友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

孫たちが成人となる頃は

2024年04月20日 17時15分18秒 | Weblog

 昨夜、NHKのEテレで変わった番組を観た。男と女の物語というか、夫婦の物語というか、出逢いから始まって現在に至るまでを、ふたりから聞き出す番組だった。このカップルは女の方が年上で、企業家としても成功していた。

 マッチングアプリで知り合ったふたりは、意気投合して結婚し、やがて女の子が生まれた。けれど、男は女に頼ってしまい、仕事が出来なくなってしまう。女はこのままでは男のためにならないと決意し、ふたりは離婚する。

 相手に対する思いやりから、離婚するケースもあるのだと知る。けれど、離婚したから絶縁状態になるのかと思ったら、男は女の家の近くに住み、子どもを交えて旅行したり、近くの公園で遊んだりしていると言う。

 男には子どもの存在が、とても大きいようだ。「3人でお風呂に入る」と聞いてビックリした。離婚はしたが、男女の関係は続いている。でも、離婚した当初はふたりとも、自由なのだからと新しい相手を探そうとしたとも話す。

 ふたりが幸せなら、他人の私が言うことは何も無い。ただ、子どもが学校へ通うようになり、両親の関係を受け入れなくなることはないのかと心配だ。きっとふたりは賢く、そんな事態も乗り切っていくのだろう。

 それにしても、NHKらしくない番組に驚いた。しかもEテレでの放送である。NHKテレビが民放と変わらない番組作りになって来て、私は全く受信料を払う気がしない。NHKは、国営放送局であることに徹して欲しい。

 歌もドラマもバラエティーも要らない。政府が国民に、伝えなくてはならないことだけ放送してくれればいい。政府からの予算だけで、運営できる範囲でやるべきだ。今のNHKは、余りに手を広げ過ぎている。野党はなぜ問題にしないのか不思議だ。

 男と女、夫婦や家庭のあり方、当然、時代と共に変わるだろう。親子の関係も変わってきている。考える材料を提供してくれるのはありがたい。孫たちが成人となる頃は、どんな日本になっているのだろう。

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住民が集まって議論する場を

2024年04月19日 17時32分36秒 | Weblog

 最近、地震が多い。四国の愛媛県と高知県にまたがる地域で17日、マグニチュード6・6の地震が発生した。大規模地震である南海トラフに含まれる地域だけに、巨大地震の前触れではないかとマスコミも取り上げていた。

 気象庁も地震の専門家会議も、「兆候は見られない」との見解だった。しかし、政府もマスコミも「地震に備えよ」と号令するが、何をどうすればいいのだろう。家具の固定や水・食料の備蓄を行うことは出来ても、それ以上に何が出来るのだろう。

 地震は自然現象だから、予兆を掴むことは出来ても、現象を止めることは出来ない。地震が起きてしまえば、みんなで助け合うしかない。もちろん避難所の開設や、倉庫の整備や、万一に備えた区域の整理も必要だろうが、これは行政に任せるしかない。

 「備えよ、備えよ」と言い過ぎれば、不安を煽るだけになる。今日、市長に会って、「同年者の集い」への出席をお願いしてきた。時間があったのか、市長の方から「国は保育所を作れと言うけれど、保育士が足りないことには目を向けていない」と話された。

 「場当たり的で、先を見越したプランが無い」と腹を立てているのだ。「合併で財政は豊かになるはずだったのに、垂れ流しで何も改革していないから、火の車になっている」と嘆く。そうした事実を市民は知らない。公共施設の統廃合が進められているが、その原因や手法について明らかにされていない。

 若い市長は、この難題に立ち向かっていかなくてはならない。そのためには行政の持っている情報を公開し、市民と共に考える機会を設けることだろう。議会はまだまだ、古い地域エゴが蔓延っている。直接、市民に話しかけ、対話することでしか道は開けない。

 地震への備えも、みんなで議論することがカギだろう。市民と行政の協同も大事だけれど、議論することで生まれる相互理解こそが力になるだろう。古代ギリシアも、日本の江戸時代の村落も、住民が集まって議論してきた。人間はそんなことの、繰り返しの中で生きている。

