友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

数独までに留めておいた方が無難か

2025年02月16日 17時45分23秒 | Weblog

 中日新聞の日曜版に「頭脳チャレンジ」の紙面があり、カミさんは数独に挑戦している。「すぐ解けるから、あなたもやったら」と誘ってくれるが、「クイズは得意じゃーないから」と、遠慮している。「じゃー、こっちの文字の問題なら出来るんじゃーないの」と言う。

 「分かった。一緒に考えるよ」と言ったものの、タテのカギが1つ、ヨコのカギが2つ、答えられない。「症状は軽いのですが、つまったりぐずぐずしたり」と、「特別なこと。~の待遇」そして「~問、~所、困~」の3つが分からない。

 カミさんが、「友だちは皆さんやっている」と言うので、「じゃー、友だちに教えてもらったら」とお願いする。まあ、夫婦で一緒に考えたことが成果だったのかも知れない。私が行く理容店のカミさんも数独に夢中だったが、女性たちは何に魅了されているのだろう。

 友だちから借りたハン・ガンさんの『菜食主義者』を読み終えた。一気に読めたのは、読まずにいられなかったからだ。友だちが「読んでいて、気持ちが悪くなった」と言っていたが、本当に気分が悪くなると言うか、恐怖のために早く読み終わりたかった。

 3部から成っていて、自分に合っている平凡な女と結婚した男の視点、次が女の義理の兄の視点、最後が女の姉の視点で書かれていた。視点と書いたが、視点と言うより内面の叫びなのかも知れない。

 人は夢を見るが、それは欲望であったり、願望であったりする。他人には分からない心の傷や、目には見えない思いであったり、自分自身よく分からないものに取りつかれたりする。願望が恐怖に変わることもある。

 そんな様子が逐次描かれていき、何が本当で何が虚構なのか、存在しているのかいないのかさえも判断がつかなくなる怖い小説だ。こんな本が書けるハン・ガンさんは、正常でいられるのかと心配になる。

 生きていくこと自体を考えさせられる点で、傑作なのだろうが、女性たちに読書を勧めてはいけない気がした。数独までに留めておいた方が無難な気がする。

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明日のシナリオは無い

2025年02月15日 17時47分45秒 | Weblog

 まるで春のように暖かな日だった。このまま春になるのかと思ったら、来週はまた寒くなると予報されている。子どもたちが運動場で野球の練習をしている。一方で、駆けっこに興じている子や、地面に何か描いている子もいる。

 何かを表したいのは、人間の本能なのかも知れない。紙があれば、幼い子もすぐに絵を描き始める。歌を聞けば真似して歌う。表現することは、自分を理解して欲しという本能なのではないだろうか。

 私は小1の時に描いた絵が賞をとり、担任が「この子は第2のピカソになる」と褒めたので、大学の先生の画塾に通うことになった。画塾では絵を描くよりも、ストーブで芋を焼いたり、近所の公園に出かけることが多かった。

 高校に上がり、理想と思っていた学びとの差に愕然とした。毎日新聞に「進学校は大学の予備校なのか」といった内容の「声」を書いた。新聞部に在籍し、校則の問題点を記事にしたがボツになった。それで、有志で金を出し合い新聞を作り、校門の外で配布した。

 文芸部の友だちに誘われて作品も書いたが、顧問から「独りよがり」と酷評だった。大学も新聞部に入った。卒業する時、友だちに誘われて、面接と論文審査だけの毎日新聞社を受けた。卒業制作はシュールレアリスムに感化された作品を描いた。

 文字ではあるものをあるがままに捉える新聞記事に惹かれ、絵画では心の情景を表すことに魅せられていた。ヌーベルバーグ映画を観て、映画監督になりたいと思った。日常を淡々と記録しているのに、そこに何か共感を呼ぶ映画を作りたいと。

 80歳の今、人生を振り返ると、私が主人公の人生はこんなものかと思う。誰も代わりの役が無い主人公なのに、映画のような感動は湧いて来ない。いやいや、人は皆、自分の人生をやり切っている、表現者だ。

