小学校の図書室にあった『アンクル・トムの小屋』を読んだことや、ラジオ番組の『ルーテルアワー』を聞いていたことが、キリスト教に興味を抱いた始まりだった。聖書を見てみたいと思っていた。中学校へ通う道の途中にルーテル教会があった。
私はドアを開けて、「聖書のことが知りたい」と告げた。牧師はアメリカ人だったが、教会には居なくて、日頃は30代くらいの女性がひとり居た。「だったら、お友だちも誘って中学生聖書研究会を作ればいいわ」と言うので、友だちを呼んで始めた。
聖書に旧約と新約があることを知ったが、ルーテル教会では新約しか使わなかった。もっぱらマタイ伝をみんなで読んだ。しかし私の関心は、なぜ神は男と女を創ったのかにあった。男と女を創り、食べてはならない果実を食べた。そのため、人類は生まれた時から罪を負っている。
確かに赤子の時は無邪気なのに、知恵がついてくると泣いたり喚いたり、駆け引きをするようになる。更に、人の悪口を言ったりウソをついたりする。他人のことより自分のことを優先する。そしてもう少し大きくなると、異性に関心を持つようになる。
邪な心の存在を認めるから、どうしようもなく罪悪感に陥る。「神を信じれば、救われる」と教えられるが、神はどこにいるのか、なぜこの苦しみから救い出してくれないのか、ますます苦悩の深みに嵌まってしまう。そんな時だった、アメリカ人の牧師が「君は牧師になりなさい」と言った。
私は「アメリカ軍がベトナムで、無差別な殺戮を行っているのは神の遺志なのですか」と牧師に尋ねた。牧師から明確な答えは無かった。高校を卒業するとともに、教会から去った。遠藤周作氏は「信仰は理屈ではなく、受け入れることだ」と言うが、無理だった。
読んでみたいとは思わなかった旧約聖書だったのに、今、並木浩一氏と奥泉光氏の『旧約聖書がわかる本』を読んでいる。なかなか面白いから不思議だ。