俳句の骨法にかなった句集
三浦洋第一句集『逝く夏』論~
永田満徳
三浦洋第一句集『逝く夏』は、開業医として、日々命に関わる重要な仕事をしつつも、その医業に拮抗(きっこう)する、言わば余技としての俳句とは思えない純度の高さを持った句集である。
クローバーたつたひとりの陸上部
充分には整地の行き届いていない運動場で、陸上部員の少ない生徒が練習をしている情景である。ここには俳句の妙味である取り合わせが使われていて、クローバーの生えている静的な運動場で、動的でもある生徒のひたむきさが描かれている。こういう詩的センスのある俳句は頭脳明晰だけでは詠むことができない。
現役世代が多いことから、毎月第四金曜日に夕食を伴った勉強句会「幹の会」を行っている。「火神」の月例句会になかなか出られないので、彼にとっては唯一の句会である。その句会において、彼の俳句を身近に見てきた者の感想としては、最も感心するのは席題という、即吟の場における俳句の巧みさである。日頃句材にすることのない言葉を席題に出すことにしている。例えば、「ミックスジュース」「シナリオ」という席題では、
ひと息にミックスジュース卒業す
シナリオはいつも気まぐれ春日傘
などの、きらめきのある機知に富んだ句が披講されて驚かされることがしばしばである。この片仮名の席題でいい句を物にすることのできる者はそう多くない。洋俳句の用語は平易で、決して難しくない。しかし、用語は豊富で、その場に応じて臨機応変に使いこなされている。
種馬の眉に卯の花腐(くた)しかな
「種馬の眉」に季語として難しい「卯の花腐し」を持ってくるあたりの詩的センスは格別である。季語の取り合わせのうまさにしても、字余り字足らずに対する厳しさにしても、俳句の骨法をよく掴み、俳句の基本から外れることなく、規矩(きく)をはみ出ることがない。俳句の有季定型への信頼が洋俳句の真骨頂である。
夏逝(ゆ)くや山家の嫁の白き脛(すね)
俳句は「こと」よりも「もの」を詠むものである。「脛」に焦点を当てたこの句は「もの」を詠んだものであって、「こと」を詠んではいない。「脛」の白さを思う読み手が多くいる中で、「脛」の逞(たくま)しさを読むものがいるだろう。一切の私情が除かれているが故(ゆえ)に、読み手に様々な読みを可能にするのである。基本中の基本である季語の斡旋(あっせん)も見事で、「夏逝く」という季語の本情が即いていて、旅吟でもあろうか、旅をしみじみと惜しむ気持ちが表現されている。
みつうみの風まつすぐに蜻蛉生(な)る
「もの」を詠むことと関係するが、「答え」を述べないことである。そこに物足りなさを感じる読み手は想像力が欠けていると言わなければならない。「風まつすぐに」のすがすがしさが「蜻蛉生る」という生命の誕生のみずみずしさと呼応して、初夏の雰囲気が生き生きと伝わってくる。
近年の俳句界の傾向である切字「や」「かな」「けり」があまり使われていず、名詞が多用されているのも特色である。名詞だけで畳み掛けてくる手法は次の句に見られる。
教会の出窓に猫の日向ぼこ
「教会」「出窓」「猫」「日向ぼこ」はいずれも名詞である。名詞だけで表現し成功するためには、置かれる語と場が揺らぐことのないように配置することである。
駅弁の豆の煮崩れ秋時雨
俳句の五・七・五が三つのパーツで出来ていると考えることもできる。「駅弁」「豆の煮崩れ」「秋時雨」の措辞には句の冗漫さを生む同義語の入る余地などない。パーツごとにどの語を持ってくるかどうかで句の評価が決まる。洋俳句はその見本のような仕上がりを示している。三つのパーツを組み合わせる能力の的確性は医業の診察とも関係しているようである。患者の病状に対する診断の早さは定評がある。診断にもたつくようではいい医者とは言えない。
この句集の読後感がすっきりしていて、滋味ある思いをするのは、俳句の基本を忠実に守り、整った句柄の中に詩情がきっちりと納め込められているからである。そういう意味で、『逝く夏』は、俳句の教則本の例句として、初学の人を含めて、多くの方に推奨したい句集である。
【ながた・みつのり。俳人協会幹事】
