友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ほどほどでいいじゃあないか

2010年08月22日 18時48分37秒 | Weblog
 朝、セミの声が聞こえなくなった。先週辺りからだろうか。今日は、昼間もセミの声はわずかだ。けれども暑い。暑くて何もしたくない。こんなカンカン照りの運動場で、少年野球クラブが練習をしている。子どもたちの元気な声に混じって、大人の「バカヤロウ!どこを見てるんだ!」とか「ナニをやっとる!」と怒鳴り声が聞こえてくる。運動場を見ると、子どもたちがコーチのノックを受けていた。こんな暑い時に大丈夫かと思うくらいに子どもたちは必死に動いているけれど、完璧には出来ないので、つい、大人は激を飛ばしてしまうのだろう。

 こんな日はほどほどでいいじゃあないか、と私は思ってしまうが、熱心な大人ほどノタノタした動きは気に入らないのだ。「根性を入れてやれ!」。そうおっしゃってもこの暑さの中でもう2時間もやっているのですよ。キビキビは無理です。私ならそう言い返したくなるところだ。それでも、怒鳴られた仲間をかばうのか、大きな声で「ハーイ!」とも「オー」とも取れる声がして、すぐにそれを全員が声を揃えて言う。明らかに、監督なのかコーチなのかの機嫌を損なわないようにとする配慮のように思う。

 そういえば中学校の時にも、私の反抗心を抑えるような配慮をしてくれた友だちがいた。あるいは、友だち同士の中で気まずいことが起きたりすると、その場を収める配慮を欠かさない友だちがいた。そうかと思えば、「えっ、何があったの?どうしたの?」と自分のこと以外には気が回らない友だちもいた。炎天下での子どもたちの練習を眺めていて、そんな昔のことを思い出した。

 それにしても、大人は子どもにとって絶対的な権力者だ。反抗するとか言い返すとかできない存在だとつくづく思う。その一番の権力者はやはり親だろう。親に逆らうなどということはとてもできない。できるようになるのは、中学生になってからではないだろうか。先生も反抗などはできない存在だ。何しろ教えるだけでなく評価という権限を持っている。監督やコーチも同じだろう。逆らえば、ぶん殴られるか、逆に何も教えてもらえなくなる。子どもは自分が大人になるまでは我慢しなくてはならない。どんな理不尽なことも耐えなくてはならない。

 大人である親は、もちろん教師や監督やコーチも、その権限に胡坐をかいてはならない。決して自分に逆らわない弱い存在に対して、権力を行使するのは気分がいいだろう。そのうちに、怒鳴っている自分が絶対者だと思うようになるのかもしれない。どんなに無理難題を押し付けても相手はできないのだから、ますます大きな権力者になってしまうのだろう。とんでもないことだ。自分と子どもにどれほどの差があるだろう。むしろ、子どもは無限の可能性を秘めている。子どもから教えられるようになってこそ初めて本当の教育者だ。子どもの特性や能力を引き出し、伸ばすことができるように力を添えてやるのが大人の役割だ。

 怒鳴って当り散らして、それで子どもがこの人についていこうという気になると思っているのなら相当に基準がおかしい。「子どもは叱らなければ育たない」と思っている親もいるけれど、間違ったことを教える場合でも殴る必要は全くない。力を振るってしまうと、自分が絶対者になってしまう。世間では小さな存在なのに、家では絶対者であれば、どうしても暴力的な支配者になっていく。困ったものだ。
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