今日は天候が悪いけれど、天気の良い日は樹木の紅葉がきれいだ。この辺りも街路樹が紅葉し始め、これからが楽しみだと思われた先月下旬から、街路樹の剪定が行なわれるようになった。ケヤキの並木はすでに多くの葉が落ちてしまったが、町の街路樹で一番きれいなナンキンハゼとトウカエデの並木はまだほんの少し色付いてきたばかりだった。ところがそのトウカエデが、色変わりもしないうちにばっさりと切られてしまった。続いて、変わりし始めたばかりのナンキンハゼが昨日、やはり裸にされてしまった。
私は、樹木は茂っていた方が好きなので、毎年剪定することはないのではないかと役所の担当者に尋ねたことがある。担当者の回答は「台風が来て、街路樹が倒れるのを防ぐためです」とのことだった。そのうち、余り台風が来なくなったためか、次第に剪定の時期は秋口から初冬へ移っていった。「落ち葉が多くて掃除が大変とか、落ち葉で滑ってけが人が出たらどうするのか、そういう住民の方からの苦情がありますから」と言うのが、今の担当者の回答だ。
街路樹の役割は大きい。地球のためにも、それは人間のためなのだが、緑化しようと呼びかけても家庭には植栽できる空き地がない。30坪や40坪の敷地では無理なのだ。街路樹帯は大事な緑化できる地帯である。それに火事が起きた時には延焼を防ぐ。寺にイチョウが多いのは火事から寺を守るためだ。そして景観である。人はやはり森に住んでいた過去があるためなのか、緑に包まれていると心安らぐ。紅葉していく様子や赤や黄の樹木を美しいと思う。
けれど、紅葉すれば落ち葉になる。誰が片付けるのかが問題になる。解決の仕方はいくらでも考えられるのに、手っ取り早く紅葉しないうちに切り落とす最悪の手段がヨシとされているのだ。馬鹿馬鹿しいけれど、これが人間社会の現実のようだ。そう思っていたが、それは日本の特徴であるらしい。どうも私たちは農作業を離れて、共同意識をなくしてしまったようだ。農作業はみんなが助け合わないとできない。だから、仲間に病人がでたり困っている者があったなら、みんなでこれを助けてきた。
西洋人は資本主義社会を早くから作り出したけれど、キリスト教までも破壊しなかったので、共同社会が残っている。日本は徳川幕府の崩壊とともに、仏教も力をなくし、戦後資本主義の高揚で薄かった共同意識は壊滅した。公のことは全て役所の責任でやれ!という意識が広がったし、役所の側からは自己責任と繰り返された。議員は次回の選挙で当選することばかりを考えていて質が悪いし、役所の職員は首にならなければいいとばかりに何もしない。
百年・2百年先の未来を考えて!とまでは言わないが、せめて20年50年先のことくらいは考え、何をしなければならないのか、どうすることが大事なのか、提案してもらいたいものだ。各自が自由に意見表明でき、活発な意見交換が行なわれ、多くの人々が納得できる施策に到達できることが一番望ましいのではないだろうか。そうすれば、街路樹の落ち葉もやっかいものと思われない日が来るだろう。
私は、樹木は茂っていた方が好きなので、毎年剪定することはないのではないかと役所の担当者に尋ねたことがある。担当者の回答は「台風が来て、街路樹が倒れるのを防ぐためです」とのことだった。そのうち、余り台風が来なくなったためか、次第に剪定の時期は秋口から初冬へ移っていった。「落ち葉が多くて掃除が大変とか、落ち葉で滑ってけが人が出たらどうするのか、そういう住民の方からの苦情がありますから」と言うのが、今の担当者の回答だ。
街路樹の役割は大きい。地球のためにも、それは人間のためなのだが、緑化しようと呼びかけても家庭には植栽できる空き地がない。30坪や40坪の敷地では無理なのだ。街路樹帯は大事な緑化できる地帯である。それに火事が起きた時には延焼を防ぐ。寺にイチョウが多いのは火事から寺を守るためだ。そして景観である。人はやはり森に住んでいた過去があるためなのか、緑に包まれていると心安らぐ。紅葉していく様子や赤や黄の樹木を美しいと思う。
けれど、紅葉すれば落ち葉になる。誰が片付けるのかが問題になる。解決の仕方はいくらでも考えられるのに、手っ取り早く紅葉しないうちに切り落とす最悪の手段がヨシとされているのだ。馬鹿馬鹿しいけれど、これが人間社会の現実のようだ。そう思っていたが、それは日本の特徴であるらしい。どうも私たちは農作業を離れて、共同意識をなくしてしまったようだ。農作業はみんなが助け合わないとできない。だから、仲間に病人がでたり困っている者があったなら、みんなでこれを助けてきた。
西洋人は資本主義社会を早くから作り出したけれど、キリスト教までも破壊しなかったので、共同社会が残っている。日本は徳川幕府の崩壊とともに、仏教も力をなくし、戦後資本主義の高揚で薄かった共同意識は壊滅した。公のことは全て役所の責任でやれ!という意識が広がったし、役所の側からは自己責任と繰り返された。議員は次回の選挙で当選することばかりを考えていて質が悪いし、役所の職員は首にならなければいいとばかりに何もしない。
百年・2百年先の未来を考えて!とまでは言わないが、せめて20年50年先のことくらいは考え、何をしなければならないのか、どうすることが大事なのか、提案してもらいたいものだ。各自が自由に意見表明でき、活発な意見交換が行なわれ、多くの人々が納得できる施策に到達できることが一番望ましいのではないだろうか。そうすれば、街路樹の落ち葉もやっかいものと思われない日が来るだろう。
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