 明日がどうなるのか、シナリオは無い。役者は自分勝手に演じればいい。けれど、ひとりで生きている訳では無いから、共演者のことも考えなくてはいい役者にはなれない。そう合点する。 

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年寄りには関係ないバレンタイン

2025年02月14日 17時25分43秒 | Weblog

 診察室に入ると、主治医の女性医師と目が合った。女医は色白で、口元はマスクで見えないが、首が細長く目がキレイだ。年の頃は、50歳前だろう。私は用意して来たリボンのついた小さな包みを、「バレンタインデーなので」と差し出す。

 女医は目を細めて笑顔で言う。「どういうこと?バレンタインは女の子が好きな男の子にチョコを上げるのよね」と、傍の若い看護師に念を押す。その時まで私は、好きな女の子にチョコを渡す日と思い込んでいた。

 先月の診察の時、女医の指先と私の指先が触れ、パッチと火花が散った。静電気による火花だったが、私には恋の火花としか思えなかった。ふたりは、結ばれている運命だったと悟った。その時から、バレンタインデーにチョコを渡そうと決めていた。

 高齢の男性が陥る妄想の世界を、小説にしたら面白いかも知れない。そんな幻想は夢の中だった。最近、よく夢を見る。早く眠りに就きたくて目を閉じているのに、いつまでも眠れない。夢を見ているのか、妄想しているのか、分からない時がある。

 友だちがハン・ガンさんの『菜食主義者』を貸してくれた時、「読んでいて、気持ちが悪くなった」と言った。まだ、半分ほどしか読めていないが、確かに怖くてゾッとする。架空の物語だと思うのに、こんな現実に出会ったらどうしようと恐怖に駆られる。

 先に読んだ『すべての白いものたち』とは大違いだった。小説の構造としては、いくつかの章が別々に展開されながら、繋がっていくという点で似ている。才能のある女流作家であることは間違いない。

 ハン・ガンさんの小説が頭にこびりついて、アホな妄想の世界が出来上がったようだ。チョコレートではなく、甘いキッスが欲しいと喚きたくなった。バレンタインキッスというフレーズが頭を過る。年寄りには関係ないバレンタインなのに。

 ちなみに私の主治医は男性です。トン、トン。

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この先の時代を想像することが出来ない

2025年02月13日 17時53分25秒 | Weblog

 人口減少が深刻化している。人間は、先に希望がある時は子どもをつくるが、希望が見えない時は子どもをつくらない。歴史はそれを教えている。NHK大河ドラマ『べらぼう』は、安定した江戸時代が背景だが、飢饉があり米騒動も起きている。

 田沼意次は事態を打開するため、産業を奨励した。田畑の開発や、新製品を作るように促し、物流を促進させた。そのためか、利益に預かろうとする商人らの賄賂が流行り、賄賂を受け取る悪人のイメージが強い。人は日銭が手に入れば物品を買うし、買えばさらに物品は量産される。

 東北の米沢藩の上杉鷹山は、小さな藩なのに多くの侍を抱えていた。関ケ原の戦いで西軍だったため、新潟から山形の米沢に追いやられたが、家来を温存したためだ。苦しい財政を克服しようと、田沼意次に習って(?)産業の振興に努めた。

 先日、ロシア経済の仕組みをテレビで見た。ウクライナとの戦争で、軍需産業は好景気となり、関連する事業も潤っていた。でも、そもそもその原資はどこにあるのか、疑問だった。結局、日本もそうだけれど、債権を発行し借金を先延ばしにしているのだ。

 景気がよくなり、物品が流通すればお金も回る。お金が回っていれば、人々の不満は起きない。産業革命で飛躍的に増産出来たイギリスは、世界の覇者になったように、どこの国の指導者も産業を奨励し、豊さを創りたいのだ。

 上杉鷹山の「為せば成る 為さねばなりぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は有名な言葉で、高校の時の教師が、私たち生徒に向かって言っていた。「そりゃそうだろう」と頭でわかっても、「あんたたちはそう言ってりゃーいいのだから気楽なものさ」と腹では反発した。

