【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

中村ひろ子 新人賞四十句詠む

2019年06月22日 22時46分21秒 | 月刊「俳句四季」
中村ひろ子 新人賞四十句詠む

〜生の実相にアプローチする俳句〜

永田満徳

中村ひろ子さんは熊本大学文学部大学院卒である。専門は古典であって、厳密に言えば、首藤基澄先生の教え子ではない。しかし、学部のころから、近代文学専攻の吉田香緒理さんとのつながりの中で、熊本大学俳句会に加わっている。その後、ご主人の転勤の関係で、仙台、川崎、佐賀と移り住んだにも関わらず、「火神」との縁が続いたのはまさしく首藤先生への恩に報いることだったのである。
ひろ子俳句の特色はテーマのバリエーションの広さである。子供俳句から内面重視の俳句、時事俳句、父母を含む故郷俳句まで、幅広い素材を句にしている。

愚図る子の愚図も愛しや梅ふふむ
聖樹飾る娘いつしか伸びをせず

子への慈愛の眼差しが横溢し、娘の成長をしかりと捉える観察観が発揮されている。
内面を掘り下げた句は大学院で古典文学を研究したことの片鱗を窺わせるものである。

生身魂生者も死者も馳走する
五倍子の魂を染抜く着尺かな

「魂」は首藤先生譲りの使い方で、恩師の遺風をものの見事に受け継いでいる。この面への鋭い注視は批評となって表現される。

善意とはしるしばかりの額の花
心根も透けてきさうな夏衣

形ばかりの「善意」、薄っぺらな「心根」を見通す眼力には読み手を驚かせる。
ところで、故郷への思慕の念が迸る句の数々に心打たれる。

古里は遠くなりにし配り餅
大寒やお国言葉とすれ違ふ

他郷に住めば住むほど「古里」が恋しくなり、ちょっとした「お国言葉」が気になるのは致し方のないことである。

阿蘇噴火父母に灰降る冬日かな

阿蘇の麓とも言うべき菊池に「父母」を残していれば尚更である。
ひろ子俳句は「火神」の標榜する「自然・生の実相にアプローチする俳句」の実践者としての道を確実に歩んでいる。そういう意味で、首藤俳句の後継者たることを疑う余地がない。

「火神」58号より転載

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中村ひろ子 句集『ドロップ缶』

2019年06月22日 22時42分24秒 | 句集
中村ひろ子 句集『ドロップ缶』

〜人柄と一体化した俳句〜

永田満徳

『ドロップ缶』は平成9年から平成30年までの作品を収録した中村ひろ子さんの第1句集である。
中村ひろ子さんは熊本大学文学部の頃から見知っていて、首藤基澄先生を主宰とする熊本大学俳句会に参加していた学生の中では最も熱心であった。ご主人の転勤に伴って仙台、川崎、佐賀と移り住んだにも関わらず、首藤先生との縁によって「火神」との繋がりを保ち続けた。その結果、「一度手放した俳句」(あとがき)が句集という形で一冊に纏められたことは誠に喜ばしい限りである。
 ひろ子俳句については、すでに「火神」58号の特集で「生の実相にアプローチする俳句」と題して述べている。そこで触れた内容は『ドロップ缶』でも変わらない。
その特集では、ひろ子俳句の特色を「テーマのバリエーションの広さである。子供俳句から内面重視の俳句、時事俳句、父母を含む故郷俳句まで、幅広い素材を句にしている」として、ひろ子俳句は「『火神』の標榜する『自然・生の実相にアプローチする俳句』の実践者としての道を確実に歩んでいる」と結んでいる。

   小さき手でドロップ缶振る火の用心

掲句は句集の題にふさわしく、ひろ子俳句の良さを発揮した句である。

   盆祭若さは分をわきまえず

「火の用心」を真似て「ドロップ缶振る」幼子にしろ、若さのままに「盆祭」に興じる若者にしろ、それぞれの仕草、姿態を切り取って、写生の目の確かさを示している。

   金魚愛づ逃げ道あらば遮りて
   日脚の伸ぶ諸手挙げをる招き猫

両句とも俳諧味のある句である。「金魚愛づ」と言いながら、「逃げ道」を塞ぐことへの揶揄は「諸手挙げ」て客を招き入れようとする商魂たくましさへの皮肉の視点と似通うものがあり、人間観察の鋭さが垣間見える。

   春待つや簡単な顔持つ土偶

確かに、土偶は目、鼻、口だけでようやく人であることが分かる。当たり前の事実を句にしただけと見過ごしてしまいそうであるが、しかし「簡単な顔」と表現されると、かえって、土偶は無駄を削ぎ落した抽象的な現代彫刻に見えてくるから不思議である。対象を的確に把握する詠みぶりである。
 ところで、これまでの俳句でも充分にひろ子俳句の良さに触れることができたが、それ以上に、ひろ子俳句の真骨頂は次のような句に現れている。

   ばつた飛ぶ明日の東西失はず

に見られる向日性は言うに及ばず、
   春泥を蹴散らし西へ西へ行く
ますらをとなりたし猪の肉を食ふ
などの、「春泥を蹴散らし」てゆく姿は「ますらをとなりたし」という措辞に繋がり、男性的で、雄々しささえ感じられる。

   風死すや幽霊画見に上野まで
   春画見て吊し柿見て神田川
ともに絵画が素材であるが、「幽霊画」をわざわざ見に行く度胸の良さはこちらがいささか顔を赤らめる「春画見て」という措辞をいとも簡単に言ってのける大胆さと重なる。「吊し柿」と並置したことで、なんともおおらかな句になっているではないか。
このように述べてみて、浮かび上がってくる俳句の雄々しさ、おおらかさはひろ子さんそのものである。ひろ子俳句の良さはひろ子さんの人格、つまり人柄と一体化した句にあると言っていい。
今後は「自然・生の実相にアプローチする俳句」を踏まえることはむろんだが、テーマを絞り込み、ひろ子俳句の良さを引き出し押し出していくことによって、更なる飛躍が期待できるだろう。         

「火神」66号より転載

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