【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第17号【木下順二『風浪』②】

2016年12月19日 23時33分01秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

 NPO法人 くまもと文化振興会
2016年12月15日発行
〈はじめての木下順二③〉
 
  〜歴史のパラドックス=『風浪』〜
                          
永田 満徳

    一 〈生きる〉

『風浪』は、順二のいうところの「いろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩む」(『ジェーンズとハーン記念祭講演』)様子を描いた戯曲で、「まじめな若いインテリたち――士族の青年――が、ともかくも自分の生きる道を、いかに自分のものとしてとらえるかという課題に当面して闘っている姿」(「明治・大正とぼく」)に作者みずからを投影している作品である。「『風浪』は、神風連から洋学校の基督教徒の中にまで生きて行くべき道を捜しまわった」ものであると述べている文章(「『城下の人』の思想」)にしても、特に「一所懸命、誠実に、何かを追求している」、あるいは「生きるということを追求している」と〈生きる〉姿勢において佐山が主人公になったいきさつが語られている文章(「解説対談」『木下順二作品集Ⅵ』未来社)にしても、「生きる」という語彙が頻出するのは、『風浪』という作品がいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青春群像の劇であるからである。

    二 いかに〈生きる〉べきか

 従って、『風浪』はいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青年の群像が描かれているとみるべきである。
第一は、一途に〈生きる〉タイプである。洋学校の寮生の筆頭であり、〈ゼンス〉(ジェーンズのこと)の警護役も勤める林原敬三郎である。〈ゼンス〉の教えを遵守し、〈ゴットの力〉に対して少しも疑わない。敬神党の藤島光也もまた同じである。敬神党の精神の支柱である林桜園の教えを墨守し、〈直びの神〉を信じていささかの躊躇もない。林原も藤島も狂信的とでもいうべき人物で、佐山のように懐疑することをしない人間である。この両者はその一途さゆえに、前者はバンド事件に、後者は神風連の乱にかかわり、明治という時代に真っ向から立ち会うことになる。
第二は、時流に逆らわずに生きるタイプである。それは敬神党から自由民権運動に走った河瀬主膳である。実学党蚕軒の息子で有能な官吏である山田唯雄も新旧の混乱を生き抜き、どちらかといえば現実主義的で割り切った考え方のできる人間である。この両者は時の流れを機敏にとらえ、そうであるがゆえに当時としてはかなり前衛的な生き方を通した人物であろう。ただ、あまりにも現実主義的で体制に無批判的に従う山田のような人物ではなく、今日的に見ればむしろ体制を批判し、民主主義を先取りする考えを持った河瀬の方が魅力的である。
第三は、第一とも第二ともタイプを異にする、割り切って〈生きる〉ことのできない佐山健次のようなタイプである。ちなみに、(「『城下の人』の思想」 )という文章のなかで「割り切って片づけることができぬ人間」として石光真清を取り上げているが、佐山と真清との親近性を指摘できるが、それ以上に、割り切って生きることのできない人間への共感の深さを感じることができる。
 それにしても、佐山は『風浪』の登場人物のなかでは最も悩み多き人物なのである。河瀬のように先見の明を持ち、時代を切り開いて行く人物のほうがむしろ主人公になりえたはずだが、しかし佐山のような割り切って生きることのできない人間であったからこそ、当初主人公らしい主人公のいなかった劇の中で主人公として浮かび上がってきたと言えないか。登場人物のなかでモデルを背負わないで自由に描かれたのは佐山であったというのも当然である。
 作者によれば、佐山という人物は「『風浪』以来今までぼくが考えてきたとらえかたってものは、何ていうの、未来ってものを考えている個人ってものが、結局未来ってことを考えることによって、自己を否定しなければならないという、そういうことがらの積み重ねにおいて歴史というものは進むのではないか、推し進められるものではないか」(「解説対談」『木下順二作品集Ⅳ』前掲書)という考え方の「原基形態」として出てきているという。ここでは、順二の歴史劇というものがどのようなものなのかということが佐山を通して語られている。そこで注意したいのは、『わが文学の原風景』で触れている原「風浪」の執筆当時「自分というものを意識し出した」という記述である。その自覚が「ものを書く」(同)という劇作家としての自覚につながり、さらには最後の書き直しの時には「歴史というものを意識することができた」という歴史認識の萌芽に触れた「歴史について」(『労働運動史研究』一九六三)の記述に発展することになるからである。つまり、これら一連の発言や文章は、多年にわたる『風浪』執筆期間が劇作家の誕生をうながし、木下戯曲の特色である歴史劇の「自己否定によるドラマの創造」というものの端緒を把握するまでになったということを窺い知ることができる。こういう意味で、『風浪』は歴史劇の原点をなすものであることは言うまでもなく、木下文学のすべての起点をなすものである。