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家に着いたら7時半になっていた

2024年04月18日 17時21分11秒 | Weblog

 中学3年の時の同級生が集まった。男3人、女4人、中学時代の思い出に話が弾んだ。中3のこの時、私たちの担任はまだ独身で、とにかくよく怒る先生だったらしいが、私にその印象は無い。先生は30歳になっていて、担任になってすぐに結婚した。

 結婚したのは、給料が上がったからと話してくれた。新婚旅行の写真を教室の後ろに貼り、1枚10円(?)で買ったことが思い出深い。私は副級長の女性と一緒に街の小物店に行き、ふたりでベニスの小舟のオルゴールを買って、先生にプレゼントした。

 「こうして集まれるのも、先生のおかげかも知れないね」と言うが、多分その通りだろう。私たちはよく、先生の自宅へ遊びに行ったから。短気なところはあったけれど、優しくて思いやりのある先生だった。

 「テレビを見ていたら、こんな言葉があったの。素敵でしょう」と、彼女が書いた短冊をみんなに配ってくれた(写真)。「人のつながりは 春の花のように 人生を色どってくれます」。

 出逢いこそが人生と、80歳を迎えてよく分かる。人生に彩を与えてくれた大勢の人たちに感謝したい。友だちはスマホのアドレス交換を、「こうするのでは」「いや違うよ」「じゃー、やってくれない」とか、夢中になって行っていた。

 スマホを持たない私はただ羨ましく眺める。一見すると皆、健康そうなのに、それぞれに問題を抱えている。夫を亡くした女ともだちは、娘が心配して同居やら近くに住むやらしてくれている。女ともだちは孫の好物の手作りに追われている。

 そうかそうか、みんなそれなりに幸せに暮らしている。「ねえ、これが最後かも知れないから、みんなで写真撮らない」と言う。「最後」と言うのに、「今度は何時する?幹事は決めていかないと」と、指名する。まだまだ元気だ。

 おしゃべりが止まらなくて、午後5時を過ぎてしまった。家に着いたら7時半になっていた。頂いた混ぜご飯を食べた。

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いい仲間との思い出に浸る

2024年04月16日 17時36分21秒 | Weblog

 80歳の誕生日を迎え、私は本当に幸せ者だと思う。人の幸せは出逢った人に由ると言うが、振り返ってみれば素敵な人ばかりだ。成功も挫折も経験したが、人生を放棄することはなく、己の道を歩んで来た。

 私の人生は、10年くらいで転機がやって来たが、いつも誰かと出逢い助けられた。一番似合っていて楽しかったのは、教師と地域新聞を発行していた時だろう。どこに居ても何をしていても、素敵な人に出逢うことが出来て、充実していた。

 岸田首相がアメリカの議会で、日米の結束を謳う演説をしていた。日本に居る時は歯切れの悪い岸田首相も、アメリカでは喜々としている。でも私は、日米の結束が軍事同盟の強化に特化されているようで不安だ。

 軍事力で平和を実現することは出来ない。日本はまだまだ貧しい国だと、実感する事件があった。東京のデパートで開催されていた「大黄金展」で、純金の茶碗(販売価格1040万円)が盗まれた。容疑者は32歳の男性で、父親とふたり暮らしだった。

 男は一人っ子で病弱、定時制高校を卒業し、北海道から上京して働くが長く続かなかった。そこへ父親も上京し、共に暮らし始める。生活は苦しくて、生活保護を受けていた。男は読書好きで、大学も行きたがっていたらしい。

 「食事は一日2食、朝は味噌汁とふりかけご飯、外食はせず、贅沢と言えば息子とふたりで、公園をブラブラして花を見ること」と父親は言う。息子は、「新幹線に乗ってみたかった」と話している。

 日本に、こんな苦しい生活をしている人がいる。いや、もっと惨めな生活を強いられている人もいるだろう。政治はこうした不幸を無くすことにあるのに、私腹を肥やす政治家が多いことに、怒りが沸き立つ。

 なのに私は明日、中学時代の友だちとおしゃべりに出かけて行く。いい仲間との思い出に浸るために。

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歓喜の涙が止まらない

2024年04月15日 18時07分32秒 | Weblog

 1971年卒業生の古希を祝うクラス会が土曜日に開かれ、傘寿となる私も出席した。名古屋栄のホテルで開催されたのだが、ロビーで待つ人を見ても同年配に思えてしまう。女性が「あれ、先生ですよね」と言って近づいて来た。

