友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

平等か不平等か

2010年10月16日 18時15分45秒 | Weblog
 カミさんが「日本オープンゴルフ選手権大会」をテレビ観戦していたので、私もしばらく一緒に見ていた。そういえば、チリ鉱山の救出の様子もよくまあ長い時間じいっーと見ていると感心するくらいテレビを観ていた。それもただ黙って観ているわけではなく、時々なんともすっとんきょうな声を上げている。確かに、チリの救出劇の時は、私も見ていて思わず涙してしまった場面が何度かあった。人は生きているだけで素晴らしいドラマだと思った。

 私はゴルフをしないので、プレイについてどうこう言う資格はない。同じ大きさのタマを同じように打って、しかし、同じ結果にはならない。そこがゴルフの面白さなのだろうか。カミさんはもちろん石川遼選手のファンであるけれど、その石川選手は昨日同じ歳のアマチュアと回り相手を意識しすぎたのか、今日は冴えなかった。アマチュアには負けられないという気持ちがプレッシャーになっていたわけだ。

 人間はいつも自分の周りの人を意識するように出来ている。うまくやりたいとかよく見せたいとか、そんな思いがつい自分の力量を超えてのしかかる。うまくいけば自信になるし、うまくいかなければ落ち込んでしまう。プレッシャーあるいはコンプレックスは、大きな力の元だけれど、その結果によってはせっかくの才能や素晴らしい性格までも潰してしまう。そんな時は、うまくいったならばひょっとしたら自分は天才かもしれないと思えばいいし、そしてうまくいかなかった時はまだまだ努力が足りなかったけれど、次のチャンスのためだと思えばいい。

 そんな自分に都合のいいようにばかり考えてとお叱りを受けるかもしれないが、飄々と生きることは、偉人にはなれないかもしれないが長生きする道ではないかと思う。ノーベル賞にかかわるテレビ番組で誰かが、「永遠の楽観主義こそが科学者の道」というようなことを言っていた。今年の受賞者に決定した鈴木章先生と根岸英一先生の恩師であるブラウン博士は「大きな樫の木も小さなドングリから」という言葉を残しているそうだ。誰もがみんな小さなドングリだった。大きな樫の木になることを目指してきた。それでいいと思う。結果は結果だ。

 「スケールの大きな人間がいない」と嘆く人もいる。私たちの前の世代なら「大きくなったら大将になる」が圧倒的であったそうだ。私たちの世代でも「大きくなたら野口英夫のような人」と偉人を上げていただろう。私も「貧困をなくしたい」と言っていた。今の子どもたちに「尊敬する人は?」と聞くと、「お父さんとお母さん」と答えるそうだ。夢が小さくなったのではなく、現実の尺度を理解していると考えた方が良いみたいだ。

 子どもは親の鏡。親の言うことを小さい時から聞いて育っている。テレビで「パイロットのリストラ」と聞いているのに、「大きくなったら飛行機の操縦士」とは言えない。大学を卒業しても就職口はないかもしれないという時代に子どもたちは生きている。これを不平等なのか平等なのか、決めるのは子どもたちだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« グリム童話の『寿命』 | トップ | 私たちが何をするかが大事なこと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事