     三 歴史のパラドックス

 ところで、この木下の歴史観ともドラマ観ともいうべきものを捉えるために参考となるのが石光真清の父のことを「生活に根ざした」人間として評価している(『城下の人』の思想」)という文章である。この人物評は『風浪』の登場人物にも言えることである。河瀬主膳や藤島光也という登場人物たちの行動の原点が「生活に根ざした」ところから出ている。もっとも、河瀬の場合下から汲み取ったものの先見の明があり、藤島の場合下からの切羽詰まったものの逆行があるという違いがある。しかしこの違いを乗り越えて、この「生活に根ざした」生活者の視点こそが「風浪」という作品の魅力となっている。「人間が創造の中に参加している、しかし同時にその中で非常に多くの無駄と犠牲が払われてゆく、そういう両方からの関係として、歴史――具体的には近代の歴史、もっと具体的には後進国としての日本の近代化の歴史、それが必然的に含んでいる矛盾、二重構造、それをわれわれはどのように感じどのようにそれとあい対していったらいいのか」という文章(「歴史について」)は、〈無駄〉と〈犠牲〉を抜きにしては歴史の創造はありえないという考え方を表明している。この考え方の何より大切なことは、歴史の進歩が孕む負の面を視野に入れて歴史を眺めているということである。この歴史の負の面への注視は、「生活に根ざした」生活者の視点から生み出されていると言わなければならない。
 この歴史観を謎多き佐山の行動に当てはめて考えると、佐山の行為こそが〈明治の熊本〉が抱え込んでいた歴史の負の面を代弁するものであった。西郷軍に身を投じるという反動的ですらある佐山の行動の〈無駄〉、あるいは〈犠牲〉によってこそ、〈明治の熊本〉は日本の歴史の一断面を示すことになる。
第四幕で神風連の乱に加担しようとしたはずの佐山が神風連の乱に参加している藤島に対してその挙兵の無意味さを指摘したとき、その指摘は藤島に対してというより、自分自身に対してという感じが強い。原形『風浪』では題名が「神風連」であり、その内容は「神風連の努力は結局は空しいものだったということを一生懸命書いた」(「《座談会》歴史と文学)作品だという。ここに、原形「風浪」から流れている『風浪』の一主題があると思うのだが、神風連の努力の無意味さからいかに抜け出せるかという問題の解決が佐山の藤島を切るという行為であったと言ったら言い過ぎであろうか。佐山と藤島の関係で最も指摘すべきは、河瀬の言葉として「あの二人ァ子供の時からの……ひと頃は心ば許し合うとった仲ですけんな」とあるような設定になっていることである。佐山にとって藤島は自分の分身といえる存在で、そういう存在であるがゆえに、そういう藤島を切るということは、自分にとっては〈生きるための死〉であり、藤島に対しては〈代わって死んでくれる〉ものである。佐山は藤島のそういう身代わりとしての死によって、自分の生をつかんだのである。佐山の生そのものがいかに〈生きる〉べきかという『風浪』自身の問いでもあり、答えでもあった。佐山が「光也ば斬った。はっと思うた時ァもう斬っとった。とり返しのつかん事ばしてしもうた、俺ァ。……ばってん、その時俺ァ思うた。これでやっと道の開けた……」という台詞の意味は極めて重要である。この「道の開けた」という一言は、藤島を切るという行動を通して初めて、佐山が行動家に脱皮を遂げた瞬間を言い止めている。そればかりか、どちらかといえば非行動的なインテリの悪弊を抱え込んでいる佐山が思索家から抜け出して、歴史に参加するダナミックな行為者になったことを意味している。西郷軍に参加することは作者みずからも認めているように歴史の流れに逆行することであるが、行為者としての佐山からみると、「自分が正しいと思うものを追求して行く行為が、結果としては自分を否定する行為でしかない」(「序章」『ドラマとの対話』)という意味での自己否定であるならば、むしろ積極的に歴史の〈負い目〉〈犠牲〉の只中に赴くことで、歴史に寄与するという逆説、つまりパラドックスを歩むことになる。
いずれにせよ、佐山の存在こそは、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を示しているのである。順二が『風浪』を視野に入れつつも、歴史の進歩に対する絶えざる否定によってもたらされる〈『主体』の問題〉に言及し、〈主体〉の創造の問題を述べているところの「進歩的なものはますます進歩的であらねばならないが、それがつねに否定されることによって新しく進歩的なものをその中に作り出してくるということを内在させて問題をとらえなければ、戦後の現代というものはつかめない、というより、戦後の現代をつくりだすことができないと考えます。ただしこれだけだと否定のための否定のように誤解されるかも知れない。そこで『主体』の問題をもっと考えなければいけないのですが」(「歴史について」)という文章を踏まえると、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を佐山の行為に見ることによって、まさしく〈主体〉の問題がおのずから浮かび上がってくる。

