友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

理性は自己保身の道具

2012年06月23日 21時33分19秒 | Weblog

 夏至の日は曇り空だったけれど、昨日も今日も夕焼けがとてもきれいだった。午後7時30分、西の空は真っ赤に染まっていた。太陽が一番北に沈んでいくのがよく分かる。ケイタイで撮ってみたけれど、何の変哲もないただの夕焼けでしかない。人の目で見たものと機械で写し撮ったものではこんなにもひらきがあるのかと思った。我が家の庭のデイゴが満開になった。毎年、寒い冬を乗り切れるのかと心配させられるが、今年も赤い奇妙な花を咲かせてくれた。

 中学からの友だちがブログに、評論家の中野孝次氏が『人生のこみち』というエッセイ集にある、「日常の意識をあるがままに正直に書く」と言葉を引用していた。私は読みながら、「日常の意識」とは何を指すのだろう、「あるがまま」とはどういう状態なのか、人は「正直に書く」ことが出来るのだろうか、そんなことを思った。大学に入ったばかりの頃だと思うけれど、中学からの友だちの何人かが中学からの友だちの家に上がりこんで、「人生論」を語り合ったことがあった。

 どんな議論をしたのか覚えていないけれど、私は自分の主張だけはよく覚えている。常識とは社会がつくり出した価値観で、それを規範とすることで無理なく秩序を押し付けることができる。理性は、自分が社会の中でうまく生きていくために自らがつくり出したものだ。したがって理性的とは自己保身と同意語である。理性的な者は自分を押し殺して社会でうまく生きていく人なのだ。人は決して本来の自分を世間に晒すことのない存在である。みんなで飲んだ後だったので、しかも深夜に長い距離を歩き、大自然の中の暗闇に身をおいていたので、私はちょっと興奮気味だった。

 「あるがまま」とは粉飾することのない「自然体」ということだろう。けれど、「あるがまま」の自分は醜い野獣で欲望の塊である。そんな自分を世間に晒して生きていけるはずはない。世間はそんな存在を許すはずはなく、分かったら直ちに袋叩きにされるだろう。生きていくためにはみんなと同じ姿をしていなければならない。常識と理性を持ち合わせることこそが、この世で生きていく道なのだ。もし、「あるがまま」に生きていたらなら、非常識で不道徳な、許しがたい存在であっただろう。人は多かれ少なかれ、こんな風に「あるがまま」の自分を隠してしか生きていけない。「日常の意識」などは決して人に自慢できるような美しいものではないからだ。

 だから、「正直に書く」ことは無理なことだ。誰かが読むとなれば、読まれてもかまわない文章になっていくものだ。秘密を明らかにする人はいるけれど、それは明かしたところで無害だからだ。仮にそうすることで誰かを傷つけることがあるような芸能人の暴露本などは、むしろ暴露することで生まれる事態を計算しているとしか思えない。松田聖子さんが3度目の結婚をするが、彼女は自分の欲望に正直な人だと言える。そこが松田聖子ファンにはたまらない魅力なのだと思う。自分にはできないことをやり遂げてしまう人は、羨望の対象にも批判の的にもなる。

 人は罪深き存在だ。だから絶対の存在である神に救いを求める。けれども私は罪深いまま生きることが自分の使命のように思った。どこまで生きられるか分からないが、生きていくことが自分に課せられた道だと思えた。まだ道半ばである。

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