友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

新婚旅行も家族旅行も富士山麓へ

2023年06月10日 18時00分24秒 | Weblog

 高校の文芸部の機関誌に、修学旅行を終えて初恋の人に「一緒に帰ろう」と話したのに、彼女と帰ることが出来なかった切なさを寄稿した。機関誌を探していたら,中学生の修学旅行を綴った『青い実の紀行文』が出て来た。

 4百字詰めの原稿用紙33枚を綴じたもので、表と裏は菓子箱を使い、3ケ所を紐で結んでいる。表には青色鉛筆で「青い実の紀行文」とあり、下に「1959.5.22~5.24」とあった。

 表紙を開けると、「1.5月22日という日」とあるから、3日間の様子を綴ろうとしたのだろうが、結果としては初日だけで終わっている。その書き出しは、「まだ、朝のすがすがしい匂いの残るプラットホームを僕達の汽車は、音も無くすべるように動き出した」で始まる。

 「車内では席を立たない」決まりだったのに、みんながあちこちへと歩き回ったことや、昼食は親が作った弁当を食べたことが続く。「まもなく汽車が富士川を越し、左手前の空に、ものすごく大きな富士山の中腹が見えた。僕は初めて見る富士山に心が躍り、その雄々しい姿に心を奪われ、じっと見つめたまま動けなかった」。

 富士駅で観光バスに乗る。「マイクを通して美しい声が流れてきた。後ろの席の男子は総立ちでガイドを見つめた。しかしその瞳は全く希望の無い、悲しげな表情だった。僕等の期待は破れ、背の低い、歳の多い、鼻が低くて大きな顔の見苦しい人ではないか。こんなに書くと人権蹂躙と言われるかもしれないが」と、滅茶苦茶なことを書いている。

 宿では、「3組は形式に縛られず、非常識な行動に出る者が多い」「部屋に戻ると、げんこつを作って壁を叩いている。楽しいぞ。隣りの部屋の女の子等と通信してるんだ。ガムやアメをもらったぞと言うので、僕達も夢中になった。あんまり張り切り過ぎて、壁の間にはめてある柱をはずしてしまう奴もいた」と。

 富士山麓は私に強い印象を与えたようで、新婚旅行も家族旅行も富士5湖巡りと決めた。

 

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気が付かないアホな男だった

2023年06月09日 17時23分16秒 | Weblog

 「恋多き男」と、中学の同級生に言われてしまった。実際は中学1年の終わりに、「付き合ってください」と告白した女の子に、高校3年の冬に振られるまで、「恋」が何かも分からないままに、ズーと彼女ひとすじだった。

 別れる時に彼女が言ったように、「あなたは、あなたが描いていた私に恋しているのよ」と言う通りだった。恋がどういうものか知りたくて、小説を読み、映画を観た。そして頭の中でストーリーを描いていたが、彼女とふたりだけで話したことは無かった。

 彼女の誕生日に、町の花屋から花束を届けたり、学校で彼女の姿を眺めて満足していた。そして彼女を想い、詩を文芸部の機関誌に発表したり、修学旅行記に彼女と一緒に帰ろうとしたことも書いた。全くのひとり相撲だったと、今は分かる。

 確かに中1の時、幼稚園・小学校と憧れていた女の子と同じクラスになり、「協力して欲しい」と手紙を出した。担任に呼び出され、叱られ、それで終わった。中3の時、転校する女の子から駅に来るように言われ、「私のリコーダー、あげる」と手渡された。

 高校の時、朝早くから音楽室でピアノの練習をしていた、ひとつ下の学年の女の子に魅かれた。でも、彼女にファンは多く、私はそのうちのひとりに過ぎなかった。だから、初恋の人以外に憧れる人はいなかったと言えばウソになるが、振り返れば一途な恋だった。

 ラブレターを送ることも、電話で話すことも無かったが、私は「恋している」と思い込んでいた。「恋」していれば、自ずと想いは伝わると。それなのに、高3の時、同じクラスに背が高くハムサムな男が、彼女のことを「好きだ」と言っているのを伝え聞いて焦った。

 ふたりで街を歩けば「不良」と言われた時代だ。高校を卒業すれば堂々と会えると思っていたのに、彼女からの通告は余りに残酷だった。「話し合わなければ、心は通じない」と、友だちに指摘されるまで気が付かないアホな男だった。

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またお呼びください。駆けつけます。

2023年06月08日 17時45分21秒 | Weblog

 朝、鷲津の彼女に電話した。「昨日はありがとう。車のバッテリーはどうだった?」と聞く。「ディーラーで見てもらったら、まだ取り替える必要は無いって。心配かけてごめんね」と言う。私のエンジンの止め方が悪かったために、バッテリーが上がってしまったから責任は私にある。