 一瞬、誰だっけと思ったが、ふたりいたカワイさんのユウコさんだと分かった。クルージングで南半球へ行っていると聞いていたが、間に合ったようだ。もうひとりのカズコさんは少し痩せていて、高校時代の溌溂さを失い腰が曲がっている。

 ハマコさんは相変わらず元気がいい。「今日のために我慢してきたんだから」と言いながら、ビールをグイグイ空けている。同級生で結婚したふたりは、相変わらず仲がいいところを見せてくれる。ちょっと反抗的だった人、上手い絵を描くと思っていた人、高校時代が思い浮かぶ。

 デッサン室でギターを弾き、歌っていた生徒とアウトローに思っていた生徒が会場で、作詞した歌を披露してくれた。「どんなに時が過ぎても 変わらぬものがある 春の陽射しの中で 君と出逢った日から 約束すれば良かった 今度いつ逢えるかと」

 こんなに、センチメンタルな詩が作れる人だったのかと胸が熱くなる。最後に司会者が「先生、前に来て」と言う。するとハッピーバーズデーが流れ、ハマコさんに花束を渡され、「先生、大好き」と抱きしめられた。

 歓喜の涙が溢れて止まらない。卒業生のみんなに祝福してもらい、お礼の言葉が出てこない。「先生に追いつき追い越すから、元気でいなくちゃーだめだよ」と激励してくれる。「まだまだ負けないぞ」と意地を張ってみせる。本当にありがとう!

 翌日の日曜日、昼に娘たちが、「80歳のお祝い」の会を開いてくれた。ここでも花束が用意され、孫たちがピアノを演奏し、みんながハッピーバースデーを歌ってくれた。ああ、私はなんという幸せ者なんだろう。思い残すことは何も無いが、もう少し頑張ってみよう。

 

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家や風習に縛られない「相互扶助」

2024年04月12日 17時43分15秒 | Weblog

 昭和46年3月卒の子どもたちも、71歳になる。彼らが古希を迎える時、私は喜寿の歳だったので、「古希と喜寿を祝うクラス会」が開かれる予定だったが、あいにくコロナ禍で延期になってしまった。それで明日、私の傘寿と彼らの古希を祝って、クラス会が栄のホテルで開かれる。

 私が教員になって2年目に、1年の担任となった時のクラスである。愛工高校のデザイン科は3年間同じクラスだから、青春時代を共に過ごしているので、結束は固く思い出も多いはずだ。私も教師とはいえ年齢も近く、共に作業したり、運動会で走ったりしていたから、仲間のようなものだったかも知れない。

 私が結婚した時は、祝いの会をデッサン室で開いてくれたし、新居だった江南団地にも遊びに来てくれた。ビートルズ世代の彼らは、実習室でギターを弾いて歌っていた。明日のクラス会で、今も音楽活動しているメンバーが新曲を披露するという。

 今朝、彼らと同じくらいの年齢(?)の、結婚した孫娘のピアノ教室の先生が、お菓子を持って来てくれた。私が脳梗塞になったことを心配して、元気でいるかと様子を見に来てくれたのだ。話していたら、今度行う「80歳の集い」の男性たちが、先生のファンであることが分かった。

 可愛くてちょっと子どもっぽいところが、私を含めて男性たちは放っておけないのだろう。ダンナはいないのだから、気軽に男性たちと付き合ってもよいのに、「何を言われるかわからないから」と、気を遣っている。女性の嫉妬が怖いのだ。

 私よりも歳上の、カミさんを亡くした男性が、親しくなった独り者の女性との結婚話を子どもたちにした時、息子は賛成したが、娘は「籍は入れないで、同棲ならいい」と言ったそうだ。入籍となると難しい問題も発生するが、同棲なら高齢者の恋愛も認められるかも知れない。

 家や風習に縛られずに、互いの気持ちを大切に出来る、そんな生き方が求められるだろう。凪良ゆうさんの小説に、「相互扶助」という言葉があった。明日と明後日、ブログを休みます。

 

