【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第18号【三島由紀夫③】(三島由紀夫の誕生・直筆原稿)(蓮田善明)(花ざかりの森)

2017年03月14日 13時57分35秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年3月15日発行

《はじめての三島由紀夫③》
三島由紀夫のペンネームの誕生
                  永田 満徳

   一 三島由紀夫の筆名、ペンネーム

 三島由紀夫の「花ざかりの森」などの初期四作品の原稿が見つかった。長らく所在が掴めなかったものである。所有していたのは蓮田善明の長男、晶一氏、今は、くまもと文学・歴史館に寄贈されている。
 特に注目すべきは、「花ざかりの森」の署名である。本名の「平岡公威」と書いた後、二本の線で消して、「三島由紀夫」と書き直している。ちなみに、三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時から「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使っていたことになる。
 植木(現・北区植木町)の蓮田善明夫人敏子さん宅に蓮田善明のことを取材するために再三訪れた折に、敏子未亡人から直接三島由紀夫というペンネームは、「文芸文化」の同人たちが集合していた蓮田善明宅で決ったということを聞いていた。三島由紀夫と知り合いであり、蓮田善明のことを詳しく知りたいと言っていたことから蓮田敏子さん宅に案内した福島次郎は、すでに『剣と寒紅 三島由紀夫』(文藝春秋、1998.03)で、その折のことを「私が、座敷にお茶を持っていった、恰度その時、主人が、じゃ、三島由紀夫に決定しますが、みんな異存はありませんかと言い、賛成の拍手がおきておりました」と書いている。蓮田敏子さんは蓮田善明による「三島由紀夫」のペンネーム決定の場面を語っているのである。
私は私なりに、いずれ公に発表してみたいと考えていた。しかし、公にするには確証が持てないでいた。そこに、「花ざかりの森」の原稿の発見である。蓮田敏子さんの話と今回見つかった「花ざかりの森」の署名の跡とを総合して考えると、「三島由紀夫」のペンネーム誕生の瞬間を鮮やかに復元できる。
清水文雄の証言では、三島由紀夫はペンネームで発表することに難色を示していたということである、そのことから、「花ざかりの森」を「平岡公威」と署名したまま持参したと思われる。しかし、蓮田敏子さんの証言にあるように、蓮田善明が「三島由紀夫」に決定した後に、三島由紀夫はその場で、「花ざかりの森」の表紙に「三島由紀夫」と署名したのである。「平岡公威」から「三島由紀夫」への書き直しは、文筆家として「三島由紀夫」が誕生した瞬間を物語っている。蓮田善明が「三島由紀夫」という筆名、ペンネームの誕生に決定的に関わっていることは重要である。
ただ、「三島由紀夫」というペンネームそのものについては、由紀夫自身、「『文芸文化』のころ」と題する文章で「三島由紀夫という筆名は、学生の身で校外の雑誌に名前を出すことを憚って、清水教授と相談して、この連載が決ったときに作った」と述べていて、学習院中等科時代の恩師、清水文雄(五木村出身)が名付けたとされている。歌人「伊藤左千夫」の名前からヒントを得たとも、静岡県の地名である「三島」を用いたとも、電話帳からいい加減に選んだとも言われている。

   二 「花ざかりの森」と蓮田善明

 「花ざかりの森」は「文芸文化」に昭和十六年九月から十二月に掲載された。三島自身が「私はもはや愛さない」と全否定する作品であるが、一族の記憶が時を超えて共有される内容で、「追憶は『現在』のもっとも清純な証なのだ」という箇所に現実に手触りを感じない三島の性向がみられ、「生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととりあわせに」という終わりの部分に三島の遺作となった四部作『豊饒の海』のラストを思わせるような終り方となっているという見方もある。「花ざかりの森」は処女作にその作家のすべてがあると言えなくもない作品である。
「花ざかりの森」と言えば、蓮田善明が「文芸文化」の「後記」(昭和十六年九月号)で、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である」と紹介し、「この年少者の作者は、併し悠久の日本の歴史の請し子である」と持ち上げ、「全く我々の中から生まれたものであることを直ぐ覚った」とこれ以上ないほどの措辞で激賞している作品である。この文章は蓮田善明の名伯楽ぶりを示した点で特出される。
「『花ざかりの森』のころ」には「花ざかりの森」のささやかな出版記念会を灯火管制下に行っていることが書かれている。「先輩知友にはげまされた一夕の思い出があまり美しいから、私にはその後、あらゆる出版記念会はこれに比べればニセモノだと思われ、私のために催してくれるという会を一切固辞して、今日に及んでいるくらいである」と述べ、「集った客はみな、当夜そこにいるべき重要な客のいないことを残念がった。それは「文芸文化」の指導者ともいうべき蓮田善明氏である。この本の上梓をどんなにか喜んでくれたにちがいない」とまで言って、出征した蓮田善明の不在を惜しんでいる。三島由紀夫にとって、それほど「花ざかりの森」と「蓮田善明」とは深い繋がりがあるのである。

