友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

チューリップの球根を植え終えた

2018年11月25日 18時17分52秒 | Weblog

  かなり植木鉢を減らしたつもりだったが、私が動くことが出来る間はチューリップを育てようと思い直し、再び鉢の土の入れ替えをしてチューリップの球根を植えた。6鉢をパンジーのために残し、49鉢に500球ほどを植えた。かがみこんでの作業なので腰が痛い。春になればこのささやかなフールバルコニーもちょっとした花園になる。それだけを楽しみに作業を続けてきた。

 小3の孫娘が、「落ち葉も役に立ってるんだよ」と言った。童話『葉っぱのフレディ』を孫娘にあげたから、読んだのかな。役割を終えた葉は落ちていく。次の世代と入れ替わるためだ。チューリップの花の命はせいぜい1週間。植えた球根が一斉に咲くわけではないので、期間としてはもう少しあるかも知れないが、ピーク時は短い。球根のエネルギーを使い果たしてしまうので、花を楽しむと来年花を咲かせる球根は数少なくなる。

 次の世代に残すものはチューリップには何もないのだろうか。中東が原産のチューリップがヨーロッパに渡ったのは16世紀と言われている。17世紀になるとチューリップブームとなり、新種が作られて高値を呼び、世界最初のバブル経済にまでなった。アラン・ドロンが主役だった『黒いチューリップ』はチャンバラ劇だったと覚えているが、チューリップはどんな役割だったのだろう。紫の濃いチューリップは見たことがあるが、真っ黒い花はまだ出来ないと聞く。

 人にはそれぞれに役割がある。花や木々も、動物も昆虫も、生きているものは全てそれぞれに意味がある。なのにどうして、人は差別したがるのだろう。サッカーファンはなぜ暴力を振るうのだろう。助けを求めてやって来る人々、移民も難民も、なぜ受け入れずに排斥しようとするのだろう。生きているものの全てに意味があるのに、別の命を軽んじてしまうのはなぜだろう。

 もうすぐ冬になる。冬が過ぎれば春になり、暑くてたまらない夏が来て、やがて秋になりすぐに冬が来る。少しずつ変化していると言うから、必ず正確に同じ時ではないようだ。地球のあるいは宇宙の変化に比べれば、人間の世界の変化など大したことではないし、ましてや個人のあゆみなどは「屁」のようなものなのだろう。「屁」では肥料にもならないか、残念。

コメント
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