 ダンナを亡くしてから元気も無くし、「ボーとした日々を過ごしていたけど、昨日はとってもよく眠れた」と明るい声で言う。そして、「近くに住んでいたのに、あなたの家がそんなだったと知らなくてごめんね」と私の遍歴を聞いて、改めて感想を言う。「あなたもそうだけど、みんな本当に頑張ったのね」と。

 「多分、その時はみんな必死だったんだろうね。でも振り返ってみれば、結果として良かっただけで、流されて生きて来たんだと思う。結果良ければすべて良しだね」。またまた、昨日の話に花が咲き、「また、みんなで会いたいね」と言うから、「今年はクラス会もやるって言ってるから、すぐ会えるよ」と答える。

 彼女の結婚式のアルバムを見ていた時、1枚の短冊が出て来た(写真)。彼女のお父さんが書いたものだと言う。「ご亭主を関白様と崇めつつ 可可天下でお家安泰」。達筆なので文字が読めないが、きっとこんな歌だと思う。友だちが「これは狂歌だな」と言う。娘のことを思う父親の粋な短歌である。

     ダンナには仕え尽くしなさい、それでもかかあ天下なら、家はうまくいくし、良い家庭は繫栄する。私たち4人の同級生の家庭は、彼女のお父さんが願った通りになった。女性たちのダンナは先に逝ってしまったけれど、彼女たちの子どもたちは母親を心配し、ゆくゆくは一緒に住むと言う。

 ダンナに先立たれ、一時は落ち込んだ彼女たちも、持ち前の明るさとマイペースさで、充実した毎日を送っている。情けない男たちの分まで、きっと長生きすることだろう。私たちはぼんくらですが、またお呼びください。駆けつけます。

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最後にとんでも無いことになってしまった

2023年06月07日 20時18分54秒 | Weblog

 中学の時の同級生4人が集まった。何年ぶりの再会だろう。鷲津に住む女性のダンナが3月に亡くなり、みんなで慰めに行こうという話が、いろんなことから伸び伸びになり、今日になってしまった。天気予報では雨模様だったが、昨日からは一変しとても良い天気になった。

 男性は私の他に、大府と岡崎からが乗り込み、もうひとりは女性で浜松から来て、鷲津で落ち合った。駅に鷲津の女性が迎えに来てくれて、静岡名物の肉料理店で昼食をとった。名物というだけあって、愛知県ナンバーや岐阜県からの車もあった。味も値段もそこそこだったけれど、店員さんの応対はとても良かった。

 彼女の車が軽だったので、運転手を含めて4人しか乗れない。しかも彼女は腰を痛めていて長い運転は無理だったので、私が代わって運転をした。それが大変な事を引き起こしてしまうとは、その時は全く気付かなかった。彼女の家に上がり、アルバムを見せてもらい、昔話に花が咲いた。

 一段落すると、「中学を卒業してから、今日に至るまでの自分史を話して」と言うことになり、それぞれがこれまでどんな風に生きて来たのか、結婚のいきさつも含めて語ることになった。79歳(まだ78歳もいるが)にもなると、人の生涯は誰も順風満帆ばかりでは無いことがよく分かった。

 当たり前のことだが、みんな苦労してきたんだと痛感する。それでも結婚式の写真や新婚旅行、そして家族旅行、広がっていった親族の集まる記念写真など見せてもらうと、幸せな人生を歩んできたことが分かる。誰も不幸になることなく、今日まで生きてこられたことに感謝だった。

 ところがいざ、帰ろうとして車を動かそうとするが、エンジンがかからない。どうやらバッテリーが上がってしまったようだ。最後に乗ってキーを彼女に渡したのは私だ。同じホンダ車だからと思ったが、エンジンの止め方が間違っていたようだ。最後に、とんでも無いことになり誠に申し訳ない。

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いつか、満足な人生になるだろう

2023年06月06日 18時14分48秒 | Weblog

 尾張西枇杷島祭りの見せ場は、山車を回転させる「曲場」にある。屈強の男衆が前と後ろに分かれて、必死の血相で山車を動かす。観ていた人が「ヤクザみたいな連中ですよ」と、隣りの人に説明していた。祭りを盛り上げている大事な人たちを、そんな風に言うのかと情けなく思った。

 本人は面白おかしく表現したのだろうけれど、言った人の品位が疑われる。名古屋城の木造再建で、市民討論会が開かれたが、ビックリするような発言があった。討論会の場にいた河村市長は締めのあいさつで、「熱いやり取りが行われた」と言い、後になって「表現の自由は大切だが、人を傷つける発言を制止できなかった」と陳謝した。

 討論会は住民台帳から無作為に選んだ40人で行われた。河村市長は「名古屋城は史実に基づき復元するので、エレベーターは設置しない」と言う。車イスの男性が「エレベーターを設置しないのは、障害者が排除されているとしか思えない」と発言した。