  三 みやびが敵を撃つ

 ところで、三島由紀夫が「花ざかりの森」の推挽に対する蓮田善明への恩義よりも深い繋がりを感じさせるものは古典に対する三島由紀夫の考えである。「『文芸文化』のころ』という文章の中で、蓮田善明の「文芸文化」第十六巻第十一号(昭和十八年十一月号)の「心ある言」を引用して、古典における「『みやび』それ自身が夷俗をうつ心であるから、『みやびある』というのがすなわち『こころあり』ということになり」と「みやび」が「夷俗をうつ」という蓮田善明の「みやび」論に理解を示して、三島の「大衆憎悪の念」はこの蓮田善明の「みやび」の教説に負うていると述べている。
そもそも、蓮田善明の無二の親友でもある清水文雄は蓮田善明が「みやびが敵を撃つ」と口にしていたことを明らかにしている。三島由紀夫は小高根二郎著『蓮田善明とその死』の「序」(筑摩書房、1970年3月。島津書房、1979年8月)で、蓮田の享年に近づくにつれて、蓮田の怒りの対象が「日本の知識人」であり、「最大の『内部の敵』に対する怒りだった」として、三島由紀夫自身が「蓮田氏の怒りは私のものになった」と言い切っている。三島はみやびの〈敵〉を「日本近代知識人の性格」に帰している。「突然啓示のように私の久しい迷蒙を照らし出した」とする蓮田の「死」そのものが「みやびが敵を撃つ」ことを実証してみせたと言わんばかりの筆致である。
昭和四十五年七月七日付「サンケイ新聞」夕刊に、このまま行ったら「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」(「私の中の二十五年」)と警世の言葉を述べて、その五ヵ月後に自死した三島由紀夫の根底には蓮田善明の「みやび」論が関わっているとみるのは私だけであろうか。
このように、「みやびが敵を撃つ」という蓮田善明の「みやび」論が「文芸文化」や「花ざかりの森」の懐旧の中から紡ぎ出されていることから、蓮田の「みやび」論がいかに三島由紀夫の脳裏に焼き付いていたかが理解できる。若き日の三島と蓮田との繋がりはこの「花ざかりの森」とそのペンネームの誕生だけにとどまらず、文学に対する考え方、処世に対する構えの源泉になっていることを指摘しなければならない。

   四 「みやび」論

 三島由紀夫が古今集の「力をも入れずして天地を動かし」の序文の言葉について、「今、私は、自分の帰ってゆくところは古今集しかないような気がしている。その『みやび』の裡に、文学固有のもっとも無力なものを要素として力があり」と述べている「みやび」の言説は決して政治的ではなく、むしろ反政治的である。戦前は行動の有効性、戦後は言葉の有効性を絶対化した点で全く同じで、古今集は「言葉の有効性には何ら関わらない別次元の志を述べていた」として、「古今集のとりこ」になっていることを告白している。
この三島由紀夫の古今集回帰を表明している「古今集と新古今和歌集」が昭和四十二年三月で、「『花ざかりの森』のころ」「『文芸文化』のころ」の文章も、昭和四十三年一月が初出である。この時期から政治的言動とともに、蓮田善明に対する言及が増えてくる。例えば、小高根二郎の雑誌『果樹園』に昭和三十四年から昭和四十三年まで断続連載された「蓮田善明とその死」によって、三島由紀夫の中に蓮田善明が再復活してくるが、その読後感を小高根に寄せて、三島は蓮田との「結縁」を確認している。三島の死の直前、文芸評論家で親友の村松剛に「蓮田善明は俺に日本の後を頼むと言って出征したんだ」(『三島由紀夫の世界』)としんみりとした口調で言っている。
 蓮田善明が関わる「文芸文化」や「花ざかりの森」に関する三島由紀夫の文章が蓮田善明の再復活と無関係ではなく、蓮田善明の「みやびが敵を撃つ」という「みやび」論と古今集への斟酌とが晩年の三島由紀夫の脳裏に分かちがたく結びついているのである。そういう中で、何より大切なのは、蓮田善明は「みやびが敵を撃つ」という内実を詳しく語らず逝ってしまったが、三島由紀夫の「みやび」論にしかと継承発展されているということである。そういう意味でも、三島由紀夫と蓮田善明との「結縁」が想像以上に深いものがある。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第17号【木下順二『風浪』②】

2016年12月19日 23時33分01秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

 NPO法人 くまもと文化振興会
2016年12月15日発行
〈はじめての木下順二③〉
 
  〜歴史のパラドックス=『風浪』〜
                          
永田 満徳

    一 〈生きる〉

『風浪』は、順二のいうところの「いろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩む」(『ジェーンズとハーン記念祭講演』)様子を描いた戯曲で、「まじめな若いインテリたち――士族の青年――が、ともかくも自分の生きる道を、いかに自分のものとしてとらえるかという課題に当面して闘っている姿」(「明治・大正とぼく」)に作者みずからを投影している作品である。「『風浪』は、神風連から洋学校の基督教徒の中にまで生きて行くべき道を捜しまわった」ものであると述べている文章(「『城下の人』の思想」)にしても、特に「一所懸命、誠実に、何かを追求している」、あるいは「生きるということを追求している」と〈生きる〉姿勢において佐山が主人公になったいきさつが語られている文章(「解説対談」『木下順二作品集Ⅵ』未来社)にしても、「生きる」という語彙が頻出するのは、『風浪』という作品がいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青春群像の劇であるからである。