 でも、私たちの時代は「いつかはクラウン」と、先に希望があった。我武者羅に働いても何の苦も無かった。車を買い、家を建て、世界旅行を楽しむ、そんな時代だった。けれど今、孫や曾孫の時代を想像することが出来ない。

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子育てに振り回される孫娘

2025年02月12日 17時49分57秒 | Weblog

 孫娘がバレンタインチョコを持って、月1の見守りに来てくれた。孫娘には4歳と1歳半の男の子がいるが、上の子は保育園に通っているので、今日は下の子を連れて来た。上の子の保育園での発表会の動画を見せてもらったが、随分と大きくなっている。

 とても恥ずかしがり屋の子なのに、堂々と参加しているように見える。家ではママの傍を離れないようで、弟がママに近づくとパパの方へと追いやると言う。子どもはみんな、世話をしてくれるママが好きなのだ。

 この冬、上の子が保育園でカゼ菌をもらってきたようで、たちまち弟も感染し、孫娘はふたりの子の看病に明け暮れ、その為か、激しい胃痛と頭痛に悩まされた。オムツもとれない男の子ふたりの看病は、それは大変だっただろう。

 子どもたちが回復し、自分も病院で貰った薬を飲み、今週からは何とか平常に戻ったらしい。子育ては目が離せない。叱れば泣くし、腹が減れば泣く、眠たくなれば愚図る。見ている私たちの方が、子育ての大変さに振り回される。

 この4月からは、下の子も保育園への通いが始まるので、自分も病院勤めに戻ると言う。看護の仕事は昼夜を問わないから、転職も考えていたようで、婦長に相談したら、週5日の窓口業務にしてもらえたと言う。

 せっかく県立病院の看護師で働いているのに、辞めるのはもったいないとのジジババの思いが通じてホッする。看護師の仕事はどこの病院でも大変で、辞めていく女性は多いらしい。もう少し、働く環境とか給与とかに配慮があったらと、傍から見ていてもそう思う。

 今日は水曜日、ランチは以前、孫娘が連れて行ってくれたフレンチレストランに出かけた(写真)。ここは幼い子連れでも安心できる部屋がある。1歳半の曾孫はオモチャや絵本を取り出して、得意そうな顔をしている。赤子もどんどん成長していると実感した。孫娘もどこか、ホッとした様子だった。

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私もどこかへ出かけたい

2025年02月11日 17時27分47秒 | Weblog

 友だちが「中原中也の詩集、持ってない?」とメールして来た。本棚を探してみたが見つけられなかった。それで、「ボードレールの詩集と谷川俊太郎の詩集ならあるよ」と返事をすると、「見たい」と返信があった。

 今朝、持って行った。友だちは身体が不自由で、家の中にも手すりがあり、それを伝ってゆっくりと歩いて来る。「なぜ、中原中也の詩集が見たいの」と聞いてみた。「高校生の頃、みんなで読んで、いろいろ言い合ったじゃーない」と言う。

 確かに、私も好きだった。題名は忘れたが、とても自虐的な詩だった。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」。中原中也は京都で年上の女優に恋して、30歳そこそこで死んでしまった。

 華やかな舞台に上がることなく、生涯を閉じた悲運が、高校生の私たちの心を掴んだのだろう。「働けど働けど なお我が暮し楽にならざり じっと手を見る」と歌った石川啄木と共通するものを感じていた。写真で見るふたりは、痩せていて神経質な面影がある。

 そんな高校時代の話からグンと飛躍して、彼は今、スマホで古典などの作品を聴いていると話す。NHKで無料朗読が聞けるからと、私のスマホを操作してくれたが、「娘さんか、お孫さんにやってもらった方がいい」と言う。

 私の中学からの友だちも、新聞はもっぱらスマホで読んでいる。凄い時代になって来た。本や新聞が売れないのも当然だ。それでも私は本が読みたくて、彼の持っているハン・ガンさんの『採食主義者』を借りてきてしまった。

 家に戻るとスマホに女友だちから、「伊予ミカンが届いたから」と電話があった。寒い冬も終わりに近づいている。明日は孫娘が曾孫を連れて来る。いつまでも家に籠っていずに、私もどこかへ出かけたい。

