昨夜、金曜ロードショーのアニメ『聲の形』を観た。世界で絶賛された傑作と紹介されていたからだ。なぜ、何が、絶賛された作品なのかと興味があった。それにタイトルに「声」ではなく「聲」を使った意味も知りたかった。
結論から言えば、疑問の2点は何も分からなかった。アニメ『聲の形』は、小学6年のあるクラスに転校してきた耳の聞こえない女の子と、ふざけてその女の子をいじめていた男の子の「ラブストーリー(?)」だった。
耳が聞こえないことに同情することも無く、なぜ、男の子は補聴器をむしり取っって捨てたりしたのか、動機がよく分からない。耳の聞こえない女の子がとても可愛い子だったから、いじめという行為で関心を示したのだろうか。
小学生くらいまでは、好きな女の子をいじめる男の子は確かに居た。でもそれでは、好きな気持ちが伝わらないことは分かるはずだ。5年後、高校生になったふたりは出会い、心惹かれていく。その辺りがどうもスッキリしない。
アニメを制作は、放火にあった京都アニメーションで、絵はキレイだったが、女性の顔が皆似ていて区別がつかなかった。そして何よりも、一番肝心な点だと思うのは、自己本位でいじめていた男がなぜ変わったのか、描き切れていない気がした。
私のような年寄りには、若い二人の「愛」を理解する能力が欠けてきているのだろうか。私が漫画を見て、斬新だなと思ったのは、上村一夫の『同棲時代』だった。物語は覚えていないが、絵がリアルでストリーも現実的だった。
NHKテレビで、フランスのパリに日本の漫画本がフランス語訳して置かれている喫茶店が紹介されていた。「日本の漫画は面白い」と、子どもばかりか大人も話していた。なぜ、「面白い」のか私には理解できない。
漫画も映画も、観ればストーリーを理解することが出来る。表現にはそこに伝えたいものがある。表現者の技術能力も大事だが、受け取る側も読み取る感性を磨かなければ何も見えてこない。アニメではなくて、リアルな映画が観たい。