっては、非常識や非日常、言ってみれば現実を超えた世界こそが求める世界だった。しかし、シュールリアリストは現実の世界を否定し、新しいものに価値を見つけようとしたけれど、社会革命を目指したりはしなかった。

 

 日曜日の朝日新聞に、大阪市の橋下市長へのインタビューが載っていた。衆議院議員選挙に向けて、「大阪維新の会」が候補者を募ったところ全国から3千人を超える応募があった。「大阪維新の会」がどのような政治を目指すのかと思って読んだけれど、具体的なことは何も分からなかった。橋下さんは、豊かな日本の現状を維持したい、そのためには競争が不可欠で、競争に勝つためには覚悟が要ると述べていた。私の周りにも橋下ファンはかなりいるけれど、私は受け入れがたい。多分、私には「ミシンと雨傘とが解剖台の上で、はからずも出会ったように美しい」と思えてしまうからだろう。

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