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下帯姿の男たちが校庭で気勢をあげる

2025年02月10日 17時28分34秒 | Weblog

 「ワッショイ!ワッショイ!」と、威勢のいい声が聞こえて来た。今日は国府宮の「はだか祭り」、下帯姿の男たちが儺追笹を担いでやって来て、マンションの隣りの小学校へ入って行く。えっ、授業中なのにいいのかと観ていると、校長らしき人が挨拶している。

 子どもたちは体育館の渡り廊下に並んで、裸男を眺めている。裸男たちは運動場を一周すると、校舎に向かって「ワッショイ!」と声を上げる(写真)。校長がマイクで何か話しているが聴き取れない。

 校区の裸男たちがこうして学校にまで来るのは異例だが、校長と自治会との話し合いで何年か前から実行されている。地域の伝統行事である「はだか祭り」を、目の前で子どもたちに見せるのは、それなりに意義があるだろう。

 祭りは日本だけでなく世界中どこでも、憂さ晴らしの面がある。日頃の鬱憤をぶつけることで、不満を発散させる絶好の機会なのだ。ましてや、こんな寒い時に、裸でいるのだから全く普通ではない。

 地域新聞を作っていた時、私も裸男に同行したが、国道22号線を横断する時は、いつまでもグルグルと回って交通を遮断していた。警察官が注意するが、なかなか真っ直ぐに進もうとしない。まる渦巻デモだなと思った。今日のように晴れた日はいいが、雪が混じる時は本当に寒かった。

 昨年から、女性たちも参加できるようになり、儺追笹を手にして奉納する様子がニュースで報じられていた。女性たちも裸かと期待した男性もいたようだが、白衣に身を包んでいる。男女平等の世の中、参加できるようになったとはいえ、やっぱり限界はある。

 日本にどれだけの奇祭があるのだろう。寒い時期に、裸で行う祭りが多いのかな。裸男を眺めていた子どもたちもいつか、下帯姿になって練り歩くのだろう。風邪引かないようにと祈る。

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頭は老化し切っている

2025年02月09日 17時25分42秒 | Weblog

 風が止んで、寒さも少し和らいだ。カミさんは友だちとランチに出かけて行った。「車はあるから自由にして」と言う。家に籠ってばかりいるので、「出掛けてみたら」という意味かと思い、いつもの喫茶店に行くことにした。

 店はいつも通り老人たちの社交の場である。ひときわ大きな声で、年寄りの男性が年寄りの女性に話していた。「赤ん坊があんまり泣くので、その母親に『赤子を泣かせると罰が当たるぞ』と言ってやった。それでも泣き止まないから、『これで何か買ってやれ』と千円渡してやったら、ビックリしとったわ」。

 男性はどこかの社長のようだが、聞き手の女性は実にヨイショが上手かった。「凄いね。立派だね」と褒めるから、男性の話はどんどん広がっていった。二十歳そこそこで会社を立ち上げたとか、売り上げはウナギ上りで「カミさんに金で苦労させたことは無い」と話していた。

 「じゃー、奥さんはどうして離婚したの?」と女性が訊くと、「ああ、女だ。オレが次々に女をこしらえるから、初めは我慢していたみたいだが、とうとう怒って出て行った。まあー、困らないように金は渡してやったけどな」と自慢話が続く。

 余りにもうるさかったので、私は早めに店を出て、書店に行った。気になった岩波新書を探したが、岩波新書のコナーは無くなっていた。ヌード写真集とかエロい雑誌は増えているのに、売れそうに無い硬い本は置いても無駄ということか。

 新聞に紹介されていた芥川賞の受賞作『ゲーテはすべてを言った』を、作者の鈴木結生さんが「頭に次々と言葉が浮かんでくる」と、答えていたのに興味が湧いて買ったのに、まだ読めていない。文章は難しくないのに、理解が付いていかない。

 金原ひとみさんの『ミーツ・ザ・ワールド』も、なかなか読み進めない。若い作家の本に、私の頭が追い付かないのだ。喫茶店の老人の話は脈絡も無いのに耳に入って来るが、若い作家の文章は理解出来ない。どうみても私の頭は老化し切っているようだ。

