秋と春は、朝起きると途端にクシャミと鼻水に襲われる。花粉症と言われて納得してきたけど、本当は風邪なのかも知れない。いや、風邪の範疇に花粉症があるのだろう。気温のわずかな変化に私の身体は敏感に反応し、何か警告を伝えていると解釈すべきなのだ。生き物は周りの変化に反応するのを、鉢植えの草木を見ていても感じる。
昨日の『中日歌壇』には興味を引いた歌が他にもあった。「ドングリの小さき方を小さき手で 『ぢぢ』にと差し出す二歳の選択」は、孫の姿を見るようだった。ジイジにもあげなくてはと思う優しさと、でも大きい方は自分が欲しいという正直さが、「選択」の中に凝縮されている。幼い子どもは誰もが貪欲に正直だ。それを「駆け引きをするようになった」と大人は非難するが、成長の証であると認め、どういう大人になっていくのか、親が手本を示せばいい。
けれど、そんな孫も恋する季節がやって来る。『中日歌壇』の最後に掲載された「消した時わたしが軽くなりました 三年待った君のアドレス」は、なぜだか消された方の身になってしまい、寂しいというか悲しくなってしまう。そこで、「恋しくて耐えきれなくて今日もまた あなたを思い夕陽眺める」と歌ってみた。小3と4歳の孫娘はどんな恋をするのだろう。
子どもたちの自殺が跡を絶たない。先が見えないというより、現状に絶望しているのだ。命を絶つほどの絶望に追い込んでしまう前に、誰かが気付いて少しでも心を開くことができたならと思う。命は神のもの、自分から消すことは出来ないと。若者は絶望するが、老人の男性の自殺率も高い。若者は先が見えなくても必ず何かある。悪いことばかりでなく、良いこともある。けれど、老人にはもう何もない。死は必ずくるから急いで死ぬことはないのに、生きていても意味がないと考えてしまうのだろう。
金婚式を迎えた夫婦の川柳。「行き違い すれ違いつつ 50年」。
柱撫でゲタ箱撫でてバケツ撫で 微笑みながら 返せば喜寿だ