    二 いかに〈生きる〉べきか

 従って、『風浪』はいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青年の群像が描かれているとみるべきである。
第一は、一途に〈生きる〉タイプである。洋学校の寮生の筆頭であり、〈ゼンス〉(ジェーンズのこと)の警護役も勤める林原敬三郎である。〈ゼンス〉の教えを遵守し、〈ゴットの力〉に対して少しも疑わない。敬神党の藤島光也もまた同じである。敬神党の精神の支柱である林桜園の教えを墨守し、〈直びの神〉を信じていささかの躊躇もない。林原も藤島も狂信的とでもいうべき人物で、佐山のように懐疑することをしない人間である。この両者はその一途さゆえに、前者はバンド事件に、後者は神風連の乱にかかわり、明治という時代に真っ向から立ち会うことになる。
第二は、時流に逆らわずに生きるタイプである。それは敬神党から自由民権運動に走った河瀬主膳である。実学党蚕軒の息子で有能な官吏である山田唯雄も新旧の混乱を生き抜き、どちらかといえば現実主義的で割り切った考え方のできる人間である。この両者は時の流れを機敏にとらえ、そうであるがゆえに当時としてはかなり前衛的な生き方を通した人物であろう。ただ、あまりにも現実主義的で体制に無批判的に従う山田のような人物ではなく、今日的に見ればむしろ体制を批判し、民主主義を先取りする考えを持った河瀬の方が魅力的である。
第三は、第一とも第二ともタイプを異にする、割り切って〈生きる〉ことのできない佐山健次のようなタイプである。ちなみに、(「『城下の人』の思想」 )という文章のなかで「割り切って片づけることができぬ人間」として石光真清を取り上げているが、佐山と真清との親近性を指摘できるが、それ以上に、割り切って生きることのできない人間への共感の深さを感じることができる。
 それにしても、佐山は『風浪』の登場人物のなかでは最も悩み多き人物なのである。河瀬のように先見の明を持ち、時代を切り開いて行く人物のほうがむしろ主人公になりえたはずだが、しかし佐山のような割り切って生きることのできない人間であったからこそ、当初主人公らしい主人公のいなかった劇の中で主人公として浮かび上がってきたと言えないか。登場人物のなかでモデルを背負わないで自由に描かれたのは佐山であったというのも当然である。
 作者によれば、佐山という人物は「『風浪』以来今までぼくが考えてきたとらえかたってものは、何ていうの、未来ってものを考えている個人ってものが、結局未来ってことを考えることによって、自己を否定しなければならないという、そういうことがらの積み重ねにおいて歴史というものは進むのではないか、推し進められるものではないか」(「解説対談」『木下順二作品集Ⅳ』前掲書)という考え方の「原基形態」として出てきているという。ここでは、順二の歴史劇というものがどのようなものなのかということが佐山を通して語られている。そこで注意したいのは、『わが文学の原風景』で触れている原「風浪」の執筆当時「自分というものを意識し出した」という記述である。その自覚が「ものを書く」(同)という劇作家としての自覚につながり、さらには最後の書き直しの時には「歴史というものを意識することができた」という歴史認識の萌芽に触れた「歴史について」(『労働運動史研究』一九六三)の記述に発展することになるからである。つまり、これら一連の発言や文章は、多年にわたる『風浪』執筆期間が劇作家の誕生をうながし、木下戯曲の特色である歴史劇の「自己否定によるドラマの創造」というものの端緒を把握するまでになったということを窺い知ることができる。こういう意味で、『風浪』は歴史劇の原点をなすものであることは言うまでもなく、木下文学のすべての起点をなすものである。

     三 歴史のパラドックス

 ところで、この木下の歴史観ともドラマ観ともいうべきものを捉えるために参考となるのが石光真清の父のことを「生活に根ざした」人間として評価している(『城下の人』の思想」)という文章である。この人物評は『風浪』の登場人物にも言えることである。河瀬主膳や藤島光也という登場人物たちの行動の原点が「生活に根ざした」ところから出ている。もっとも、河瀬の場合下から汲み取ったものの先見の明があり、藤島の場合下からの切羽詰まったものの逆行があるという違いがある。しかしこの違いを乗り越えて、この「生活に根ざした」生活者の視点こそが「風浪」という作品の魅力となっている。「人間が創造の中に参加している、しかし同時にその中で非常に多くの無駄と犠牲が払われてゆく、そういう両方からの関係として、歴史――具体的には近代の歴史、もっと具体的には後進国としての日本の近代化の歴史、それが必然的に含んでいる矛盾、二重構造、それをわれわれはどのように感じどのようにそれとあい対していったらいいのか」という文章(「歴史について」)は、〈無駄〉と〈犠牲〉を抜きにしては歴史の創造はありえないという考え方を表明している。この考え方の何より大切なことは、歴史の進歩が孕む負の面を視野に入れて歴史を眺めているということである。この歴史の負の面への注視は、「生活に根ざした」生活者の視点から生み出されていると言わなければならない。
 この歴史観を謎多き佐山の行動に当てはめて考えると、佐山の行為こそが〈明治の熊本〉が抱え込んでいた歴史の負の面を代弁するものであった。西郷軍に身を投じるという反動的ですらある佐山の行動の〈無駄〉、あるいは〈犠牲〉によってこそ、〈明治の熊本〉は日本の歴史の一断面を示すことになる。
第四幕で神風連の乱に加担しようとしたはずの佐山が神風連の乱に参加している藤島に対してその挙兵の無意味さを指摘したとき、その指摘は藤島に対してというより、自分自身に対してという感じが強い。原形『風浪』では題名が「神風連」であり、その内容は「神風連の努力は結局は空しいものだったということを一生懸命書いた」(「《座談会》歴史と文学)作品だという。ここに、原形「風浪」から流れている『風浪』の一主題があると思うのだが、神風連の努力の無意味さからいかに抜け出せるかという問題の解決が佐山の藤島を切るという行為であったと言ったら言い過ぎであろうか。佐山と藤島の関係で最も指摘すべきは、河瀬の言葉として「あの二人ァ子供の時からの……ひと頃は心ば許し合うとった仲ですけんな」とあるような設定になっていることである。佐山にとって藤島は自分の分身といえる存在で、そういう存在であるがゆえに、そういう藤島を切るということは、自分にとっては〈生きるための死〉であり、藤島に対しては〈代わって死んでくれる〉ものである。佐山は藤島のそういう身代わりとしての死によって、自分の生をつかんだのである。佐山の生そのものがいかに〈生きる〉べきかという『風浪』自身の問いでもあり、答えでもあった。佐山が「光也ば斬った。はっと思うた時ァもう斬っとった。とり返しのつかん事ばしてしもうた、俺ァ。……ばってん、その時俺ァ思うた。これでやっと道の開けた……」という台詞の意味は極めて重要である。この「道の開けた」という一言は、藤島を切るという行動を通して初めて、佐山が行動家に脱皮を遂げた瞬間を言い止めている。そればかりか、どちらかといえば非行動的なインテリの悪弊を抱え込んでいる佐山が思索家から抜け出して、歴史に参加するダナミックな行為者になったことを意味している。西郷軍に参加することは作者みずからも認めているように歴史の流れに逆行することであるが、行為者としての佐山からみると、「自分が正しいと思うものを追求して行く行為が、結果としては自分を否定する行為でしかない」(「序章」『ドラマとの対話』)という意味での自己否定であるならば、むしろ積極的に歴史の〈負い目〉〈犠牲〉の只中に赴くことで、歴史に寄与するという逆説、つまりパラドックスを歩むことになる。
いずれにせよ、佐山の存在こそは、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を示しているのである。順二が『風浪』を視野に入れつつも、歴史の進歩に対する絶えざる否定によってもたらされる〈『主体』の問題〉に言及し、〈主体〉の創造の問題を述べているところの「進歩的なものはますます進歩的であらねばならないが、それがつねに否定されることによって新しく進歩的なものをその中に作り出してくるということを内在させて問題をとらえなければ、戦後の現代というものはつかめない、というより、戦後の現代をつくりだすことができないと考えます。ただしこれだけだと否定のための否定のように誤解されるかも知れない。そこで『主体』の問題をもっと考えなければいけないのですが」(「歴史について」)という文章を踏まえると、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を佐山の行為に見ることによって、まさしく〈主体〉の問題がおのずから浮かび上がってくる。

