【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

俳句のレトリックとは何か ~漱石俳句と『肥後の城』のレトリック~

2024年06月15日 16時42分13秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化誌KUMAMOTO 第47号

NPO法人 くまもと文化振興会 2024年6月20日発行

 

俳句のレトリックとは何か

~漱石俳句と『肥後の城』のレトリック~

 

           「火神」主宰 俳句大学学長 永田満徳

 

はじめに

第十五回「文學の森大賞」の第一次選考委員の望月周が「心の表現に適う修辞を自覚的に探りながら、郷土・熊本への熱情を多彩な詩に昇華しており、強い印象を残す。」と述べて、永田満徳の第二句集『肥後の城』(文學の森、2021年)における「修辞」(レトリック)の効果を高く評価している。

私は「文學の森大賞」受賞の言葉(月刊「俳句界」2023年5月号)に、「夏目漱石の言葉とされる『俳句はレトリックの煎じ詰めたもの』に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、多様な表現を試みました。」と書いているだけに、望月周の選考評は我が意を得たりでうれしかった。

「レトリック」という語は修辞学、あるいは修辞法、修辞技法などと訳される。〈文彩〉、または単に〈彩〉。言葉の効果的な使い方や表現技法で、説得力や感情的な効果を高めるために使用される。比喩、擬人など、さまざまな技法がある。

 

1.漱石の俳句観 

熊本時代の漱石は俳人であった。

明治32年1月、〔子規へ送りたる句稿 その31〕の最後に、「冀くは大兄病中煙霞万分の一を慰するに足らんか」と書いている。つまり、漱石俳句全体の四割に当たる、熊本時代の千句余りの俳句は、病魔に襲われている子規の苦痛を添削によって軽減しようと配慮したのである。

夏目漱石の俳句観を端的に示すのは、寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年12月)のなかで、漱石の言として残っている言葉である。

○ 俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。

○ 扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。

そもそも、漱石のレトリックへの斟酌は俳句だけではない。修辞学者の佐藤信夫が漱石の文学作品においても、「並はずれた修辞的表現者だった」、「徹頭徹尾修辞的に書く、という散文は、漱石以後、《継承》されることがなかった」(『わざとらしさのレトリック 言述のすがた』(講談社学術文庫)とまで言い切っているほどである。

もともと、俳句の根本的なものは「写生」である。写生とは西洋画家中村不折に教わった正岡子規が俳句に応用したものである。写生が意味を持つのは、子規が長編時評「明治二十九年の俳句界」で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。

それに対して、漱石の写生観を「自然を写す文章」(『漱石全集』第25巻)に当たってみると、「自然を写す――即ち叙事といふものは、なにもそんなに精細に微細に写す必要はあるまいとおもふ。」「一部一厘もちがはずに自然を写すといふ事は不可能の事ではあるし、又なし得たところが、別に大した価値のある事でもあるまい。」といい、写生に必ずしも重きを置いてはいない。むしろ「自然にしろ、事物にしろ、之を描写するに、その連想にまかせ得るだけの中心点を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。」と述べ、「連想にまかせ得るだけの中心点を捉へ」ることを推奨している。「中心点」といい、「集注点」といい、「俳句のレトリック」を「扇のかなめのような集注点を指摘し描写」するものだという俳句観と同じである。ここでおもしろいのは、師の正岡子規に異を唱えるように、いくら写生に徹して「細精でも面白くなければ何にもならん」と言っていることである。

「自然を写す文章」は写生文についての言及ではあるが、俳句もまた、「自然を写す」のに「細精」であるよりも、「面白く」詠むべきだという考えを披歴していると言ってよい。

その点で注目すべきは、正岡子規が「明治二十九年の俳句界」のなかで、漱石の俳句を「活動」と二字で評価して、「意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来たりし者多し。」と述べていることである。首藤基澄は「子規と漱石――写生と連想――」(『近代文学と熊本』、和泉書院)のなかで、「活動」と評したことに対して、「具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも『活動』できる幅があった」と述べている。

明治30年2月の〔子規へ送りたる句稿二十三〕(『漱石全集』第17巻・岩波書店)をみると、「俳句のレトリック」をこれでもかこれでもかと使っている。番号は掲載順で、私が都合のいいように、「俳句のレトリック」を使った句だけを抜き出した訳ではないことを断っておく。

  1066 ○○ 人に死し鶴に生れて冴返る    空想

  1067    隻手(せきしゅ)此比(ひ)良目(らめ)生捕る汐干よな   見立て

  1068    恐らくば東風(こち)に風ひくべき薄着 

  1069 ○○ 寒山か拾得か蜂に螫(さ)されしは   連想 

  1070 ○○ ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり 比喩

  1071 ○○ 落ちさまに虻を伏せたる椿哉(かな)   擬人化

  1072    貪りて鶯続け様に鳴く      擬人化

  1073  ○ のら猫の山寺に来て恋をしつ   擬人化

  1074 ○○ ぶつぶつと大な田螺(たにし)の不平哉   オノマトペ・擬人化

子規の添削・評は句頭の○である。子規が漱石の句を高く評価しているのはいずれも「俳句のレトリック」を用いた「空想」「連想」「比喩」「擬人化」「オノマトペ」である。子規は子規で、夏目漱石の俳句の特色、あるいは魅力が「俳句のレトリック」の応用にあることを的確に掴んでいるのである。ここに漱石の俳句を「活動」と評した所以があると言わなければならない。

