まるで漫談のような仏教講演会だった。それもそのはず、講師の上田紀行先生の従弟は落語家の小朝さんだという。東京の乃木坂の大きな屋敷が祖父の家で、父親と弟は土地を売り飛ばし、極道三昧な日々を送った。そして彼が2歳の時、父親は行方をくらました。
そういう家庭の事情を説明し、母親とふたり暮らしを余儀なくされたが、何かにつけて母親から、「こうなったのはおまえの父親のせいだ」と責められた。その重圧に耐えきれなくなっていた時、母親はアメリカで脚本を書くからと出ていってしまったと話す。
青春期の屈折した思いに苦しんでいた時、友だちに誘われてインドへと向かった。そこで、ダライ・ラマを知り、覚醒したと言う。生きていることは、楽しいこともあれば苦しいこともある。人は支えがあれば、自由になれると理解するようになったと語る。
ダライ・ラマは、松は松であり竹は竹である、松に竹になれと言ってもなれないし、竹も松にはなれない。松は松として、竹は竹として、生きていけばいい。これが自由であり、それぞれがそれぞれの場所で、生きることが縁起なのだと説いたそうだ。
そこはよく理解できなかったが、世界の高校生を数値化した表は面白かった。アメリカも中国も韓国も、自分には価値があると答えているのに、日本だけが無いと答えている。学校の成績を重視する日本は、テストの結果が悪ければ、頭が悪いと言われてしまう。
個人が持っている「力」は、全く評価されないのが日本である。高度経済成長を生きてきた日本の70代以上の大人は、個性を認めず、成績に評価を置いてきた。それが、今の高校生たちを歪にしてしまっているようだ。
日本の親は、テストで良い点を取って来ても、「やれば出来るんだから、もっと頑張りなさい」とか、「国語が出来ても、数学が出来ないとダメよ」とか言ってしまう。講演を聞きながら、孫娘や曾孫がこれから生きていく社会のことを考えた。
玄関ホールに、上田先生の著作がたくさん置かれていた。これは買わずには帰れないと3冊買った。読むことに抵抗は無い。さて、今日の講演の内容はどこに書いているのか、楽しみになった。
写真は徳円寺コーラスの仏教讃歌
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