 これに対し、「河村市長が作ろうするのは、エレベーターも電気も無い時代に作った城を再構築するもの。なぜバリアフリーの話が出るのか荒唐無稽。どこまでずうずうしいのかっていう話。我慢せよっていう話。お前が我慢せえよ」と発言。

 続けて、「エレベーターは誰がメンテナンスするの。どこの税金を使うの。その税金はもったいないよ」と同調する発言があり、会場からは拍手も沸き起こった。なるほど、得するならいいが、損するなら嫌だという人の本心が出ている。

 西枇杷島祭りの時、ビールが1本500円で売られていたので、「コンビニへ行って買ってくる」と言う。屋台の人たちも祭りを盛り上げるために来ているのだから、高いと思っても買ってあげるのが人情というもの。

 みんなで生きているのだから、みんなが幸せになれるように。困っている人がいれば、手を差し出す。みんなのためになることは、いつか自分のためにもなると信じていれば、たとえそうならなくても満足な人生にはなるだろう。

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祭りは中高生が圧倒的に多かった

2023年06月05日 17時22分37秒 | Weblog

 尾張西枇杷島祭りを観に行って、久しぶりに祭りを堪能した。祭りは美濃路を5台の山車がそれぞれの担当範囲を引いて歩くものだが、見せ場は方向転換を行う「曲場(まえば)」で、山車の担ぎ手の意気合わせにかかっている。

 長女のダンナと中2の娘は、山車に乗り込み横笛を担当していた。単純な音楽だがそのリズムで、山車が「曲場」に近づいていることが分かる。夕方からは山車に3段の提灯が何か所も取り付けられ、いっそう華麗になっていく。

 美濃路は古くからの街道なので、道幅が狭い。そこに屋台があり、山車が通り、人々が行き交うので大変な混雑になる。私は生まれ故郷の、刈谷の万灯祭りを思い出した。春は市原神社に何台かの山車が集まる静かな祭りだが、夏の万灯祭りはケンカ祭りと言われるくらい威勢がいい。

 狭い道を若衆が万灯を担いで舞い踊る。浴衣姿の女性たちが「キャーキャー」騒ぐ。西枇杷島祭りもたくさんの人出だった。女性たちは浴衣姿よりも、まるで裸のように肌を露出した姿で、胸や腕に入れ墨のシール(?)を貼った人もいた。

 よく見ると、中学生と高校生が圧倒的に多い。黒尽くめの服装の男が多かったが、ミニスカートでヘソ出しファッションの女もよく見かけた。私も中学生までは毎年、万灯祭りを観に行っていた。好きだった女の子に、出会いえないかと期待していた。

 祭りで中学生の男女が一緒にいたというだけで、当時なら指導部に呼び出されただろう。今は手をつなぎ、アイスクリームを食べ合い、素肌の腰や太腿を愛撫している。羨ましい限りである。昔の祭りは「無礼講」だったというが、そういう解放感を人は求めているのだろう。

 電車に乗って帰って来たが、祭りで見かけた中学生くらいの女子グループも同じ駅で下車した。この町からも祭りに出かけていると知って少し驚いた。長女が「中学生の時しか出来ないのよ」と、祭りを観ていて呟いたのを思い出した。

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男は死ぬまで女に甘ったれている

2023年06月03日 17時39分56秒 | Weblog

 朝からよく晴れていたから、ルーフバルコニーに出て作業に取り掛かった。植木鉢を運び出した時、割ってしまった鉢があり、ペチュニアの根が剝き出しになっていた。昨日は雨降りだったから出来なかったが、残っている鉢に植え替えてやりたかった。

 強い風に煽られたペチュニアの花は、萎れて枯れかけている。残っている鉢に植え直したけれど、元気になってくれるか心配だ。風が強くて立っていられない。1鉢植え直して、後は作業を諦めた。人にも花にも運命がある。やるだけのことはやった。

 「鉢は全部、運び出したの?」と、友だちから電話が入った。彼女のお母さんが亡くなり、「今は97歳のお父さんとふたり暮らし」と近況を伝えてくる。お父さんは車イス生活で、彼女の介護が無ければ生きていけないようだ。

 オランダ人と結婚した娘に男の子が生まれ、「とっても可愛いのよ」と言う。けれど、コロナ禍で会うこともままならないと嘆く。孫の可愛い盛りの時に、会えないババの苛立ちはよく分かる。「夏には会えるよ」と慰めてみる。

 どこの家庭も似たようなものだ。高齢の親を抱えれば、その介護で疲れ果ててしまう。けれど、子である以上はやれるだけのことはやらなくてはならない。走るのが早く、色白で、男子に人気があった彼女、白い肌が見たかった。今、どんな思いで暮らしているのだろう。