 

2.漱石俳句のレトリック

かつて、「夏目漱石『草枕』」(「『仕方がない』日本人をめぐって―近代日本の文学と思想」2010.9・南方新社))において、『草枕』の叙述の仕方と筋の展開には「俳句のレトリック」の応用があることを指摘した。漱石が「余が『草枕』」という文章の中で自己解説した『草枕』が「俳句的小説」であることを裏付けたのである。

※夏目漱石の『草枕』論 参照)

その『草枕』論を書く準備段階で、夏目漱石の熊本時代の俳句を調べてみて分かったことは、「写生」「季語」「取り合せ」「省略」という俳句の基本的なレトリックはむろんのこと、「デフォルメ」「連想」「擬人化」「同化」などに及び、あらゆる「俳句のレトリック」を使っていることである。

その際に参考にしたのは、漱石俳句に対して門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。

比喩=あるものを別のものに喩える          

  日当りや熟柿の如き心地あり 漱石 

 熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(小宮蓬里雨)

擬人化=人間でないものを人間に擬える         

  叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 漱石

 此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)

連想=季語の内包する美的イメージを表す    

  寒山か拾得か蜂に螫されしは 漱石

 絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)

空想=現実にありそうにもないことを想像する  

  無人島の天子とならば涼しかろ 漱石

 思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)

デフォルメ=対象を強調する          

  夕立や犇く市の十萬家 漱石

 十萬家といふ言ひ現はし方かの白髪三千丈の様ないささか誇大な形容(松根東洋城)

オノマトペ=音や声、動作などを音声化して示す 擬音語、擬声語、擬態語の3種類

  ぶつぶつと大いなる田螺の不平かな 漱石 大いなる→大な 〔句稿二十三〕

 先生の所謂修辞法の高頂点を示す(寅日子)

このように、私のみならず、漱石の門下生がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句のレトリック」に習熟していたかということを示しておきたい。

 

3.『肥後の城』の俳句レトリック

私は代表を務める「俳句大学」で、インターネットの「俳句大学ネット句会」、あるいはFacebookの「俳句大学投句欄」における、講師による「一日一句鑑賞」、会員による「一日一句互選」や週ごとの「席題で一句」「テーマで一句」「動画で一句」、特別企画の「写真で一句」などに投句し、講師として選句も担当してきた。そこで、私が提出する兼題には必ずオノマトペを出すことにしているので、当然、『肥後の城』においてはオノマトペを使った俳句が多くなる。

今村潤子は、「特集 永田満徳句集『肥後の城』」(「火神」75号)のなかで、

  春昼やぬるんぬるんと鯉の群

  しやりしやりと音まで食らふ西瓜かな

  湯たんぽやぽたんぽたんと音ひびく

を取り上げて、「擬声語、擬態語が大変旨く表現されている。このようなオノマトペを使った句は他にもあるが、そこに作者の詩人としての感性が匂ってくる。」と述べている。

また、金田佳子は、「自在なオノマトペ」(「火神」75号)と題した文章で、『肥後の城』における「オノマトペ」が「気になった」こととして、

 一章 城下町  なし

 二章 肥後の城 ぽたり、だりだり、ごろんごろん、とろり

 三章 花の城  どさり、ぬるんぬるん、ひたひた、ぼこぼこ、しゃりしゃり、ぱっくり、ぱんぱん       

 四章 大阿蘇  とんとん、ぐらぐらぐんぐん、もぞもぞ、ゆったり、じっくり、ぽたんぽたん              

などを抜き出し、「オノマトペが印象鮮明、途端に句が生き生きとし、動詞や形容詞、形容動詞で説明されるよりずっと体感する」と述べて、オノマトペのよさを指摘している。ちなみに、オノマトペを使った句を例示すると、「さみだれの音だりだりとわが書斎」「寒風にぼこぼこの顔してゐたり」「もぞもぞとなんの痛みか長崎忌」などである。

 『肥後の城』第四章の「大阿蘇」のなかの、

  ぐらぐらとどんどんとゆく亀の子よ

という句の場合、一句の中に「ぐらぐら」と「どんどん」というオノマトペを使うことによって、「左右に揺れながら一心に進んで行く」といった内容の長い文章を五七五の短い表現にできる。

オノマトペは世界一短い定型詩である俳句にとって非常に効果的であると考えてよい。

続いて、比喩は、譬えとも言うが、何かを表現したり伝えたりする際に、あえて他の事柄にたとえて表現する技法のことである。今村潤子は同じく「特集 永田満徳句集『肥後の城」(前述)において、