四 自己否定による〈主体〉の創造

 順二自身が「西洋化ってことが熊本の場合には相対的に意義があった。学校党が旧藩時代を維持する。一方で右翼の神風連があるのに対して、横井小楠の実学党は、ジェインズの西洋至上主義といっていいかどうか――そういう考え方でことを進める意味があった」(『ジェーンズとハーン記念講演』前掲書)と熊本の人物関係を手際よく語っていることを参考にして言えば、〈西洋化〉を軸にして、実学党・敬神党は左右両極の存在として相対恃していることになる。歴史の事実からみると、実学党はその中間に当たり、むしろ敬神党と相対峙しているのは洋学校というべきであるが、しかしそれぞれ大なり小なり対立関係があったなかで、「“薩長土肥(=肥前)“に日本明治維新の主導権を握られた肥後として、“第二の維新”を自分たちの手でという、どういう意味かでナショナルな意識を底に持った動きであった。肥後人としての意識の限りで、それは反対の極に位置した神風連にも共通するものだったといえる。またそういう意味でこの意識は、熊本バンドの性格にも微妙な影を落しているといえる」(『熊本洋学校と札幌農学校』朝日新聞・一九七二・六・二六)と述べているように、〈自分たちの手〉という意識それこそが〈第二の維新〉という大義に邁進する青春群像の〈主体〉の有り様を表していた。
 このような青春群像のさなかにあって、佐山は佐山で変節漢と罵倒されながらも、学校党を起点として敬神党・実学党・洋学校と右から左へ渡り歩き、民権党にも接近する。そしてついには西郷軍に身を投じるかたちで歴史のパラドックスを体現しようとするその姿に、佐山自身の〈主体〉創造の有り様も見えてくる。奇妙な言い方だが、佐山健次の場合、〈主体〉を創造しようとするがゆえに〈迷う〉ように見えながら、〈迷う〉ことによって〈主体〉の創造を拒んでいると言ったらよいであろうか。反動的な西郷軍への参加という〈迷う〉ことからの脱出がまったき意味での〈主体〉の創造といえるかどうかの問題が残るにしても、佐山は安易な〈主体〉創造に走るのではなく、一処に留まろうとする〈主体〉を否定することによって、より高次な〈主体〉創造に赴こうとする、言わば螺旋的〈主体〉創造の象徴的な人物であるということができる。こう考えなければ、順二のいう「自己否定による〈主体〉の創造」という問題の意味は把握できない。この問題の根幹をなすものは停滞を嫌い、固定化を否定する、まさに〈迷う〉ことを是とする精神である。ここに順二の〈主体〉創造論のユニークさがある。
 従って、このような佐山の〈迷う〉軌跡を「学生劇団の仲間と妙義山や砂川の基地闘争に加わるうちに、キリスト教に代わる行動基準を自分のなかに見出したと信じきっていたぼくに、迷うことの意味を教えてくれたのが『風浪』の佐山建次だった」(内山鶉「木下・宇野コンビのもとで」月報十一『木下順二集2』岩波書店)と指摘する評が存在するのも当然である。この内山鶉が〈迷う〉ことそれ自体に「風浪」の価値を見出していることは注目すべきである。もちろん「私が感動したのは、彼がまよっている、つまり行動の方向を見いだせずにいることにたいしてではなく、そうした状況にもかかわらず、なおもそれを乗りこえて行動しよう、行動の方向を見いだそうとしているその姿にたいしてである」(「『戦後』の終焉」)という村山也寸志の踏み込んだ論があるとはいえ、「迷うことが恥とされる雰囲気のなかで、『そこから先はぼくにはわからない』といえることが正当な権利だとさえ思えるようになった」(前掲書)という内山鶉の文章は、〈迷う〉ことに対する率直な感動が告白されているだけに、〈主体〉の有り処に苦悩した「風浪」発表当時の時代状況を如実に物語っている。「風浪」はまさしく時代の刻印が鮮やかに刻み込まれている作品だと言える。

