友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

結局、人生はチャラ

2007年05月09日 23時54分33秒 | Weblog
 再びふるさとへ行ってきた。中学のクラス会の打ち合わせをしようと幹事の4人で会って、食事をしながら話した。午前10時半に待ち合わせて、分かれたのは午後3時だったから4時間30分も話していたことになる。私ともう一人の男はすでに両親を亡くしているが、女性たちはつい最近まで義母の世話をしていたり、イヤうちはまだ母の面倒を見ているのよといった話でなかなか肝心のクラス会の話に進まなかった。

 そういえば、前回の「還暦のクラス会」の時も親の面倒を見なくてはならないから出席できないという人が何人かいた。義父母の話で盛り上がったが、「でもいつか私たちもああなるんだよね」と自分で言って自分で落ち込んでしまう。私はその点では楽観的で、私たちの両親の世代はみんな貧しくて粗食で生きてきたから、健康で長生きしているけれど、私たちは高度経済成長の時代を生きてきたので余り長生きはしないだろうし、私たちの後の世代は、添加物の多い食べ物で育ってきているから早死にすると思っている。

 できることなら、子どもたちに迷惑にならないように「ポックリ死にたいね」「そうそうそれが理想よ。そのために私はヨガで堅田を整えている」などと話していた。昔、おてんばのお嬢さんで自由奔放に生きてきたと思っていた人が、霊の世界を信じていると言う。年月を重ねるということはこういうことなのか思った。友人が「結局人生はチャラと言うのは本当だ」と言う。良い時もあれば悪い時もある。押しなべて見れば、プラスマイナスゼロということだ。なるほど、いいことを言うね。確かマルクスも物価について高い時もあれば安い時もあるが、結局は需要と供給のバランスで決まると言っていたと思うけれど、押しなべて見れば収まるところに収まるのかもしれない、それが人の一生であり、人の営みなのかもしれない。

 みんなと別れて、先日見舞った友だちがどうしているかと思い、訪ねてみようと出かけていった。しかし突然行ったのでは彼も心の準備というものがあるだろうからと思い、電話をかけることにした。ところが電話帳には記載がない。そこで訪問は諦め、母校の方へと歩き始めた。母校である高校では春の球技大会の最中なのか、グランドであるいは体育館で生徒たちの歓声が上がっていた。その声を聞いていると、高校生だった昔にタイムスリップしていく。私が通っていたキリスト教会、中学高校と同じクラスで一度も成績で勝てなかった憧れの女性との家、東京から戻ってきていた彼女とずっと話していた場所はどこだったのかと探した。そして初恋の人の家を見て回った。ご両親は亡くなったのか、人が生活している様子はなかった。高校3年の時、新築されたこの家に遊びに来たことを思い出し、廃屋となった家がいっそう淋しく思われた。

 私が住んでいた土地もマンションや駐車場に変っていた。昔の面影を残しているところはほとんどなくなっていた。初恋の人と行き違いになってしまった踏み切りは高架になっていて見当もつかない。「今は昔」の物語である。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 愛し合えば満たされるのか? | トップ | 孫娘の嘆き »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご苦労様。 (issa)
2007-05-10 10:36:34
昨日はご苦労様でした。
とりとめのない話が、心を癒すことがあることを、改めて思い知らされています。
クラス会にはできるだけ多くの人が集まるといいですね。
そうすれば、また、とりとめのない話がとめどなく続いて、その中で生きてきた自分の人生も、満更でもないことを気付かされるかも知れません。
ではまた。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事