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余りにも淋しい様子

2024年04月11日 18時21分17秒 | Weblog

 私たちが井戸掘りをするきっかけは、1995年に起きた阪神淡路大震災だった。仲間で宴会をしていた時、大震災の後、救援活動で神戸に出向いた者が、「飲み水はすぐ自衛隊が運んで来たが、顔を洗ったり食器を洗う水が無くて、大変だった」と話した。

 井戸掘りを経験したことのある仲間が、「この辺りなら水はすぐに出るから、井戸を掘ったらええ」と言う。それならみんなで、井戸掘りをやろうということになり、酒の勢いから「NPOにしないとダメだ。すぐに立ち上げよう」と意気込んだ。

 NPOの法人手続きは面倒だったけれど、難しくは無かった。それから17年が経ち、引っ越した人もいたし、仲間も歳を取り身体が動かなくなった人もいて、昨年9月に社員総会を開いて、解散を決議した。解散手続きはメチャクチャ手間取った。余りに法務局は不親切だと腹も立ったが、何とか終えることが出来た。

 井戸の必要性を訴えて、市に上申書も出した。地域のイベントにも積極的に参加し、地域に貢献する団体として認めてもらった。それがみんなの遣り甲斐でもあったが、歳には勝てなかった。仲間と一緒にいる時は元気だったのに、独りになってしまうと横の繋がりは無くなっていく。

 人は独りで生きているのに、独り切りは寂しいようだ。家族と話が出来るうちはいいが、家族からすると鬱陶しいジイジになってしまう。家に居ても孤独な存在で、テレビしか相手がいない。人は繋がりのなかで、生きているのだとつくづく思う。

 権力を持つと、何を言っても許される気になってしまう人がいる。つい、本音が出て、「バカだ」とか、「牛の世話しか出来ん」とか、見下げてしまう言葉を使ってしまう。最近はスマホがあるから、何でも録画・録音されてしまう。謝っても、後の祭りである。

 私の居る部屋の北側に、いつもハトが2羽止まっているが、今日は1羽で鳴いている。余りにも淋しい様子に同情してしまった。振られたんだろうか?!

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チューリップ畑と桜並木

2024年04月10日 18時14分04秒 | Weblog

 水曜日は天気もよく、晴れて風は無く、暑いくらいになると天気予報は伝えた。「じゃーあー、桜見に行こう」とカミさんが言うので、尾張地方の桜の名所を調べたら、岩倉市の五条川と犬山城が出て来た。さらに見ていると、一宮市の138タワーの木曽川沿いの桜並木がいいとある。

 138タワーには無料駐車場がある。帰りに、先回行った時に寄った、フランス料理の店でお昼を食べよう。それでも時間はあるから、稲沢市平和町の平和桜ネックレスの桜並木を見学する、そういう予定でどうだろうかと、カミさんに提案する。しかし、カミさんはジム仲間から聞いた「木曽三川公園のチューリップ畑が満開みたいよ」と言う。

 ならばまず、木曽三川公園に行き、途中で食事をして、桜ネックレスへ行くコースの方が良いと判断して出かけた。ナビに行き先を打ち込んだけれど、高速と下道の区別がつかず、新東名に乗ることが出来ずに、富田ICで降りて国道1号線を弥富へと向かった。隣りの厳しいナビさんが、「大丈夫?」とうるさく聞く。

 木曽三川公園は平日でもたくさんの人で賑わっていた。チューリップは今を盛りに咲いている(写真)。こんな景色を見ると、またチューリップ畑を再現したくなる。チューリップとネモフィネの組み合わせもいい。チューリップを背景に、恋人の写真を撮っている姿が微笑ましく妬ましい。

 道の駅『立田ふれあいの里』で昼食をとり、稲沢市平和町の日光川と須ケ川がV字に交わる堤の「桜ネックレス」へと向かう。駐車場はあるが狭くて止められない。仕方ないので近くの農道に駐車している車の後ろに並んで止める。こんなに立派な桜並木なのに、どうして駐車場が無いのだろう。

 チューリップ畑も桜並木も、圧倒的に私たちのような老人カップルが多い。外国人の若い女性が何組か来ていた(写真)。小さな子どもを連れた夫婦もいて、子どもは初めは桜に見とれていたが、そのうち退屈になってグズリ出していたので、思わず「キレイだよ」と声をかけてしまった。