五 前史的な作品『風浪』

 順二は一九九五年五月三〇日・三一日の両日にわたる『風浪』の熊本公演に際して、熊本公演パンフレットのなかで、「この作品が、案外ルカーチのいう“前史”になっていたからかも知れないと、私は自慢していいのかも知れない。/ルカーチというのは一九七一年に死んだハンガリーの優秀な文芸評論家だが、彼は “すぐれた歴史文学は、過去を現在の直接の前史として蘇らせるものだ”といっている」と述べて、『風浪』に対して自信のほどをのぞかせているが、「専門劇団の場合は一切承諾しなかった。書き終えてすぐから、ドラマのとらえ方についての自己批判がこの作品にあったからであり、その点は今も変わらない」(「あとがき」『風浪』未来社)という自己批判の文章を知っているものにとって奇異な感じがする。
この自作に対するまったく正反対な評価を下した意味は、絶対的価値であったイデオロギーの終焉とその後に訪れた価値の多様化という現在の状況を抜きにしては考えられない。特にこの〈前史〉という言葉に注目するならば、『風浪』発表当時内山鶉を始めとして多くのものが〈行動基準〉を見出そうとして、あるものは政治に、あるものは宗教に走った歴史をかんがみて、ポスト・モダン以後の思想への懐疑、ないし思想混迷のなかでそれぞれの〈主体〉の有り様を模索するに至った現在の状況を踏まえて吐露された言葉である。つまり、『風浪』は時代を先取りした、いわゆる〈前史〉的な作品だという作者の自負を窺い知ることのできる言葉である。
 『風浪』の佐山健次の問題は現在のわれわれの問題である。
               (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第16号【向井去来『去来抄』】

2016年09月18日 22時53分45秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2016年9月15日発行
はじめての『去来抄』

