友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

運がいいとか悪いとか

2012年12月11日 18時00分12秒 | Weblog

 「運がいいとか 悪いとか 人は時々口にするけど そういうことって 確かにあるとあなたを見ててそう思う」。これは私が好きな歌、さだまさしの『無縁坂』の一節である。私の母は、私が高校1年の時に、胃ガンで亡くなった。病室から霊安室に移動する時だと思うけれど、私はベッドの母を抱き上げて、ストレッチャーに乗せた。母は文字通り骨と皮だけになっていて、余りの軽さにビックリした。その時まで、まったく泣くことはなかったのに、母がいなくなった病室にひとり残り、母が寝ていた空っぽの白いベッドを見たら、どういうわけか涙が流れ、声を上げて泣いてしまった。

 母はよく「運が悪かった」と言っていたような気がする。根は先天的な楽天家で、恥ずかしいくらい大声で笑う人だった。涙もろく、すぐ同情した。お金が無いと言っていたのに、見知らぬ物乞いの話を聞いているうちに、涙を流して「頑張ってね」とお金を渡していた。私や2つ下の妹にはとても優しかったけれど、14歳年上の姉は「とっても厳しかった」と言う。姉や兄には期待するものが大きかったのかも知れないし、やはり戦争に負けて、考え方が変わったのかも知れない。

 友人から、「お前はいいよな。オヤジさんもオフクロさんも先生で、教えてもらえてさ」とよく言われたが、父や母から勉強を教えてもらったことはない。また母からも父からも「勉強しなさい」と言われたこともなかった。母が私によく言ったことは、「ジェントルマンになりなさい」だった。「女性に重い物を持たせたらダメ」とか、「ドアはあなたが開けるのよ」といった西洋の作法を身につけなさいということだったが、「優しい男」こそがこれからの日本人だという気持ちがあったのかも知れない。

 母が「運が悪かった」と思っていたとしたら、一体なぜそう思ったのかと考える時がある。母は同じ代用教員の2つ年下の父と結婚した。父は小説家を夢見ていたようで、そのための学費も母が工面したのだと姉は言っていた。父は島崎藤村似の風貌で、姉の言葉では「役者のような面長で色白のいい男だった」。母の方が父を好きになり、愛し尽くしたのだろう。材木屋の跡継ぎに生まれながら、家を飛び出して年上の女に子どもを孕ませ、無理やり結婚を認めることになったのだから、祖父は父と母を嫌っていた。

 母の日々は息苦しいことばかりが続き、とても幸せだったとは思えない。父と母の間は、「いつもお金のことで言い争っていた」と姉は言うが、私はそれを知らない。むしろ父と母と私と妹の4人で、犬山や伊勢にも行った。その話をすると姉は「私たちの時は一度もなかったのにね」と言う。母の実家にも4人でよく出かけた。そんな時の父はいっそう無口で、静かに物思いにふけっていたような気がする。

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