小室千穂論
日常への眼差し
永田満徳
小室千穂さんの新人賞受賞は我が子のことのように喜ばしい。ご両親坂本真二夫妻の結婚式の立会人を務めた縁で、千穂さんの成長の一部始終を見てきたからである。千穂さんが小学生の頃に参加した漱石カルタ大会や高校時代に書いた「山椒魚」の読書感想文の表彰式は私が関係した催しで、その会場で千穂さんに声を掛けて励ましたのを覚えている。
小学6年生の夏休みの宿題で提出した俳句「オルゴール鳴らしてみれば夏の唄」が草枕俳句大会に入賞したのを機に始めた俳句も今年で20年になるという。句歴の長さでは新人とは言えない。
坂本家は絆が強く、その結束力には定評がある。「未来図」には坂本夫妻だけでなく、千穂さん、高穂さんの二人の子供も入会している。「子供の日同じ親より生まれても」と言っても、そこは家族であって、「はふはふと女四代甘藷好き」とあるように、家族のよき風景がある。
自選句40句は、のっけからおもしろい句に出会う。
炬燵より出でし足あり雪女郎
炬燵から出ている「足」とは誠にユーモラスな日常の風景であるが、「雪女郎」との取り合わせによって俄かにおどろおどろしい内容に変容する。取り合わせの妙味を味合わせてくれる句である。
押入れに秘密基地ありこどもの日
洗濯機コロコロ木の実洗ひけり
娘に机買ふや勤労感謝の日
寒鴉家電各々音を出す
「炬燵」の句もそうだが、「押入れ」「洗濯機」「机」などの家財道具が数多く取り入れられていて、「家電」に至っては現代の家庭の風景がみごとに切り取られている。どの句も無機物の家財道具が生き生きと描き出されている。
子育て中心の生活では素材が限られることは致し方がない。千穂俳句は少ない素材に悪びれることなく、積極的に子育ての句材を取り込んでいる。
啓蟄や寝相の悪い子の隣
春夕べこねこね粘土飽きもせず
童謡はうろ覚えなり烏の子
花のごとむけたと吾子の青蜜柑
限られた現場から切り取られる子どもの姿態が実におもしろく詠み込まれている。子どものあどけなさがありありと思い浮かべられる。
ゆつくりとグミを嚙む子や冬に入る
寒明けて小さきちひさき手を伸ばす
火曜日の夕餉子の買ふ冷奴
折紙で終へたる吾子の夏休み
これらの句は子どもにべったりの子供俳句とは違う。子どものしぐさが適度の距離を置いて捉えられている。
春暁やいまだ見慣れぬ天井よ
雲の峰吾子には象に見えるらし
子どもの立場で詠んだ句はことに心惹かれる。子どもの純真な心に寄り添い、子どもの眼差しを共有している。確かに、子どもの視線に立てば「天井」も「雲の峰」も物珍しいものであろう。
ゴロンゴロン子宮の人の夜長かな
餅喰ひて乳やり寝ぬる産褥期
育児の日常を詠むにしても、少しも力むことない。自然に「ゴロンゴロン」「餅喰ひて」などと表現して、何とも言えないユーモラスな感じを醸し出している。
母の日やだいたいいつも仏頂面
自分自身を突き放しているところが小気味よく、「仏頂面」と言うのはなかなか勇気のいることである。
春塵やふくれつ面の母と娘よ
「母」の表情が「娘」に受け継がれているのが「ふくれつ面」だと詠み、何の衒いもなく言ってのける。千穂さんの人柄がよく出ている句である。
さて、一見すっとぼけた感じの詠みぶりでありながら、読み手に訴える俳句を作ることができるのは一つの才能であり、千穂俳句の特色である。
鰺の骨一人静かに取る昼餉
小春日やエコーに背骨だけ見せて
対象に溺れることなく、自己客観視した句である。対象を客観的に見る態度こそが単なる報告に留まらず、共感性の高い秀句を生み出している原因であると言わざるを得ない。
家庭の大変さを詠んだ句は正しく主婦として、母としての生活の真っ只中にいることを実感させる。
スーパーを東へ西へ年の暮
かにかくに乳飲ませつつ去年今年
「スーパー」にしても、「かにかくに」にしても、純然たる自然詠は一つもない。ここに小室千穂俳句の真骨頂がある。自然詠しか認めない俳句の世界の中で、日常生活をうまく取り込んで、しかも些末的な日常詠に終わらないところに、千穂俳句の未来がある。
「未来図」2018年7月号より転載