〜「俳句」の淵源〜


永田満徳

夏目漱石が熊本に新派俳句をもたらして以来、熊本の俳句熱は盛んである。そもそも、漱石に俳句の何たるかを教えたのは正岡子規である。正岡子規は江戸期の月並み俳諧を否定し、松尾芭蕉の俳諧を高く評価して、俳句革新を行った。現代の俳句を理解する上でも、作句上でも、俳句の祖とも言うべき芭蕉とその蕉門の存在は無視することはできず、その淵源を知ることは極めて大切である。その手掛かりとして『去来抄』を取り上げてみる。向井去来は蕉門十哲の一人。肥前国(今の長崎市)に生まれる。
『去来抄』が去来の嘆息によって閉じられているのは実に興味深い。新風を興そうとの素堂の誘いに対して、「世の波、老いの波日々打ち重なり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ」と言って、多忙と老いの弱りを理由に辞退している。辞退理由の真偽は別にしても、素堂のすすめに応じられないみずからのこの態度に、「いと本意なき事なり」と述べていることはよほどのことであったろう。この言葉を最後にして筆を置いた去来の心境はどのようなものであったか。想像するにあまりある。
芭蕉は俳諧思想に関するものを一つとて残すことがなかった。芭蕉自身、蕉風なるものでさえ「五、六年たてば変化するもの」と考えていた。現に蕉風の変化という観点からみれば、門人たちの手からなる俳論書は少なからぬ数にのぼるということは、蕉風がそれぞれの門人たちに受け継がれたというよりも、多様化していったことを示している。この蕉風の多様化は拡散していく危険を伴っていたといっていい。従って、『去来抄』の執筆の動機については、門人たちが師風から離れてゆくのを危ぶみ、師の遺風を継承することにあったとする説が一般的である。
『去来抄』は向井去来の著した俳論書で、安永四(一七七五)年に刊行された。芭蕉の言動をかなり伝えた功績は大きく、芭蕉俳諧を全体的に理解するのに好都合な書である。内容は「先師評」「同門評」「故実」「修行」の四部に分かれていて、特に注目すべきは先師評である。先師評には「外人の評ありといへども、先師の一言をまじる物はここに記す」という但し書きがある。芭蕉の自句や門人の句に加えた評語を中心にして、門人間の論議であっても、芭蕉の言葉がまじるものは収めているのである。そこで、先師評をもとに、『去来抄』について考察すべき挿話がいくつかあるので、その思うところを論じてみたい。
例えば、「下京や雪つむ上の夜の雨」という凡兆の有名な句は、当初上五がなく、門人たちがいろいろと置いてみたが、結局は芭蕉がこの五字に決定したという。この句は、上五と中七の「取合」によって詩的リアリティが生まれている。芭蕉自身、「ほ句は、物を合すれば出体せり」(「去来抄」)と言っていることからも、この問題はないがしろにできない。しかしそれ以上に大切なことは、芭蕉がこの上五以外になく、「もしまさる物あらば、われふたたび俳諧をいふべからず」とまで言い切っていることである。俳諧はわずか十七音の言語表現であるため、一字一句を効果的に配合して初めて成り立つ文芸である。去来は「このほかにはあるまじとは、いかでか知りはべらん」と述べて、この一字一句の配合に自信を持って言える芭蕉に、師の言語陶冶の一つの達成を見ているのである。特に、其角の「此木戸や錠のさされて冬の月」の上五に関する一挿話もそうであるが、上五の「柴戸」か「此木戸」かの評価の問題で、芭蕉は「此木戸」の語がいいとして、「かかる秀句は一句も大切であれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」と命じたという。一句のためなら、選句集『猿蓑』の〈出板〉を差し止めてもいいというのは、経済的損失を無視してでも選句集を厳正にしたいという気持ちの表れである。「此木戸や」は「下京や」の挿話と同じく、「取合」の重要性もさることながら、一字一句もおろそかにしない芭蕉の厳正な姿勢がひしひしと伝わってくる。芭蕉の厳しさ、それは俳諧の厳しさと言い換えてもいい。
ところで、芭蕉の俳諧思想の中核をなすものが当時の御用学である朱子学であることは周知の事実である。芭蕉俳諧と朱子学との密接な関係について、野々村勝英氏は、「岩端やここにもひとり月の客」の条にも見られる芭蕉の「ことに風狂に関するかぎり、仏教的狂は姿を消し、直接的には朱子学的な発想に林註を媒介とする壮士の思想が加わって成立したもの」(「俳諧と思想史」『日本古典文学鑑賞 第三三巻 俳句・俳論』角川書店・昭和五二・一〇)とも述べられている。この〈風狂〉は一歩たりとも滞ることなく、新風を求め続けた芭蕉俳諧の原動力となったものである。父はもちろんのこと、兄や弟も朱子学者で知られ、そういう知的環境のなかで育った身であるならば、去来自身もまた生まれながらにして朱子学思想の素養の持ち主であったと考えられる。従って、この句に対する芭蕉の厳しい態度は同じ思想の持ち主である去来の心情に強く訴えかけてくるものであった。
芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」「海士の家は小海老にまじるいとどかな」の一条では、凡兆との比較論争で、「病雁を小海老などと同じごとく論じけり」と言って笑ったという挿話がある。この芭蕉の〈笑ひ〉の真意はつかめぬものの、少なくとも去来はこの芭蕉の〈笑ひ〉を後ろ楯にして自己の評価の正しさを示したかったのである。「病雁」の句を評価する去来の言い分としては、この句が「格調高く趣かすか」な心境句で、高邁な心を持っていなければ作れないものだということだろう。しかしここでむしろ注意すべきことは、句の評価の視点を精神性に置き、芭蕉の偉大さを強調しようとしていることである。去来の思想的資質がおのずから滲み出ているのである。「行く春を近江の人と惜しみけり」の条でも、この句の評を芭蕉に求められて、芭蕉の本情論に沿う答えをしたことによって、「汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり」と褒められている。もちろん本情把握論は当時の朱子学的世界観にもとづくものであるにしても、対象に観入し、宇宙の生命と感合することによって、自己の本性を明かにし、宇宙の生命を捉えるという儒家の「格物究理」の説を誰よりも弁(わきま)えていることを芭蕉に認められたと思ったことだろう。ここに朱子学という精神哲学を共有するものの自負として、芭蕉の句の真の理解者は自分であり、自分こそ芭蕉の直弟子であることを言外に表明しているのである。
この去来の態度は我田引水の感はまぬがれぬが、そういう自負があるゆえに、丈艸の「うづくまる薬罐の下の寒さかな」に対する芭蕉の評にまつわる最期の教訓の真意を伝えることができたのである。師の病床に侍る者たちの緊迫した状況のなかで、丈艸の句の情景一致の深さに対して、「かかるときは、かかる情こそ動かめ」と述べて感動を隠し切れないでいる。ここでいう〈情〉とは誠、真情の意と解するならば、去来は芭蕉が生涯求め続けきた儒学思想の誠をしっかと悟得しているのである。いわゆる不易流行とは対立した概念ではなく、誠の上に立脚し、誠を追求するところに生じるものである。この誠への不断の実践こそが芭蕉俳諧の神髄である。このように、去来は芭蕉の直弟子の意識のなかで俳諧の厳しさを述べることが『去来抄』執筆の目的であった。そして、この芭蕉俳譜の厳しさを伝える行為こそは、新風を興すことが『去来抄』執筆でしかなしえないと悟った者の取り得る唯一の方法であったといえる。
とはいっても、去来にとって〈本意なき事〉の〈本意〉とは、やはり新風を実作で示すことだったにちがいない。それは、芭蕉の後ろ盾によって二、三の新風を興せば「天下の俳人を驚かさん」という自負があったことからも類推できる。しかしそれ以上に芭蕉の身近にいて、なんら俳論書を残さず、実作で新風を絶えず作り出していった芭蕉の姿を目の当たりにしてきたからにほかならない。実作こそ俳諧の本道だとの思いである。従って、「いと本意なき事なり」という嘆息は、俳諧への情熱を喪失したものの嘆きでは決してなく、実作そのものから遠ざからざるを得ないものの嘆きである。『去来抄』執筆だけでは解消できない去来の無念さが否応なく伝わってくるのである。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会)

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第15号【首藤基澄「俳句」】

2016年06月09日 20時19分52秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2016年6月15日発行
はじめての首藤基澄「俳句」

