能を直に見たのは教師になってからだった。できたばかりの体育館で、生徒に能を見せようという提案があった。工業高校だったから、「生徒が黙って見ているはずがない」と否定的な先生もいた。そこで、先生たちは生徒の席の後に立ち、騒ぐ生徒がいたら注意するようにということになった。ところが能が始まると、がやがやしていた生徒たちがシーンとなった。生徒の顔を見ると、皆、舞台に吸い寄せられている。本物とはかくも違うものかと思い知らされた。
「がさつな連中には分かるはずがない」と見縊ってはいけない。面白いものは誰が見ても面白いのだ。能の動きは象徴的で、言葉はさらに分かりづらい。にもかかわらず、舞台に吸い寄せられるのは動作の1つひとつに見る者を魅了するものがあるということだろう。もともと能や狂言は、「舞楽や雅楽とともに伝来していた中国の唐時代の雑芸である散楽に由来する」と、今日の大和塾市民講座「能の楽しみ」の講師は説明する。
平安時代には、神社や寺院で神事や仏事の余興として演じる集団が存在したと「差別の歴史」で学んだ記憶がある。能や狂言が完成していく室町時代末期は、俗に言う戦国時代で、NHKの大河ドラマ「平清盛」の時代から長く戦争が続いた。能の演目に「平家物語」が多いのは、死者を供養する意味があるかもという講師の説は納得できる。そしてまた、底に流れる思いは無常観なのだろう。
無常観は仏教の教えと中国の思想との相乗の結果として生まれたと思う。これに日本人の自然観とが絡み合って、人はどのような存在なのか、人の世とはどのようなものなのか、と独特の哲学を作り出した。能や狂言は、こうした日本人の感覚に根ざして、「盛者必衰」を演じたのではないだろうか。庶民は強い者が痛めつけられる姿に喜び、為政者は身を引き締めたことだろう。
能や狂言そして歌舞伎や相撲も、近頃は入場料がべらぼうに高い。庶民の娯楽であったものを、伝承文化と持ち上げ、いかにも高貴なものにしてしまった。これでは庶民は見ることも出来ず、結局は能や狂言や歌舞伎や相撲はすたれていくほかない。思えば、日本的なものはどんどんなくなっていくように思う。自民党の安倍総裁や維新の会の石原代表が、美しい国とか日本人の伝統とか言うその中身も全く日本的ではない、そんな気がしてならない。
明日は総選挙の投票日、これからの日本はどうなっていくのかが分かるはずだ。何となく、重い気分になっているのは私だけなのだろうか。