 今日は「肉の日」と言う。いや、「福の日」と言う人もいる。わが家はどんな夕食なのか、楽しみだ。

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問題の解決はまだまだ先のようだ

2025年02月08日 18時09分54秒 | Weblog

 今朝7時過ぎ、カーテンを開けると銀世界だった。写真を撮ろうと急いでベランダに出てたが、寒くて手間取ってしまった(写真)。昨夜はゴーゴーと強い風が吹いていたのに、風は止んでいた。

 西側のルーフバルコニーには雪が積もっていたので、外に出る気がしなかった。昼間は時々強い風が吹いたが、雪にはならなかった。午後5時過ぎ、西の空に黒い雲が流れてきた。今晩も雪が降ってくるのだろうか。

 カミさんは車で出かけることに、悩みながらもジムへ出かけて行った。「決まった時間に決まったことをやらないと、落ち着かない」と自分に言い聞かせていた。格別やらなくてはならないことの無い私は、また吉本新喜劇を観て泣いた。

 ふと、人は何のために生きているのだろうと思った。生きていくために働くのか、働くために生きるのか、そう対立して考えるのはおかしいかな。生きていくことは働くことで、働くことは生きることではないか。

 私は中学生になった時から、高校を卒業するまで、ルーテル教会に通った。神は生まれて来る全ての人に使命を与えられていると教えられ、人生は自分の使命を探すことなのだと思った。

 けれど、実際に社会に出てみると、何も考えずに働かなければならなかった。働くことで家族と共に居ることが出来る。自分に与えられた使命など、全く考えることも無く生活に埋没して来た。

 人間の社会は矛盾に満ちているが、これも神が人間に与えた試練なのだろう。自ら考えて解決しなさいと言われているのだ。石破首相とトランプ大統領の会談は、和やかに終わったようだ。問題の解決はこれからになるのかな。

 明日もまだ寒さは続く予報だ。

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明日の朝は銀世界が見られるかな

2025年02月07日 17時21分53秒 | Weblog

 この地域も雪が降る予報だった。午前9時前、雪が舞い、瞬く間に銀世界になった。けれどそれは一瞬で、雪が降り続くことは無かった。午後4時過ぎ、西北の伊吹山の方を見るが、白く煙っている。今晩は雪が積もるのだろうか。

 まだ長女が、小学校へ上がる前だったような記憶だが、子どもたちに雪景色を見せてやろうと思い立ち、車で余呉湖の民宿を目指した。長浜から8号線を北上するとすぐ、雪で走れなくなってしまった。

 雪になることは覚悟していたから、タイヤチェーンは積んで来た。カミさんと子どもたちを車の中に残し、私は小雪の中でタイヤチェーンを巻き付ける。余呉湖の民宿はもっと雪に埋もれていて、雪国に連れて来たと実感した。

 子どもたちが大喜びするかと思いきや、「寒い、寒い」の連発で、雪景色を楽しむ様子は無かった。雪景色が見たかったのは、私だけだったのかと気付いた。母の実家は知多半島で、そんなに雪が積もることは無いのに、泊まった翌日の朝、外を見ると雪景色だった。

 その美しさが脳裏に焼き付いていたのか、誰でも喜ぶと思い込んでいた。それでも、娘たちはスキーが出来るようになると、盛んに雪山へ出かけるようになったから、ひょっとすると、余呉湖の民宿の雪景色が残っていたのかも知れない。

 テレビは豪雪の様子を映し、警戒を怠るなと報じている。雪国の人は大変だなぁと思いながら観ているのだから、呑気なものだ。自分に関係なければ、やっぱり他人事でしかない。そうした意識が社会を悪くしているのに、困ったものだ。

 雪国の観光地では、外国人のマナーが悪いと苦言を呈している。せっかく雪景色に感激し、はしゃいでいるのに、立場が違うとこんなものかと思う。外国人観光客でどれほど潤っているのか、そういう面も報道したらいいのに。

 だんだん西北の空が曇って来た。明日の朝は、一面の銀世界が見られるのかな。

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