~連想と直感による生の実相~

永田満徳

 首藤基澄は『己身』(平成五年十一月、角川書店、熊本県文化懇話会賞)などの句集を出している俳人である。その一方、『「仕方がない」日本人』の他に、多くの研究書を書いている文学研究者である。
 坪内稔典をして「近代文学の方法を俳句で実践した」と言わしめた首藤俳句について論じたいと思っていた。ここにその手掛かりを得ることのできる『わが心』(私家本)が上梓された。『わが心』は遺句集と遺稿集とで編集されていて、遺稿集は自注自解である。この書からは首藤基澄が目指す俳誌「火神」の「本会は写生を基本とし、直感・連想によって自然・生の実相にアプローチする俳句」の方向性がつぶさに見て取れる。
 「火神」の揚言に正岡子規が発見し唱えた「写生」を出発点に据えるのは、観念的で空疎にならないための、現代俳句を詠む場合の基本である。特徴的なものは「生の実相」という、何かと問われればすぐに答えられない言葉である。
 首藤俳句で見てみると、「櫨の実やこころにかかる煤のごと」の自注自解では「櫨の実」の「うす汚れた感じ」を「自分のこころ」と重ねられている。「孤寂なるいのち」とも言い換えられ、「私の生に密着した句」として提出されるところに最もよく特色がある。この「生」、あるいは「心」に依拠するのは、「日頃孤心に向き合い、他に頼らず己身が本尊と、自立して生きよう」とする姿勢から生み出されるものである。これが「生の実相」である。
 首藤俳句は「写生」の眼を通して、「生」と不可分の関係にある「心」、つまり首藤が研究の場で心掛けている「抓れば痛いわが身」の「直感」に呼応し、さらに「連想」の過程で反芻に反芻されて、ようやく一句が成り立つしろものである。首藤俳句の成り立ちを見たとき、句の背景に思い及ばなければ真の理解に至ることはできないことが分かる。
 その首藤俳句の背景としては言うまでもなく、文学研究で培われた膨大な素養である。例えば、

   油照り駝鳥の頭ぼろぼろに
   道遠く光雲像の髭の冷え

などは、高村光太郎研究の第一人者の面目躍如たる発想がある。前者は光太郎の有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」から得たもので、「夏の一番暑いとき」「じっと耐え、ことばを紡ぐ外ない」と述べられていて、句の背景が光太郎の詩であることが明らかにされている。後者は「道程」の詩を思い、「光太郎の苦難に満ちた道程を、この時私は論理的にではなく感覚的に捉えていた」と書かれていて、句の発想の原点が示されている。

   海苔巻に風のかたみの花樗

 福永武彦の小説『風のかたみ』の題名が句に詠み込まれて、福永武彦研究者として「『風のかたみ』には私の好みが反映している」と言い、三木露風作詞の日本歌曲「ふるさとの」の情感がからみ、句中の「風のかたみ」が「実存を意識させることば」であるというのである。小説『風のかたみ』が孕んでいる王朝ロマンの内実の重みを知ってこそ、この句を味わうことができる。

   遠方のパトス冬夜にしみる音

 福永武彦の『遠方のパトス』という短編小説の題が使われて、「パトス(情熱)に『遠方の』という修飾語が来て、静かに持続するかたちをとる」との見解が述べられている。首藤俳句を読み解くには、首藤の知的ワールドに肉薄できるだけの素養が必要であるということである。
 次に来る背景は、特に父を素材とした句群である。父の「意外な美意識」や父のタイプのことは、「父」の詞書のある「鎌の柄に振花結はへ立話」の自注自解に述べられていて、詳しくはそれに譲ることにする。文芸の世界では母恋こそすれ、父への思慕は極めて少ないので、異色である。

   独活の花父の投網は低く飛び

 父の「投網」の流儀への賛仰の句といっていい。「私も子供の頃やってみたいと思った」とあるように、子供心に宿っていた想いが蘇っているのである。

   峡を行く汽車鷹揚に父の稲架

 「鷹揚な父」への思慕が背景になっていることが印象深く刻み込まれる。この句の自注自解に「私の郷里は大分県大野郡大野町」として紹介されている。「父」と「故郷」とは分かちがたく結び付いているのである。
ところで、首藤が「連想」と同じく、「直感」を重視するのは、例えば「エロス」を感じる句に見られる。

   オートバイ黒き裸身を這ふ花片

「 オートバイ」を「裸身」と詠むのは、「オートバイの黒光りするボディのふくらみにエロチックな美を感じ、『裸身を這ふ』となった」からである。確かに「黒光りするボディのふくらみ」に「エロス」を感じる感覚は理解できる。

   しどけなき裸身や春の霜柱

 同じく「裸身」の措辞が出てくるこの句は独特である。この句の場合、「北外輪のミルクロードで見た霜柱に私はエロスを感じた」とあるように、直感的に「エロス」を感じる繊細で若々しい感性が窺える。
首藤俳句はそれこそ、全身全霊から描き出される「生の実相」であり、首藤ワールドを推し量り、鑑賞すべきものである。つまり、「連想」の背景と「直感」の手法が分かって初めて分かる俳句が首藤俳句ということになる。
俳句は一句で理解が完結するものである。しかし、一句に込められる詞藻の豊かな首藤俳句を理解するには、『我が心』「遺稿集」の自注自解は有益である。そのことを如実に教えてくれた功績は大きい。
                          (ながた みつのり/熊本近代文学研究会)

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第14号【蓮田善明・『有心』】

2016年03月17日 13時24分13秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2016年3月15日発行