四 自己否定による〈主体〉の創造

 順二自身が「西洋化ってことが熊本の場合には相対的に意義があった。学校党が旧藩時代を維持する。一方で右翼の神風連があるのに対して、横井小楠の実学党は、ジェインズの西洋至上主義といっていいかどうか――そういう考え方でことを進める意味があった」(『ジェーンズとハーン記念講演』前掲書)と熊本の人物関係を手際よく語っていることを参考にして言えば、〈西洋化〉を軸にして、実学党・敬神党は左右両極の存在として相対恃していることになる。歴史の事実からみると、実学党はその中間に当たり、むしろ敬神党と相対峙しているのは洋学校というべきであるが、しかしそれぞれ大なり小なり対立関係があったなかで、「“薩長土肥(=肥前)“に日本明治維新の主導権を握られた肥後として、“第二の維新”を自分たちの手でという、どういう意味かでナショナルな意識を底に持った動きであった。肥後人としての意識の限りで、それは反対の極に位置した神風連にも共通するものだったといえる。またそういう意味でこの意識は、熊本バンドの性格にも微妙な影を落しているといえる」(『熊本洋学校と札幌農学校』朝日新聞・一九七二・六・二六)と述べているように、〈自分たちの手〉という意識それこそが〈第二の維新〉という大義に邁進する青春群像の〈主体〉の有り様を表していた。
 このような青春群像のさなかにあって、佐山は佐山で変節漢と罵倒されながらも、学校党を起点として敬神党・実学党・洋学校と右から左へ渡り歩き、民権党にも接近する。そしてついには西郷軍に身を投じるかたちで歴史のパラドックスを体現しようとするその姿に、佐山自身の〈主体〉創造の有り様も見えてくる。奇妙な言い方だが、佐山健次の場合、〈主体〉を創造しようとするがゆえに〈迷う〉ように見えながら、〈迷う〉ことによって〈主体〉の創造を拒んでいると言ったらよいであろうか。反動的な西郷軍への参加という〈迷う〉ことからの脱出がまったき意味での〈主体〉の創造といえるかどうかの問題が残るにしても、佐山は安易な〈主体〉創造に走るのではなく、一処に留まろうとする〈主体〉を否定することによって、より高次な〈主体〉創造に赴こうとする、言わば螺旋的〈主体〉創造の象徴的な人物であるということができる。こう考えなければ、順二のいう「自己否定による〈主体〉の創造」という問題の意味は把握できない。この問題の根幹をなすものは停滞を嫌い、固定化を否定する、まさに〈迷う〉ことを是とする精神である。ここに順二の〈主体〉創造論のユニークさがある。
 従って、このような佐山の〈迷う〉軌跡を「学生劇団の仲間と妙義山や砂川の基地闘争に加わるうちに、キリスト教に代わる行動基準を自分のなかに見出したと信じきっていたぼくに、迷うことの意味を教えてくれたのが『風浪』の佐山建次だった」(内山鶉「木下・宇野コンビのもとで」月報十一『木下順二集2』岩波書店)と指摘する評が存在するのも当然である。この内山鶉が〈迷う〉ことそれ自体に「風浪」の価値を見出していることは注目すべきである。もちろん「私が感動したのは、彼がまよっている、つまり行動の方向を見いだせずにいることにたいしてではなく、そうした状況にもかかわらず、なおもそれを乗りこえて行動しよう、行動の方向を見いだそうとしているその姿にたいしてである」(「『戦後』の終焉」)という村山也寸志の踏み込んだ論があるとはいえ、「迷うことが恥とされる雰囲気のなかで、『そこから先はぼくにはわからない』といえることが正当な権利だとさえ思えるようになった」(前掲書)という内山鶉の文章は、〈迷う〉ことに対する率直な感動が告白されているだけに、〈主体〉の有り処に苦悩した「風浪」発表当時の時代状況を如実に物語っている。「風浪」はまさしく時代の刻印が鮮やかに刻み込まれている作品だと言える。

五 前史的な作品『風浪』

 順二は一九九五年五月三〇日・三一日の両日にわたる『風浪』の熊本公演に際して、熊本公演パンフレットのなかで、「この作品が、案外ルカーチのいう“前史”になっていたからかも知れないと、私は自慢していいのかも知れない。/ルカーチというのは一九七一年に死んだハンガリーの優秀な文芸評論家だが、彼は “すぐれた歴史文学は、過去を現在の直接の前史として蘇らせるものだ”といっている」と述べて、『風浪』に対して自信のほどをのぞかせているが、「専門劇団の場合は一切承諾しなかった。書き終えてすぐから、ドラマのとらえ方についての自己批判がこの作品にあったからであり、その点は今も変わらない」(「あとがき」『風浪』未来社)という自己批判の文章を知っているものにとって奇異な感じがする。
この自作に対するまったく正反対な評価を下した意味は、絶対的価値であったイデオロギーの終焉とその後に訪れた価値の多様化という現在の状況を抜きにしては考えられない。特にこの〈前史〉という言葉に注目するならば、『風浪』発表当時内山鶉を始めとして多くのものが〈行動基準〉を見出そうとして、あるものは政治に、あるものは宗教に走った歴史をかんがみて、ポスト・モダン以後の思想への懐疑、ないし思想混迷のなかでそれぞれの〈主体〉の有り様を模索するに至った現在の状況を踏まえて吐露された言葉である。つまり、『風浪』は時代を先取りした、いわゆる〈前史〉的な作品だという作者の自負を窺い知ることのできる言葉である。
 『風浪』の佐山健次の問題は現在のわれわれの問題である。
               (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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