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懐かしい昔を思い出して

2024年04月09日 18時08分04秒 | Weblog

 強い風が吹いている。陽射しが眩しい。この強風で桜の花は散ってしまったかも知れない。私が通った小学校にも桜が何木もあった。小学校の隣りにある城跡の公園は桜の名所で、「桜まつり」が開かれていた。入学した1年の時、「桜まつり」で描いた絵で表彰され、担任の女性教師は「この子はピカソになるかも知れない」と言って、母を喜ばせた。

 私はピカソを知らなかったし、高学年になってピカソの作品を見て、イタズラ描きとしか思わなかった。兄貴の部屋で、アメリカの雑誌に載っていたダリの絵を見て身震いした。現実を超えた世界を描くなら、ダリのような絵を描きたいと思ってきた。けれど、絵描きにはなれなかった。絵よりも文字の方が合っていた。

 中学校に入学すると、小学校とは全く違っていた。テストの度に順位が廊下に張り出された。卒業した小学校から上位に入っている子は少なくて、いつも他の小学校の女の子がトップにいた。その子は中学校だけでなく高校もトップだった。同じクラスになったことが無かったので話す機会も無かった。

 その子と生涯に一度だけ、全く偶然だったのか農道のような細い道で出逢ったことがある。何を話したのか覚えていないが、かなりの時間見つめ合って話し込んでいた。彼女は小さくて痩せていたが、校内マラソンではいつも1位だった。継母に育てられたことが、何でも1位を目指す子になったのだろうか。

 目が大きくて可愛い顔立ちで、私の好きなタイプの子だった。大学4年の時、私は東京で働いていたのだから、お茶の水女子大に通っていた彼女を訪ねることも出来たはずなのに、全く私の頭には無かった。彼女より成績の悪い私など、相手にする訳が無いと思っていたからだろう。

 結婚して多治見に住んでいると、ウワサで聞いたことがあるが、元気だろうか。今では互いに高齢のジジババだけど、もう少し若い時なら出かけて行って会うことも出来たはずだったのにと振り返る。そして、バカだなー、過去は決して取り返せないのにと思う。中学からの友だちのブログを見ていて懐かしい、昔を思い出してしまった。

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社会の仕組みと支える人たち

2024年04月08日 17時48分32秒 | Weblog

 卒業生が持って来てくれた本の中に、百田尚樹氏の『ボックス!』があった。百田氏は日本保守党を立ち上げ、名古屋市の河村市長と共に共同代表を務めている人だ。河村市長は「表現の自由が理解できない人」であり、百田氏の主張にも私は賛成できない。

 しかし、どういう小説家なのかと興味を持った。『ボックス!』の帯には、”青春小説の金字塔 すべての「ヤンチャ坊主」たちへ”とある。主人公は大阪のボクシング部に所属する高校生である。「BOXは名詞は箱、動詞はボクシングをする」と注釈もついていた。

 『ボックス!』には百田氏の思想が根強く表れていた。ボクシングはただの殴り合いではない。純粋なスポーツなので、勝つために厳しい練習を重ねなければならない。ケンカに使ってはならないことになっているが、随所にケンカが出て来る。

 中学時代にいじめられ、その復讐のために、あるいは恐怖心を克服するために、ひたすらボクシングに打ち込む学力優秀な生徒と、運動神経が抜群で天才的な才能を持ちながら、アホばかりしている8冠を狙うその友だちが主人公である。

 確かに胸踊る青春小説であるが、太宰治のひ弱さも宮沢賢治の優しさも無い。勝つことだけを生きがいにする青春で良いのかと思えて来る。キリストの「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」も、釈迦のように自分を見つめる思想も無い。

 Facebookにこんな文章が載っていた。「若者が強盗するのも、男が街を歩いている女子大生の腹に蹴りを入れて1万円盗んだりするのも、若い女性がアメリカに売春ツアーなんかに乗ったりするのも、ホストの問題も、世の中が荒れているのも、自民党によって、日本がめちゃめちゃにされているからです」。

 なんという短絡的な発想かと情けなくなる。全てを自民党のせいにしても、何も解決しないだろう。社会の仕組みを作り上げることは大切だが、社会を支える私たち自身が変わっていかなくてはと私は思う。

 

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