はじめての蓮田善明『有心』
~阿蘇で掴んだ「純粋な生」~

永田満徳

一 略歴
蓮田善明は、明治三十七年七月二十八日、熊本県鹿本郡植木町一四金蓮寺に、住職慈善の三男として生まれる。地元の植木尋常小学校から県立中学校済々黌に進学すると、級友の丸山学(元熊本商科大学学長)等と回覧雑誌を作って、短歌・俳句・詩を発表し、文芸に親しむようになる。広島高等師範学校時代には、生涯の師斎藤清衛教授から強い感化を受け、国文学研究の指針を見出し、新たに校内会雑誌に評論を書き始める。岐阜二中学校・諏訪中学校の各校で教えたのち、昭和八年四月、広島文理科大学(現、広島大学)国語国文学科に再入学、研究紀要『国文学試論』を創刊して、池田勉の言葉(「文芸文化」創刊の辞)を借りれば、〈古典精神〉への信従・顕彰に努力する。それは、台中商業学校から成城高等学校に転任したとき、『文芸文化』を創刊することによって本格的な活動となる。このときからわずか五年ほどの間に刊行された著書は、『鴎外の方法』『予言と回想』『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事紀学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などがあり、死後には『有心』『陣中日記・をらびうた』などがある。これらの著書はいずれも、蓮田が成城高校在職のまま二度にわたって〈応召のさなか、肉体と血汐で探り当てた〉(小高根二郎)軍人にして文学者の思索の跡をとどめているものばかりである。
二 『有心』―純粋な生―
『有心』は、阿蘇の湯治場である宿に数日間宿泊したのち、阿蘇の火口を見るために登山を試み、火口の噴煙を目にしたところで終わる小説である。昭和十六年一月二十九日より一週間、阿蘇の中腹にある垂玉温泉に滞在した経験を踏まえている。
① 現実と自分との《ずれ》
阿蘇の温泉に赴くのは、「現実と自分との二枚の像が一寸ずれてゐてぴつたりと密着しない感じ」、つまり現実との違和感を覚え、静養をすることによって「体を作り直」すためである。蓮田善明が第一次応召で一年八カ月ぶりに帰還し、日本に上陸したとたんに、波止場で昏倒したという話からも類推できるが、〈死は文化だ〉と確認した戦場で培われた緊張の糸が内地の「もの倦い生活」によって断ち切られたことによる精神の変調だと考えられる。
② 『有心』の課題
ともあれ、この現実と自分との《ずれ》をどのように修復するかが『有心』の課題である。
その課題を解決するのに、散歩することもままならない狭い崖の上の宿は格好の場所だった。「火鉢に寄りついて、鉄瓶を眺めてゐるよりほかはなかつた」ところでの思索はもちろん自己の内部と向き合うこととなるが、しかしこの小説の「自分」はむしろ外部をよく観察し、精緻に分析する。この科学者的な眼差しに捉えられた物は徐々に現実と自分の関係を明らかにしていく。その一つが「障子」である。障子というものが外界と内界を隔てるものでありながら、内外の均衡を微妙に保っていることに気付く。それは「無」という概念にあやうく達するもので、現実と自分との関係について一つのヒントを得ることとなる。もう一つが浴客達の裸である。いうまでもなく、「皮膚」は障子における内と外との変奏である。浴客達の発育した肉体が「技巧の及び難い、天の作品であり、最も生きてゐる」のは、「天から与へられたものを純粋にはたらかせてゐる」からである。肉体それ自身が「純粋な生」そのものを謳歌しているようにみえる。この内と外を巡る思索の深化を手助けしているのが手遊びのために持ち込んだ鴨長明の「方丈記」やリルケの「ロダン」である。「方丈記」における隠遁が外界と関係を意識的に絶つことで、また「ロダン」における観察が外界の実体を浮かび上がらせることで、「純粋な生」といったものが導き出される。障子にしても、裸にしても、内と外を超越したところに、この「純粋な生の充ち溢れる」世界が現出することの暗喩である。
③ 「純粋な生」
要するに、「純粋な生」とは技巧を加えない、本然のままに生きる生を指す言葉である。「末梢的な感覚」におびやかされる〈都会〉から抜け出してこそ可能になる世界で、阿蘇という〈田舎〉にのみ見出される世界である。『有心』が〈田舎〉の発見というテーマを持った作品であることは注目していい。その〈田舎〉を体現しているのはあの若い女である。湯船の中で誰に気兼ねすることなく遊ぶこの娘はまことに天真爛漫という他はない。まもなくのこと、許婚の戦死の報を聞いて、誰憚ることなく嗚咽する娘の姿に、「不思議な調和」を感じるのはこの娘が「純粋な生」を生きることの手本を示してくれているからである。その泣声を聞いて、「布団を頭からかぶると、ぶるぶるふるへる唇を噛んで咽び泣いた」のはまさしく娘の「純粋な生」に促されたことによる。そして、その「涙を拭つた」あと、「何か大きな軽さをふと覚えた」のも当然といえば当然である。
④ 阿蘇登山―《ずれ》の修復
自分の内部に取り込まれた「純粋な生」が涙となってほとばしり出たときに、阿蘇登山を思い付くのである。「純粋な生」を受け付ける場所として、阿蘇の荒涼たる風景と「激しい」噴煙ほどふさわしいところはなかった。この〈激しさ〉は自分と呼応するものであり、ここに至って、完全に現実と自分との《ずれ》は修復されるのである。
⑤ 阿蘇登山と戦場の一致
とするならば、現実と自分との《ずれ》は「末梢的な感覚」を持ち込まないかたちで、戦場の緊張をそのまま内地に持ち込むことによって解決したことになる。阿蘇登山の途中で戦場での感慨に耽ることからも理解できる。第二次応召の慌ただしい車掌室の中で推敲し、筆を置いたこともこの小説で掴んだ「純粋な生」が戦場と直結していることの何よりの証拠である。こう考えて初めて、保田輿重郎の「この作品を読めば、彼の自殺は当然とも考えられる」という直感の鋭さに思い至ることができる。
⑥ 『有心』のユニークさ
従って、「観念小説とはまつたく別の発想において、抽象とか思想とかいふものがどういふ状態で生まれるかを描かうとしてゐる」という桶谷秀昭の指摘を参考にするならば、『有心』という小説は〈田舎〉に見出される「純粋の生」を思惟的に追求し、思想にまで高めた作品だといえる。そこに『有心』のユニークさがある。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会)

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