友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

議会が論議の場になっていない

2018年11月12日 18時10分02秒 | Weblog

  2日間、ルーフバルコニーで作業ができなかったから、朝から鉢の土の入れ替え作業を行なった。鉢の土は全て出した。後は肥料などを混ぜて新しい土を作る。それでしばらく置いて、いよいよチューリップの球根を植えていく。その次はバラの剪定と土の入れ替えだが、この作業は寒くなってからになる。

 母親と同じ看護の道に進んだ孫娘が、昨日の明け法要の引き出物を届けてくれた。その時、ちょうど仙台の次女から4歳の孫娘の写真がラインで送られてきたので、カミさんはテレビ電話に切り替えた。画面に従弟が映ったので、仙台の孫娘も次女も驚いていた。次女は9月から働き始めていたが、日曜日が出勤だったので「振替休日」と言う。大人の女3人の会話に4歳の孫娘は置いてけぼりで、ふくれっ面になっていた。

 ふくれっ面と言えば、新閣僚の桜田五輪担当大臣だ。野党議員の質問に晒されて、恥の上塗り状態になっている。野党議員の質問も、ただ恥をかかせるためのものになっていて、誠に気分が悪い。「韓国で犬の肉を食べたか?」と質問した野党議員がいたが、「質問」を誤解しているとしか思えない。大臣の資質を問うとしても、相手に恥をかかせるような質問はすべきではない。

 私は国会議員の秘書の時、質問書を作るため議案の中身について職員からレクチャーを受けた。説明を聞いていれば、問題点も分かる。どういう方向へ論議が向かうことが実になる質問かを考えながら質問書を作った。町会議員の時は質問の項目だけでなく、全文を事前に提出しなければならなかった。そこで回答を予想し、再質問を用意して臨んだ。

 議会は、「当局と議員」との論議の場でなければならない。しかし、国会はじめ地方も、「論議の場」となっている議会はないと思う。まだまだ民主主義は定着できていない。おざなりの質問とおざなりの答弁、それで多数決で決める。これでは、民主主義は生きていない。時間制限や質問回数の制限、そういったものを一切なくして、「論議」できる議員がどこにいるのだろう。

コメント
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