春の雷小言のやうに鳴り始む

  ストーブを消して他人のごとき部屋

  熱帯夜溺るるごとく寝返りす

を取り上げて、「一句目は、春の雷は夏の雷と違ってごろごろと弱く鳴っている。その様を『小言のやうに』譬えた所、二句目は『ストーブを消し』た部屋を『他人のごとき』と譬えた所に作者ならではの独自性がある。三句目は寝苦しい熱帯夜に輾転反側している様を『溺れるように』と譬えた所に、熱帯夜が唯ならぬものであることが感受できる。」と述べて、「譬えが句の中で精彩を放っている」       と指摘している。

比喩は当たり前の表現をおもしろくしたり、分かりにくいものでも分かりやすくしたりする利点がある。

更に、擬人化について触れると、『肥後の城』の第一章の「城下町」だけでも多く取り出せる。

  いがぐりの落ちてやんちやに散らばりぬ

「いがぐり」があちらこちらの散らばって落ちている様を詠んだもので、人間以外の「いがぐり」を「やんちや」坊主という人間に見立てた句である。

  さつきまでつぶやきゐたるはたた神 

極月の貌を奪ひて貨車通る     

  どんどの火灰になるまで息づけり

擬人化は意外性のある句を作ることのできる魅力的な手法であるとともに、わかりやすさ、納得しやすさという点で修辞法の代表といえる。

最後に象徴であるが、象徴は抽象的な思想・観念をわかりやすく、別の具体的な事物によって理解しやすい形で表現する方法で、近年、特に注目している「俳句のレトリック」である。

   かたつむりなにがなんでもゆくつもり

「かたつむり」がどこまでも進んでいく様子を表現している。自分のペースで進み続けることで、どんなに遠くても目的地に到達する「かたつむり」を「独立独歩」の象徴として読み取ることができる。

あめんぼのながれながれてもどりけり 

  こんなにもおにぎり丸し春の地震  

「あめんぼ」の句にしても、「おにぎり」の句にしても、「あめんぼ」が「不屈」、あるいは「おにぎり」が「真心」といった具合に、物と人間の深奥とを重層的に表現していると言うことができる。

物そのものを詠むのが俳句の骨法であるが、具体的でありながら抽象的な概念を詠み込むことができる象徴化という表現技法は「俳句のレトリック」の極北である。

『肥後の城』全体を通してみても、オノマトペに限らず、その他のレトリックの句にも好意的な評価が多かった。

 

4.俳句のレトリックの可能性 

「俳句のレトリック」に対する評価は必ずしも肯定意見ばかりではない。俳句に限らず、レトリックは一般的に評判が悪い。表現上の小技にすぎないと軽んじ、遠ざける傾向がある。特に俳句においては、古くは松尾芭蕉が高山伝右衛門宛ての書簡で作句五か条の一つとして「一句細工に仕立て候事、不用に候事(細工をしないこと)。」を記し、近年は高浜虚子の客観写生、すなわち写実的描写を重視してきたことの影響もあるのだろう。見たままをそのまま句にするのが写生であるから、当然と言えば当然である。確かに、オノマトペを含むレトリックは、例えば、擬人化の発想というのは、どうしても似たり寄ったりになりがちで、ありふれた発想、表現になることが多く、月並みに陥りやすいという欠点がある。擬人法を安易に使うと、気取った作意が透けて見え、陳腐で、薄っぺらな句になってしまうものである。

しかし、金子兜太は俳句という定型の音律形式がオノマトペを使いこなすのに格好のものであると述べている。また、漱石の「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」という言葉に触発されて俳句を始めた首藤基澄は句集『魄飛(はこび)雨(あめ)』(北溟社)の「あとがき」において、「片仮名語・擬音(態)語・方言・俗語・仮構・片言など、現在(いま)を生きる一人の人間の世界を少しでも浮かび上がらせるものであれば、それはそれでいいのではないか。」と言い、俳句表現の幅を広げるためには擬音(態)語・仮構も必要との考えをしている。

「俳句のレトリック」は言葉の力を最大限に引き出すための表現手法として重要な役割を果たす。レトリックは俳句という短詩型にとって有効な表現手段である。俳句は究極的には「レトリック」の固まりと言ってよい。作者の意図、感動を正しく読者に伝え、共感を得るために、もっと積極的に取り入れてよいのではないか。

 

終わりに

正岡子規没後、高浜虚子を中心とする「ホトトギス派」と、河東碧梧桐を中心とする「新傾向俳句」に分かれる。「新傾向俳句」が五七五調や季題にとらわれない新しい句作を提唱したのに対し、「ホトトギス派」は五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張した。その後、大正、昭和初期には客観写生派の「ホトトギス派」が俳壇の主流となり、今日に至っている。

しかし、その一方で、熊本にて運座(句会)を開き、正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした漱石俳句の継承者は全国的にみてもいない。そこで、私は漱石の俳句を俳句の「技巧派」と名付けて、漱石派の後継者を自認することを表明したい。

(令和5年度第1回湧水講演(令和5年年10月14日 熊本県立図書館3F大研修室)より文字起こしたものである。





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