 まだ介護が出来るのだから、幸せである。介護される方はどんな思いなのだろう。中学の同級生が50代の頃、介護施設で働いていた時、入居の男性が「身体を触ってくる」と零していたが、男は死ぬまで女に甘ったれなのだ。

 明日は尾張西枇杷島祭りで、長女の中2の娘が町内の山車に乗るという。祭りの伝統が好きなダンナは、今ではすっかり地元に馴染み、地元に尽くしている。私たちも明日は、晴れ舞台を見に出かけるので、明日はブログを休みます。

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生活が満たされれば、心に変化が生まれる

2023年06月02日 17時49分54秒 | Weblog

 台風の影響で線状降水帯が発生し、朝から雨が降り続いている。昨日、思い切って植木鉢を運び出して本当によかった。けれど、ガランとしたルーフバルコニーに降り注ぐ雨を眺めていると、ちょっと寂しい気がした。

 残っている植木鉢を見てカミさんが、「これくらいはあった方が、何にも無くなるよりいいじゃーない。工事が終わったら、また始めたら」と言う。果たして私に、もう一度花の手入れをする気力が残っているのだろうか。

 作業をしている時は何も考えていない。花が咲いている状況だけを想像し、せっせと手を動かしている。絵を描いていた時も、構想が決まれば後はひたすら、いい絵になるようにと筆を動かしていた。

 自分の実績を残したいという野心は無かった。その時その時で、選択はしてきたはずだが、振り返ってみれば流されて生きてきた。周りからは、「逆流に抗して」生きてきたように見えるかも知れないが、それしか選択肢がなかった気がする。

 私が小学生の頃は終戦直後だったから、街には傷痍軍人や乞食が目に付いた。「どうして貧しい人がいるのか、みんな同じように暮らせないのか」と思った。キリスト教に関心を持ったのも、社会に目が向いたのも、そのせいだっただろう。

 政治家になるというより、社会の問題をみんなに知らせ考えてもらいたい、そんな仕事をしたいと思うようになった。地域新聞を作ろうとしたのは、生活のためであったが、地域に貢献したいためでもあった。

 生活に余裕が無ければ、花の世話など出来ない。街中を花で溢れさせようとするには、そこで暮らし人々が豊かでなくてならない。中国の昔の人は、「衣食足りて礼節を知る」と言ったが、まだまだ生活に余裕のある人は少ない。

 「国境を無くしても、人同士の差別や格差が無くならないと、本当の平和は訪れない気がする」とコメントをくださった人がいたが、生活が満たされていけば、心にも変化が生まれてくるのではないかと思う。

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人の和の無いところには活気も穏やかさも生まれない

2023年06月01日 18時42分52秒 | Weblog

 2時半にレンタカーを借りに行き、5時半前には返すことが出来た。総勢8人で、ルーフバルコニーの植木鉢を片付けることが出来た。私は多少の手伝いは出来たが、50代の力のある2人が主力になって頑張ってくれた。

 土の入った植木鉢はとっても重い。ルーフバルコニーから北の部屋に入れ、北の部屋から玄関先に出し、そこから階段で上まで運び、廊下を台車に乗せてエレベーターの前まで運び、1階の玄関ホールから借りて来たトラックの荷台へ。

 階段を歩いて運ぶのは大変さ作業だが、長女のダンナが「バケツリレーで行きましょう」と提案し、「ソレ、ソレ」と掛け声で運ぶ。私は心臓が煽ってしまい戦線を離脱したが、カミさんは意外にも力持ちだった。

 レンタカーのトラックと長女のダンナのトラックに積めるだけ積んで、公民館の玄関先へと運ぶ。ここで待っていてくれた4人と私たち5人で、植木鉢を降ろし、玄関先に並べていく。そしてもう一度マンションに戻り、残りの植木鉢と空にしておいた植木鉢をトラックに積み込んで公民館へと向かった。

 地域の人々へ回覧版で知らせてあったので、植木鉢を見に来た人たちがいた。「ワァーきれい」と言って手に取り、「本当にもらっていいの?」と聞いている。たちまち、何鉢かが持ち去られ、植木鉢のリサイクルイベントは盛況の兆しだった。

 人の和の無いところには、こんな活気と穏やかさは生まれない。人々が何の苦も無く、手を差し伸べ、汗を流してくれる。コミュニテーの原点を見た気がした。それにしても、運ぶという単純作業は、大勢の人の手が無ければ出来ない。

 50代の力持ちには感謝、感謝だが、高齢になっても他人を助けようとする友だちの皆さんにも本当に感謝したい。明日になって、「足腰が痛くて歩けない」、そんなことの無いようにと祈っている。

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