三浦洋第一句集『逝く夏』論~
永田満徳
三浦洋第一句集『逝く夏』は、開業医として、日々命に関わる重要な仕事をしつつも、その医業に拮抗(きっこう)する、言わば余技としての俳句とは思えない純度の高さを持った句集である。
クローバーたつたひとりの陸上部
充分には整地の行き届いていない運動場で、陸上部員の少ない生徒が練習をしている情景である。ここには俳句の妙味である取り合わせが使われていて、クローバーの生えている静的な運動場で、動的でもある生徒のひたむきさが描かれている。こういう詩的センスのある俳句は頭脳明晰だけでは詠むことができない。
現役世代が多いことから、毎月第四金曜日に夕食を伴った勉強句会「幹の会」を行っている。「火神」の月例句会になかなか出られないので、彼にとっては唯一の句会である。その句会において、彼の俳句を身近に見てきた者の感想としては、最も感心するのは席題という、即吟の場における俳句の巧みさである。日頃句材にすることのない言葉を席題に出すことにしている。例えば、「ミックスジュース」「シナリオ」という席題では、
ひと息にミックスジュース卒業す
シナリオはいつも気まぐれ春日傘
などの、きらめきのある機知に富んだ句が披講されて驚かされることがしばしばである。この片仮名の席題でいい句を物にすることのできる者はそう多くない。洋俳句の用語は平易で、決して難しくない。しかし、用語は豊富で、その場に応じて臨機応変に使いこなされている。
種馬の眉に卯の花腐(くた)しかな
「種馬の眉」に季語として難しい「卯の花腐し」を持ってくるあたりの詩的センスは格別である。季語の取り合わせのうまさにしても、字余り字足らずに対する厳しさにしても、俳句の骨法をよく掴み、俳句の基本から外れることなく、規矩(きく)をはみ出ることがない。俳句の有季定型への信頼が洋俳句の真骨頂である。
夏逝(ゆ)くや山家の嫁の白き脛(すね)
俳句は「こと」よりも「もの」を詠むものである。「脛」に焦点を当てたこの句は「もの」を詠んだものであって、「こと」を詠んではいない。「脛」の白さを思う読み手が多くいる中で、「脛」の逞(たくま)しさを読むものがいるだろう。一切の私情が除かれているが故(ゆえ)に、読み手に様々な読みを可能にするのである。基本中の基本である季語の斡旋(あっせん)も見事で、「夏逝く」という季語の本情が即いていて、旅吟でもあろうか、旅をしみじみと惜しむ気持ちが表現されている。
みつうみの風まつすぐに蜻蛉生(な)る
「もの」を詠むことと関係するが、「答え」を述べないことである。そこに物足りなさを感じる読み手は想像力が欠けていると言わなければならない。「風まつすぐに」のすがすがしさが「蜻蛉生る」という生命の誕生のみずみずしさと呼応して、初夏の雰囲気が生き生きと伝わってくる。
近年の俳句界の傾向である切字「や」「かな」「けり」があまり使われていず、名詞が多用されているのも特色である。名詞だけで畳み掛けてくる手法は次の句に見られる。
教会の出窓に猫の日向ぼこ
「教会」「出窓」「猫」「日向ぼこ」はいずれも名詞である。名詞だけで表現し成功するためには、置かれる語と場が揺らぐことのないように配置することである。
駅弁の豆の煮崩れ秋時雨
俳句の五・七・五が三つのパーツで出来ていると考えることもできる。「駅弁」「豆の煮崩れ」「秋時雨」の措辞には句の冗漫さを生む同義語の入る余地などない。パーツごとにどの語を持ってくるかどうかで句の評価が決まる。洋俳句はその見本のような仕上がりを示している。三つのパーツを組み合わせる能力の的確性は医業の診察とも関係しているようである。患者の病状に対する診断の早さは定評がある。診断にもたつくようではいい医者とは言えない。
この句集の読後感がすっきりしていて、滋味ある思いをするのは、俳句の基本を忠実に守り、整った句柄の中に詩情がきっちりと納め込められているからである。そういう意味で、『逝く夏』は、俳句の教則本の例句として、初学の人を含めて、多くの方に推奨したい句集である。
【ながた・みつのり。俳人協会幹事】