No,76
フィンセント・ファン・ゴッホ、「花咲く桃の木」、19世紀オランダ、後期印象派。
人間の魂を描くことのできない画家は多いが、植物の魂を描くことのできない画家も多い。というより、描くことのできる画家はほとんどいない。人間は花や木や森の絵を、それはたくさん描くが、みな、植物を、美しく、人間に心地よさを提供してくれる環境素材以上のものには考えてはいない。
その中で、ゴッホは、植物の熱い存在を的確に描いている。ひまわりにしろ、糸杉にしろ、アイリスにしろ、アーモンドや桃やオリーヴにしろ、それぞれに人格を持った存在として描かれている。実に美しい。
ひまわりを選ぼうと思ったがね、こちらの方が涼やかで美しいので選んだ。
植物存在はものではない。妖精のように荒く利己的な存在でもない。優雅な人格を持った、洗練された魂だ。その生き方を生きるのにふさわしい魂が内部にいる。
人間はもっと、植物というものに、リアルに迫ってみねばならぬ。そこには、人間には知りえない、深い世界がある。
ゴッホは、その卓越した感性の中で、知らず知らずのうちに、植物の魂を感じていたのだ。
フィンセント・ファン・ゴッホ、「花咲く桃の木」、19世紀オランダ、後期印象派。
人間の魂を描くことのできない画家は多いが、植物の魂を描くことのできない画家も多い。というより、描くことのできる画家はほとんどいない。人間は花や木や森の絵を、それはたくさん描くが、みな、植物を、美しく、人間に心地よさを提供してくれる環境素材以上のものには考えてはいない。
その中で、ゴッホは、植物の熱い存在を的確に描いている。ひまわりにしろ、糸杉にしろ、アイリスにしろ、アーモンドや桃やオリーヴにしろ、それぞれに人格を持った存在として描かれている。実に美しい。
ひまわりを選ぼうと思ったがね、こちらの方が涼やかで美しいので選んだ。
植物存在はものではない。妖精のように荒く利己的な存在でもない。優雅な人格を持った、洗練された魂だ。その生き方を生きるのにふさわしい魂が内部にいる。
人間はもっと、植物というものに、リアルに迫ってみねばならぬ。そこには、人間には知りえない、深い世界がある。
ゴッホは、その卓越した感性の中で、知らず知らずのうちに、植物の魂を感じていたのだ。